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第28話 卵を焼く朝

翌朝、少女はいつもより少し早く目を覚ました。


 窓の外は明るくなり始めたばかりで、東の空には薄い雲が細長く伸びている。昨夜は風が弱かったらしく、庭先の草には露が残り、遠くから聞こえる鶏の声もまだ一羽、二羽と疎らだった。


 身体を起こしても、昨日聞いた王都の話が真っ先に浮かぶことはなかった。


 代わりに思い出したのは、台所に残っている二つの卵だった。


「……割るのでした」


 寝台の上で呟き、自分で少し可笑しくなる。


 公爵家の令嬢として十九年生きてきて、卵を割ることを前日の夜から予定に入れたことなど一度もない。料理が作られているところを見た経験ならあるが、自分の食事は誰かが用意してくれるものであり、厨房へ入って手を出すなど考えたこともなかった。


 だから昨日、マーサが卵を焼くところを見ていた時には、驚くほど簡単に見えた。


 殻を割る。


 中身を器へ落とす。


 油を引いた鍋へ入れる。


 火を通す。


 それだけである。


 少なくとも、見ている限りでは。


「……できるでしょうか」


 口にした直後、少女は首を傾げた。


 できるかどうかではない。


 やってみるのだった。


 失敗したら、殻を取ればいい。


 焦がしたら――どの程度なら食べられるのかは分からないが、マーサへ聞けばいい。


 少女は寝台から降り、右足へゆっくり体重を乗せた。踵にはほとんど痛みがなく、昨日まで残っていた薄い違和感も、今朝は探さなければ分からないほどになっている。


「零……だと思います」


 それでも、今日一日ずっと零だと決める必要はない。


 歩いて変われば、その時また考える。


 少女は着替えを済ませ、髪を整えてから部屋を出た。


 台所へ入ると、マーサは既に起きていた。


 ただし、朝食の支度はまだ始めていない。


 卓に座り、湯気の立つ飲み物を両手で包みながら、窓の外をぼんやり眺めている。


「おはようございます」


「おはよう」


 マーサは少女を見る。


「早いね」


「卵を焼こうと思いまして」


「ああ」


 それだけ言って、また器へ口をつける。


 少女は少し待った。


 マーサは動かない。


「あの」


「なんだい?」


「卵を焼こうと思うのですが」


「聞いたよ」


「……教えていただけますか?」


「昨日見てただろ」


 少女は言葉に詰まった。


 確かに見ていた。


 それでも、一度見ただけで全てできるとは思えない。


 そう思った瞬間、妹の姿が頭の端へ浮かんだ。


 一度見ただけでできた。


 何度もそう言われた。


 けれど、少女はその考えが広がる前に気づいた。


「今、妹のことを考えました」


 マーサが器を置く。


「朝から忙しいね」


「私の頭の中だけですが」


「で?」


「一度見たのだから、できなければいけないと思いました」


「誰が言った?」


「誰も」


「なら聞けばいいだろ」


「……はい」


 少女は小さく息を吐いた。


「教えてください」


「いいよ」


 マーサがようやく椅子から立ち上がった。


 昨日買った卵は二つ残っている。


 少女はそのうち一つを手に取った。


 薄い茶色の殻。


 掌へ載せれば驚くほど軽い。


「まず割る」


「はい」


「器の縁にぶつける」


「どのくらいの強さですか?」


「割れるくらい」


 少女はマーサを見る。


「それが分からないのですが」


「なら弱くやってみな」


「弱すぎたら?」


「割れないだけだよ」


 それを聞いて、少女は少し安心した。


 失敗すれば卵が駄目になると思っていた。


 けれど、弱すぎる失敗なら何も起きない。


 少女は器の縁へ卵を軽く当てた。


 こつ、と乾いた音がする。


 殻は割れない。


「……弱かったです」


「そうだね」


「もう一度やっても?」


「卵は逃げないよ」


 少女は少しだけ力を強くした。


 二度目。


 今度は殻に細い亀裂が入った。


「あ」


「そこに指入れて開く」


「はい」


 少女は亀裂へ両手の親指を当てた。


 力を入れる。


 開かない。


 もう少し力を入れる。


 急に殻が割れた。


「わっ」


 中身が器へ落ちる。


 黄身は無事だった。


 けれど、小さな殻の欠片も一緒に落ちている。


 少女は固まった。


「……入りました」


「入ったね」


「どうしましょう」


「取る」


「はい」


 昨日言われた通りだった。


 少女は指を入れようとして止まる。


「手で?」


「嫌なら匙でもいいよ」


「匙にします」


 小さな木匙を持ち、透明な白身の中を逃げる殻を追う。


 意外に難しい。


 押すと逃げる。


 掬おうとすると沈む。


「……動きます」


「そりゃ動くよ」


「殻なのに」


「白身が動いてんだよ」


 マーサが横から見ている。


 少女はしばらく格闘し、ようやく殻を掬い上げた。


「取れました」


「よかったね」


 少女は器の中を見る。


 殻はもう見当たらない。


「一つ割るだけで、こんなに時間がかかるとは思いませんでした」


「最初だからね」


「マーサさんは何秒くらいですか?」


「数えたことないよ」


「比べようと思ったのですが」


「誰と?」


「マーサさんと」


「なんで?」


 少女は少し考えた。


「……必要ありませんね」


「そうだね」


 マーサは笑った。


 次は火だった。


 昨日使った小さな鉄鍋を竈へ載せ、油を少し入れる。


「少しとは、どの程度でしょう」


「それくらい」


「まだ入れていません」


「だからやってみな」


 少女は油の入った小瓶を傾けた。


 思っていたより勢いよく出る。


「多い!」


 マーサの声に慌てて瓶を起こした。


 鍋の底には、昨日より明らかに多い油が広がっている。


「……すみません」


「飲むほどじゃないよ」


「戻せますか?」


「戻さない」


「では、このまま?」


「このまま」


 少女は鍋を見る。


 失敗した。


 けれど、まだ終わってはいない。


「次は少なくします」


「そうしな」


 火の強さを調整する。


 これは魔法ではなく、竈の薪と空気で加減するため、少女にはさらに難しかった。


「もっと弱く」


「これくらいですか?」


「もう少し」


「こう?」


「それでやってみな」


 マーサは正解を細かく指定しない。


 少女は少し不安だったが、昨日見た状態を思い出しながら鍋を温めた。


「もう卵を入れてよいですか?」


「どう思う?」


 少女は困った。


 鍋を見る。


 油を見る。


 手を近づけるのは危ない気がする。


「分かりません」


「じゃあこれ」


 マーサが小さな木片の先へ水を一滴つけ、鍋の近くへ落とす。


 ぱち、と音がした。


 少女の肩が揺れる。


「熱くなってる」


「音で見るのですか?」


「やり方はいろいろあるよ。慣れりゃ見ても分かる」


「私はまだ分かりません」


「だから今日はこれでいい」


 少女は頷いた。


 器から卵を鍋へ流し入れる。


 じゅっ、と大きな音がした。


「……!」


 少女は思わず一歩下がった。


 白身の縁がすぐ白く変わり、油が小さく跳ねる。


「怖いかい?」


「少し」


「なら近づきすぎるな」


「はい」


 少女は長い柄の道具を持った。


 昨日、マーサが卵の縁を整えるのに使っていたものだ。


「これを?」


「焦げつきそうなところを少し剥がす」


「どこが焦げつきそうなのですか?」


「見てな」


 マーサが少女の手から道具を取らず、指で鍋の端を示す。


 白身の薄い部分が茶色くなり始めている。


「あそこ」


「はい」


 少女は慎重に道具を差し込んだ。


 力を入れすぎた。


 白身の端が破れる。


「あ」


「破れたね」


「……失敗でしょうか」


「食べるのに困る?」


 少女は鍋を見る。


 形は少し崩れた。


 けれど、卵であることは変わらない。


「困らないと思います」


「なら続けな」


「はい」


 少女はもう一度道具を入れた。


 少しずつ白身が固まっていく。


 黄身は中央からずれ、形も昨日マーサが作ったものほど綺麗ではない。


 油も少し多い。


 端は一部茶色い。


 それでも卵らしいものにはなっている。


「いつ取り出すのですか?」


「黄身どうしたい?」


「どう、とは?」


「柔らかいのがいいか、固いのがいいか」


 少女は目を瞬いた。


「選べるのですか?」


「火を長く通せば固くなる」


「昨日は?」


「少し柔らかめ」


「では、今日は」


 答えかけて止まる。


 昨日と同じにする必要はない。


「固い方にしてみたいです」


「ならもう少し待ちな」


「はい」


 少女は鍋を見る。


 自分がどう食べたいか。


 料理には正解が一つあると思っていた。


 けれど、黄身の固さすら選べるらしい。


「マーサさんはどちらが好きですか?」


「あたしは柔らかい方」


「では、私が固い方を選ぶと、別々になりますね」


「なるね」


「面倒では?」


「卵一個ずつ焼くだけだろ」


「……そうですか」


 少女は少し笑った。


 同じものを食べなくてもいい。


 自分の好みが誰かと違っても、迷惑ではないらしい。


 やがてマーサが「もういいんじゃないかい」と言った。


 少女は火から鍋を外す。


 皿へ移すところでも少し形が崩れた。


 出来上がった卵は、昨日のものよりずっと不格好だった。


「……丸くありません」


「卵だからね」


「昨日のマーサさんのものは、もっと綺麗でした」


「食べてみな」


「はい」


 少女は卓へ運んだ。


 黒パンと昨夜の残りの豆。


 そして、自分で焼いた卵。


 マーサの分は、マーサ自身が隣で手早く焼いた。


 二つを並べると違いは明らかだった。


 少女の方は白身の端が焦げ、油が少し多く、黄身も中央から外れている。


 マーサの方は綺麗にまとまっている。


「……かなり違いますね」


「違うね」


「食べられるでしょうか」


「食べてみりゃ分かる」


 少女は自分の卵を切った。


 黄身は希望した通り固くなっている。


 一口食べる。


「……おいしいです」


「そりゃよかった」


「端は少し苦いです」


「焦げたからね」


「でも、食べられます」


「なら次は焦がさなきゃいい」


「はい」


 少女はもう一口食べた。


 昨日のマーサの卵とは違う。


 どちらが上手かと聞かれれば、迷う必要もなくマーサだ。


 けれど、自分で作ったものを食べている。


「私、卵を焼けました」


「焼けたね」


「綺麗ではありませんが」


「うん」


「少し焦げました」


「うん」


「油も多かったです」


「そうだね」


 マーサはパンを食べながら淡々と認める。


 少女はその反応が可笑しくなった。


「そこは否定してくださらないのですね」


「焦げてるもんを焦げてないって言ってどうするんだい」


「そうですね」


 少女は笑った。


 食べ終わる頃には、焦げた端までほとんど残っていなかった。


 少女は空になった皿を見る。


 失敗した部分はあった。


 それでも朝食になった。


「明日はもう一つあります」


「あるね」


「もう一度焼いてもよいですか?」


「好きにしな」


「今度は油を少なくします」


「そうしな」


「火も少し弱くして」


「うん」


「黄身は……」


 少女は考える。


「次は柔らかい方にしてみます」


「そうかい」


 昨日と同じものを正確に再現するのではなく、違うものを試してみたい。


 そう思えたことが少し嬉しかった。


 朝食後、少女は洗い物を手伝った。


 油の多かった皿はいつもより洗いにくく、マーサに「だから入れすぎなんだよ」と笑われた。


「次は減らします」


「忘れなきゃね」


「紙に書きます」


「そこまでしなくてもいいだろ」


「私は書いた方が覚えます」


「なら書きな」


 少女は自分のやり方を否定されなかった。


 片づけが終わると、外はすっかり明るくなっていた。


 少女は家の前へ出る。


 昨日の外側警戒線の反応について、朝になればユウたちがもう一度確認すると言っていた。


 気になっていないわけではない。


 けれど、自分が確認へ行く必要はない。


 少女は家の前で少し迷った後、昨日書いた紙を取り出した。


『卵四つ。最初、代金を間違えた。次は分かる』


『石鹸はまだ待つ。記録札を一つ直した』


『明日、卵を焼いてみる』


 三行目へ一本線を引く。


 その横へ書き足した。


『焼いた。少し焦げた。食べられた』


 少女はその文字を見て、口元を緩めた。


「何笑ってんの?」


 突然横から声がして、少女は肩を揺らした。


 顔を上げると、ユウが道に立っている。


「驚かせないでください」


「ごめん」


「いつからいたのですか?」


「今来た」


 ユウは少女の手元を見る。


「何書いてたの?」


 少女は紙を胸元へ寄せた。


「秘密です」


「そっか」


 本当にそれだけだった。


「……気にならないのですか?」


「気になるけど、秘密なんでしょ?」


「はい」


「じゃあ見ない」


 少女は紙を見る。


 昨日マーサにも「嫌です」と言ったら、それ以上見せろとは言われなかった。


 自分のもの。


 見せたくないなら、見せなくていい。


「卵を焼いたことだけは教えます」


「できた?」


「少し焦げました」


「食べられた?」


「はい」


「じゃあ成功じゃん」


 少女は眉を寄せた。


「成功なのでしょうか」


「朝ご飯作るのが目的なら」


「綺麗に焼くことが目的なら?」


「ちょっと失敗?」


「……目的で変わるのですね」


「たぶん」


 ユウは肩をすくめた。


「警戒線は?」


 少女が尋ねる。


「今朝見てきた。夜の反応はなし」


「足跡は?」


「昨日の鹿っぽいやつ以外、新しいのは見つかってない」


「そうですか」


「ケルさんがもう少し北側見てる。俺とドランさんは戻ってきた」


「では、まだ昨日の一度だけ?」


「うん」


 少女は東の方角を見る。


 何も見えない。


 家々の向こうに森があるだけだ。


「感度は変えますか?」


「まだ変えないつもり」


「昨日と同じですね」


「うん。もう少し見たい」


 少女は頷いた。


「分かりました」


 すぐに安心しきるわけでも、危険だと決めるわけでもない。


 一度の反応。


 鹿に近い足跡。


 それ以上は、まだない。


「今日は何するの?」


 ユウが尋ねた。


 少女は答えようとして止まる。


 昨日までは予定があった。


 商人の話を聞く。


 サナの石鹸を手伝う。


 今日は、朝の卵以外には何も決めていない。


「……決めていません」


「そっか」


「ユウさんは?」


「ベルさんのとこ行く」


「何か作るのですか?」


「昨日ハインさんに言われた金具じゃないよ」


「まだ何も聞いていません」


「作れって言われるかと思って」


 少女は笑った。


「私はハインさんではありません」


「知ってる」


「では、何を?」


「東の見張り場所の椅子、ちょっと直したいって。座る人によって高さ変えられないかって話になって」


 少女は目を瞬いた。


「高さを?」


「今のだと一応座れるけど、ベルさんには低くて、ガルドさんにはどうでもいいらしい」


「ガルドさんは?」


「『座れれば何でもいい!』って」


「言いそうですね」


 少女は少し笑った。


 東側に作られた簡単な見張り場所。


 そこには、少女が「座って見張れないか」と言ったことから用意された椅子がある。


 最初は一つの高さだった。


 けれど使ってみれば、合わない人がいる。


「一度作っても、また変えるのですね」


「ベルさん、そういうの好きみたい」


「以前、棚も直していました」


「ああ。高すぎたやつ?」


「はい」


 少女は少し考える。


「見に行ってもよいですか?」


「ベルさんのとこ?」


「はい」


「聞いてみれば?」


「では、行きます」


 言ってから、自分の中を確かめる。


 ユウが行くからではない。


 見張り場所の椅子がどう変わるのか気になる。


 ベルの作業を見るのも面白い。


「私も行きたいです」


「うん」


 ユウは普通に頷いた。


 二人でベルの作業場へ向かった。


 朝の村では既にそれぞれの一日が始まっている。


 ガルドは畑の端で土を確かめ、オルドは鶏小屋の前にいる。井戸では二人の女性が桶へ水を移しながら話しており、少女が通ると「おはよう」と声をかけてきた。


「おはようございます」


 少女も返す。


 もう、その程度の挨拶で身体が強張ることはほとんどない。


 けれど、一人が少女の足元を見て「もう大丈夫そうだね」と言った時には、少しだけ返事を考えた。


「はい。今朝は零でした」


「零?」


「痛みです」


「ああ」


 女性は笑った。


「ならよかった」


「はい」


 それだけで会話は終わる。


 少女は歩きながら、自分が「治りました」と言わなかったことに気づいた。


 今朝は零。


 それだけ。


 明日は分からない。


 それでよい。


 ベルの作業場へ着くと、既に木を削る音が聞こえていた。


「おはようございます」


「おう」


 ベルは作業台から顔を上げる。


「今日は鑿か?」


 少女は少し迷った。


 昨日は石鹸を選び、鑿は別の日にすると言った。


 今日はやろうと思えばできる。


「椅子を直すと聞きました」


「ああ」


「そちらを見てもよいですか?」


「好きにしろ」


「鑿は?」


「逃げんと言っただろ」


 少女は笑った。


「では、今日は椅子を見ます」


「そうしろ」


 選ばなかったからといって、機会が消えない。


 それが少しずつ分かってきた。


 作業台の横には、見覚えのある簡素な椅子が置かれていた。


 東側の見張り場所に置かれていたものだ。


 座面の下へ新しい木材が当てられている。


「これを高くするのですか?」


「高くも低くもする」


 ベルが別の木材を見せる。


「脚を直接変えると面倒だからな。座面の下へこいつを入れる」


「取り外せるように?」


「そうだ」


 少女はしゃがんで構造を見る。


 木材の両端には浅い溝がある。


 椅子側の突起へ噛み合わせるらしい。


「一段だけですか?」


「二段考えてる」


「では、三種類の高さ?」


「そのつもりだ」


 少女は感心した。


「最初からこの形にはしなかったのですか?」


「必要だと思わなかった」


 ベルは平然と答える。


「使ってから分かった」


「失敗では?」


「失敗だな」


 少女はベルを見る。


 あまりにも簡単に認める。


「嫌ではないのですか?」


「何が?」


「作ったものを直すことが」


「直せるなら直す」


「最初から完璧に作れなかったと」


「思わん」


 ベルは木材へ印をつける。


「座る奴の尻全部測ってから作る方が嫌だ」


 ユウが吹き出した。


「それは嫌ですね」


「だろ」


 少女も笑いそうになったが、少し堪えた。


「尻ではなく、脚の長さでは?」


「座れりゃ同じだ」


「同じではないと思います」


「細かいな」


「ベルさんが作るものなのですが」


 ベルは面倒そうに鼻を鳴らした。


 作業が始まる。


 少女は邪魔にならない位置へ立ち、ベルの手元を見る。


 印をつける。


 鋸で切る。


 鑿で溝を削る。


 自分が先日触った道具が、ベルの手の中ではまるで別物のように動いている。


 速い。


 迷いが少ない。


 少女はその手元を見ながら、自分が削った練習用の木片を思い出した。


 一度目。


 二度目。


 欠けたところ。


 少し上手くいったところ。


「ベルさん」


「なんだ」


「やはり、すごくお上手ですね」


「何年やってると思ってる」


「以前の私なら、これを見て自分には向いていないと思ったかもしれません」


「今は?」


「私がベルさんより下手なのは、当然だと思います」


「当然だ」


「そこまで強く言わなくても」


 ベルは笑う。


「でも」


 少女は続ける。


「下手でも、またやってみたいです」


「ならやればいい」


「はい」


 それだけでよかった。


 ユウは灰色の魔導書を開いていた。


 ベルが切り出した小さな金具を補強するらしい。


 灰色の頁へ指を置き、何かを確認している。


「それ、昨日ハインさんが欲しがっていたものと同じですか?」


「似てるけど違うよ」


「違う?」


「売ったやつは単純な補強。これは何回も外したりつけたりするから、摩耗しにくくしたい」


「魔法で?」


「できると思う」


「思う?」


「まだ試してないから」


 少女は意外だった。


「魔導書に書いてあるのでは?」


「大体のことは。でも、材料とか形で変わるから」


「失敗することも?」


「あるよ」


「ユウさんでも?」


「俺でもっていうか、俺が一番この本のこと分かってない気がする」


 少女は灰色の本を見る。


 十冊もの魔導書。


 規格外の力。


 王都の人間なら、きっとそれだけでユウを特別な存在として扱う。


 けれど本人は、分からないものを分からないと言う。


「試すぞ」


 ベルが小さな金具を作業台へ置く。


 ユウが灰色の頁へ触れた。


 淡い光が金具を包む。


 少女は少し身を乗り出した。


 光は数秒で消えた。


「できましたか?」


「たぶん」


「たぶん?」


 ベルが金具を手に取り、木材へ取りつける。


 何度か動かす。


 外す。


 またつける。


「少し固いな」


「補強しすぎた?」


「かもしれない」


 ユウが金具を受け取る。


「もう一回やる?」


「いや」


 ベルは首を振った。


「これ削ってみる」


「魔法をやり直さないのですか?」


 少女が尋ねる。


「せっかくあるんだから使えるか見る」


 ベルは工具を手に取る。


 補強された金具を少しずつ削る。


「硬いな」


「すみません」


「謝るな。硬くしろって言ったの俺だ」


「でも」


「次は弱くすりゃいい」


 少女は二人を見る。


 失敗。


 調整。


 また試す。


 昨日の警戒線と同じだった。


 しばらくして、金具はちょうどよい固さになった。


 椅子へ取りつける。


 座面の高さを変えるための木材を差し込み、外す。


 何度か繰り返しても問題ない。


「できた」


 ベルが言う。


「試すか」


 少女は椅子を見る。


「誰が?」


「お前」


「私ですか?」


「そこにいるだろ」


「ユウさんもいます」


「俺でもいいけど」


 ユウが座ろうとする。


「待て」


 ベルが止めた。


「先にこいつだ」


 少女は目を瞬く。


「なぜですか?」


「お前、前に座って見張れるようにしたらどうだって言っただろ」


「はい」


「なら座れ」


 少女は少し戸惑いながら椅子へ腰を下ろした。


 まず一番低い状態。


「どうだ」


「少し低いです」


「足は?」


「床にはつきます。でも、長く座るならもう少し高い方が楽だと思います」


「じゃあ一段」


 少女が立ち、ベルが木材を差し込む。


 もう一度座る。


「あ」


「どうだ」


「こちらの方が楽です」


「背中は?」


「背もたれに自然に届きます」


「膝は?」


「苦しくありません」


 ベルが頷く。


「じゃあお前は一段」


「私用ではありませんよね?」


「目安だ」


「なるほど」


 次はユウが座る。


「俺はこれでいいかも」


「お前、適当に言ってないか?」


「いや、本当に」


「背中つけろ」


「はい」


「足」


「ついてます」


「膝」


「普通」


 ベルが眉を寄せる。


「役に立たんな」


「なんで?」


 少女は笑った。


 その後、たまたま通りかかったガルドまで呼ばれた。


「何だ!」


「座れ」


「よし!」


 理由も聞かず座る。


「どうだ」


「座れる!」


「高さは」


「いい!」


「一段上げるぞ」


「いい!」


「まだ上げてない!」


 ベルが怒鳴る。


 少女は堪えきれず声を上げて笑った。


 ユウも壁に手をついて笑っている。


「ガルドさん、本当に何でもよいのですね」


「椅子は座れれば椅子だ!」


「だから参考にならん!」


 ベルの声が作業場へ響いた。


 騒ぎを聞きつけたのか、オルドまで顔を出した。


「何やってんだ」


「椅子だ!」


「見りゃ分かる」


「座れ!」


「嫌だ」


 ガルドとは正反対だった。


「なぜです?」


 少女が尋ねる。


「今座りたくない」


「……そうですか」


「あとでなら座る」


「はい」


 少女は自然に頷いた。


 ベルも「じゃああとで来い」と言うだけだった。


 少女はそのやり取りを見ながら、ふと思う。


 座れるから座る必要はない。


 できるからやる必要もない。


 昨日まで何度も触れてきた考えが、村のあちこちに普通に存在している。


 誰も大げさな教訓として語らない。


 ただ、そう暮らしている。


 椅子の調整が終わる頃には、朝より陽が高くなっていた。


 ベルは完成した部品を箱へ入れる。


「昼から見張り場所へ持ってく」


「私も行ってよいですか?」


 少女が尋ねる。


 ベルより先にユウが答えようとして、少し止まった。


「足は?」


「零です」


「疲れは?」


 少女は自分の身体を確かめる。


 朝食。


 歩行。


 作業見学。


 今はまだそれほど疲れていない。


「二くらいです」


「じゃあ、ローデンさんに聞いてみる?」


「はい」


 ユウが決めない。


 少女もそれが自然になってきた。


 昼前にローデンへ確認すると、東の見張り場所までなら問題ないと言われた。


「ただし森へは入るな」


「はい」


「警戒線の外へも出るな」


「分かりました」


「何か見つけても勝手に追わない」


「はい」


 少女はそこで少し笑った。


「私は追跡できません」


「できるかどうかじゃない」


「……そうでした」


 ローデンも口元を緩める。


 昼食後、少女は一度マーサの家で休んだ。


 午前中に動いたから。


 東へ行くなら、その前に休む。


 以前なら「まだ疲れていないから」とそのまま出ただろう。


 今は、疲れ切る前に座ることを少しずつ覚えている。


 窓辺の椅子へ腰を下ろし、水を飲む。


「昼から東へ行くんだって?」


 マーサが尋ねる。


「はい。見張り場所までです」


「何しに?」


「椅子を直すところを見に」


「椅子」


「高さを変えられるようになりました」


「便利になったね」


「私も試しました」


「そうかい」


 マーサは特に驚かない。


「森へ入るんじゃないよ」


「ローデンさんにも言われました」


「ならいい」


 少女は少し休んでから立ち上がった。


 疲れは二から一へ下がった気がする。


「行ってきます」


「おう」


 東側へ向かうのは、少女にとってまだ少し特別だった。


 村の家々が少なくなり、畑の向こうに森が近づいてくる。


 あの森のさらに先。


 古い道。


 境界。


 自分が捨てられた場所。


 少女は歩きながら呼吸が少し浅くなったことに気づいた。


「大丈夫?」


 隣を歩くユウが尋ねる。


「はい」


 反射的に答えてから、少女は言い直す。


「……少し緊張しています」


「戻る?」


「いえ」


 少女は森を見る。


「今は三くらいです」


「じゃあ上がったら言って」


「はい」


 前を歩くベルは椅子の部品を持ち、ドランは工具箱を抱えている。


 誰も少女を急かさない。


 見張り場所が見えてきた。


 小さな屋根。


 雨風を完全に防ぐほどではないが、座って東側を確認できる程度の簡素な作り。


 少女が以前出した案から生まれた場所だった。


「ここへ来るのは、作った時以来ですね」


「そうだっけ?」


「はい」


 少女は屋根の下へ入る。


 椅子が一つ。


 簡単な台。


 水を置ける場所。


 銀色の警戒線そのものは目には見えないが、ユウには魔導書を通して状態が分かるらしい。


「昨日鳴ったのはどの辺りですか?」


 少女が尋ねる。


 ユウは森の北寄りを指す。


「あっち。ここからだと木でほとんど見えないけど」


「入ってはいないのですよね」


「内側には反応なし」


「鹿に近い足跡が一組」


「うん」


 少女はそれ以上想像を広げなかった。


 事実だけを置く。


 ベルが椅子の作業を始める。


 少女は屋根の端から森を眺めた。


 昼の森は明るい。


 鳥の声も聞こえる。


 それでも、以前より少ないのかもしれない。


 自分には分からない。


「鳥、戻ってきてるな」


 ドランが呟いた。


 少女は振り返る。


「以前よりですか?」


「少しな」


「それは、よいことですか?」


「たぶんな」


 ドランは森を見る。


「ただ、今日聞こえるから全部元通りって話でもない」


「はい」


 少女は頷いた。


「今日は少し多い。それだけですね」


「そうだ」


 また一つ、決めつけずに置いておく。


 椅子の調整は思ったより早く終わった。


 ベルが取りつけた部品を確認し、何度か高さを変える。


「座れ」


 また少女が指名された。


「私ばかりですね」


「お前が一番細かく言うからな」


「褒められていますか?」


「知らん」


 少女は笑いながら座った。


 一段。


 午前中と同じ高さ。


「どうだ」


「こちらなら長く座れそうです」


「じゃあ次」


 二段。


 少し高い。


「これは私には高いです。足の裏が少し浮きます」


「なら一段」


 ベルが木札へ印をつける。


「何を書いたのですか?」


「一段目、小柄な奴」


「私の名前ではないのですね」


「名前書いたらお前専用みたいになるだろ」


 少女は一瞬言葉を失った。


 それから、ゆっくり頷く。


「そうですね」


 自分が考えたもの。


 自分が試したもの。


 けれど、自分だけのものではない。


 村で使う椅子だから。


「座る人が変われば、変えればよい」


 少女が言う。


「そういうことだ」


 ベルは道具を片づける。


 少女は椅子に座ったまま、東の森を見た。


 ここなら、長く見張る時にも立ち続けなくていい。


 腰の悪いベルでも。


 疲れた人でも。


 誰かと交代しながら使える。


 最初から完璧ではなかった。


 使ってから変えた。


 それでよい。


「ユウさん」


「ん?」


「前の仕事でも、こういうことをしていたのですか?」


「椅子?」


「使う人に合わせて、後から変えることです」


 ユウは少し考えた。


「結構あったよ」


「例えば?」


「椅子の高さ変えたり、手すりつけたり、物の置き場所変えたり。立つの大変な人なら、立ちやすい高さにするとか」


「魔法はないのですよね」


「ない」


「では、道具で?」


「道具っていうか、置き方変えるだけの時もあるよ」


 少女は興味を持った。


「それだけで変わるのですか?」


「変わることあるよ。本人ができないんじゃなくて、やりにくい場所になってるだけとか」


 ユウは見張りの椅子を見る。


「まあ、何でもそれで解決するわけじゃないけど」


「できない人を変えるのではなく、周りを変える」


「そういう時もある」


 少女はしばらく考えた。


 公爵家では、自分が環境へ合わせるのが当然だった。


 椅子が高ければ姿勢を工夫する。


 予定が厳しければ自分が早く動く。


 求められる基準へ届かなければ、もっと練習する。


 自分が足りない。


 自分が変わらなければならない。


 ずっと、そう思っていた。


「私も」


 少女は口を開き、少し迷う。


「私も、変わらなければいけないのでしょうか」


 ユウが少女を見る。


「何が?」


「今までの考え方を」


 少女は自分の膝を見る。


「妹と比べることも、何かしなければここにいてはいけないと思うことも、すぐ謝ってしまうことも。少しずつ減ってはいます。でも、まだ出ます」


「うん」


「全部、直した方がよいのだと思います」


 森から風が吹く。


 見張り小屋の屋根が小さく軋んだ。


「直したい?」


 ユウが尋ねた。


 少女はすぐに答えられなかった。


「……苦しいものは、減らしたいです」


「うん」


「でも」


 昨日サナと話したことを思い出す。


「全部なくなったら、今までの私まで否定するような気もします」


 ユウはしばらく黙った。


 少女も急かさない。


「なくさなくていいんじゃない?」


 やがてユウが言った。


「でも、苦しいです」


「じゃあ使わなきゃいい時に使わないようにするとか」


「考え方を?」


「うん」


 ユウは椅子を指す。


「この椅子も低いことが悪かったわけじゃないでしょ」


 少女は椅子を見る。


「低い方が合う人もいます」


「うん。だから低い椅子を壊して高い椅子に作り直したんじゃなくて、変えられるようにした」


 少女は息を止めた。


「前のあんたに必要だった考え方もあるのかもしれないし」


 ユウは続ける。


「今はいらないなら、毎回使わなくてもいいんじゃない?」


「……そんなふうにできますか?」


「知らない」


 また同じ答えだった。


 少女は思わず笑った。


「そこは分からないのですね」


「人間の頭、魔導書より分かんないし」


「魔導書も分からないと言っていました」


「じゃあ両方分かんない」


「何なら分かるのですか?」


「昼飯食べたから今は腹減ってない」


 少女は声を立てて笑った。


 ベルが工具箱を抱えながら振り返る。


「帰るぞ」


「はい」


 少女は椅子から立ち上がった。


 森を見る。


 不安は二くらいまで下がっていた。


「戻ります」


 誰に言うでもなく口にする。


 自分でここまで来た。


 自分で帰る。


 村へ戻る道で、少女は少し歩みを緩めた。


 右足の踵に、ほんの僅かな違和感が出ている。


「ユウさん」


「ん?」


「足、一になりました」


「痛い?」


「痛いというより、少し気になる程度です」


「じゃあゆっくり行く?」


「はい」


 ベルとドランにも伝える。


 二人は何も言わず歩調を落とした。


 少女はそのことに「すみません」と言いかけた。


 口を開く。


 止める。


「ありがとうございます」


 代わりに言った。


「おう」


 ベルが答える。


 それだけだった。


 村へ戻った時には、午後の日差しが少し柔らかくなっていた。


 少女はそのままマーサの家へ帰る。


「戻りました」


「おかえり」


 台所から声がする。


 少女は靴を脱ぎ、椅子へ座った。


 足を休める。


「どうだった?」


 マーサが尋ねる。


「椅子の高さが変えられるようになりました」


「そうかい」


「私には一段高くした状態がちょうどよかったです」


「そう」


「ガルドさんは全部『いい』と言いました」


「聞かなくても分かるね」


「オルドさんは座りたくないから座りませんでした」


「それもあの爺さんらしいね」


 少女は笑う。


「それから」


 少し考える。


「考え方も、全部捨てなくてもよいのかもしれないと思いました」


 マーサが振り返る。


「何の話だい?」


「今日の椅子の話です」


「全然分からん」


「私には分かるので大丈夫です」


「ならいいけどね」


 マーサは夕食の準備へ戻った。


 少女はしばらく休んだ。


 足の違和感は消えていく。


 零に戻ったかどうかまで細かく確認する必要はないと思い、そのまま座っていた。


 ふと、卓の端に昨日の紙が見える。


 少女は手を伸ばした。


 朝に書き足した一文。


『焼いた。少し焦げた。食べられた』


 その下へ、もう一つ書く。


『見張りの椅子。高さを変えられるようになった。最初から全部合わなくても、後で変えられる』


 書いてから、少し考える。


 これは卵や石鹸の記録とは少し違う。


 けれど消さなかった。


「マーサさん」


「なんだい?」


「紙を、もう少し買っておけばよかったかもしれません」


「ハインが次来たら買えば?」


「それまで足りなくなったら?」


「ローデンに聞きな。村の分が少しあるだろ」


「でも、高いのでしょう?」


「ただではやらんよ」


「払います」


「なら聞けばいい」


 少女は頷いた。


 紙。


 炭筆。


 自分で買った卵。


 自分が手伝った石鹸。


 削った木片。


 どれも大きなものではない。


 それでも、少しずつ自分の生活が形になっている。


 夕食の準備を見ながら、少女はふと尋ねた。


「マーサさん」


「今度は?」


「空いている家のお話、覚えていますか?」


 マーサの手が止まった。


「覚えてるよ」


「いくつかあると、以前おっしゃっていました」


「あるね」


 少女は膝の上で手を組んだ。


 ここに来たばかりの頃は、一人で暮らすなど考えられなかった。


 マーサの家から出ることを想像しただけで、少し寂しいと感じた。


 今も、その気持ちはある。


 追い出されたいわけではない。


 マーサと暮らすのが嫌になったわけでもない。


「見てみても、よいでしょうか」


 少女はゆっくり言った。


「住むと決めるわけではありません。ただ、どのような家があるのか」


 マーサは少女の顔を見る。


「見たいのかい?」


「はい」


 今度は迷わなかった。


「見てみたいです」


「ならローデンに聞きな」


「明日でも?」


「家は逃げないよ」


 その言葉に、少女はベルの「木は逃げん」を思い出した。


「この村では、色々なものが逃げませんね」


「何の話だい?」


「いえ」


 少女は笑った。


 夜。


 夕食を終え、洗い物も済ませてから、少女は寝室へ戻った。


 今日使った紙を机へ置く。


 その隣には、王都について記録した別の紙がある。


 少女はそちらを開かなかった。


 今日は必要ないと思った。


 妹のことを忘れたわけではない。


 父のことも。


 王都のことも。


 ただ、今日一日は新しい情報がなかった。


 なら、何度も読み返して答えを作る必要はない。


 代わりに、今日の紙を見る。


『焼いた。少し焦げた。食べられた』


『見張りの椅子。高さを変えられるようになった。最初から全部合わなくても、後で変えられる』


 少女はその下へ、もう一行加えた。


『空いている家を見てみたい』


 炭筆を置く。


 書いた文字を眺める。


 住む、とまでは書かなかった。


 出ていく、とも書かなかった。


 見てみたい。


 今の自分が決めたのは、そこまでだった。


 少女は窓を少し開けた。


 夜の涼しい空気が部屋へ入ってくる。


 遠くの森は暗い。


 昨日一度だけ鳴った警戒線は、今日は鳴っていない。


 王都では、妹が何かを調べているかもしれない。


 父も何かをしているかもしれない。


 いつか、その動きがここへ届く日が来るのだろう。


 その時、自分が何を思うのかはまだ分からない。


 けれど、その日が来るまで自分の時間が止まっているわけではない。


 明日は残った卵を焼いてみる。


 今度は油を少なくして、黄身を柔らかくしてみたい。


 それからローデンへ、空いている家を見せてもらえるか尋ねる。


 その先は、まだ決めなくていい。


 少女は窓を閉じ、寝台へ入った。


 今までの自分を全部壊して、別の誰かにならなければならないわけではないのかもしれない。


 合わなくなったところがあるなら、少し変えてみる。


 それでも合わなければ、また考える。


 今日ベルが直した椅子のように。


 少女はそんなことを考えながら目を閉じた。


 明日の朝に残っている一つの卵と、そのあとに見るかもしれない誰も住んでいない家を、ほんの少しだけ楽しみにしながら。

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