第27話 まだ使えない石鹸
マーサの家へ戻るまで、少女は四つの卵が入った籠を何度も覗き込んだ。
オルドの家を出てから一度も転びそうにはなっていないし、誰かとぶつかったわけでもない。それでも歩くたびに籠の中から微かな音がすると、割れていないか気になってしまう。
家の前まで来たところで、少女はようやく小さく息を吐いた。
「ただいま戻りました」
「おかえり」
台所からマーサの声が返ってくる。
その二文字に足が一瞬だけ止まった。
ユウへ「おかえりなさい」と言った時のことを思い出したからだった。
あの日は、自分でもなぜその言葉が口から出たのか分からなかった。今はマーサから同じ言葉を受け取って、それが特別な宣言でも何でもなく、この家へ戻ってきた者へ向けられる日常の言葉なのだと分かる。
「卵、買えました」
「見りゃ分かるよ」
「四つです」
「それも見りゃ分かる」
マーサは台所の卓で豆の筋を取っていた。
少女は籠を置こうとして、少し迷う。
「どこへ置けばよいですか?」
「そっちの日の当たらないところ」
「はい」
言われた場所へ籠を移し、少女はもう一度中を見る。
四つとも無事だった。
「割らずに持って帰れました」
「そりゃよかった」
「最初、代金を間違えました」
「オルドから聞いたよ」
少女は振り返った。
「もうですか?」
「あんたより先に孫が来たからね」
「……早いですね」
「この村じゃ隠し事には向かんよ」
マーサは豆の筋を取りながら笑っている。
少女も苦笑した。
公爵家にいた頃なら、自分の失敗が人へ伝わることは恐ろしかった。小さな間違いであっても、誰かの口から両親へ伝わり、そこから妹との比較へつながるのではないかと身構えていた。
けれど、この村で「卵の代金を間違えた」と知られても、それで自分の価値が決まるような気はしない。
「恥ずかしくないのかい?」
マーサが不意に尋ねた。
「少しは」
少女は正直に答える。
「でも、次は分かりますから」
「ならいいじゃないか」
「はい」
少女はそう答えてから、籠の横に置かれた硬貨袋へ目を向けた。
自分の持っているお金。
追放された時に残された、小さな銀貨と銅貨。
今までは失わないことばかり考えていた。
次にいつお金を得られるか分からないのだから、できるだけ使ってはいけないと思っていた。水も食事も寝床も村の人から与えられ、そのことへの申し訳なさばかりが先に立っていた。
今日初めて、その中から自分の意思で硬貨を取り出した。
卵が食べたかったから。
「マーサさん」
「今度はなんだい?」
「卵のお金は、私が払いました」
「そうだね」
「今夜、私も食べます」
「そのつもりで買ったんだろ?」
「はい」
少女は少しだけ笑った。
「それだけです」
「変な子だね」
マーサは呆れたように言いながら、豆の入った籠を少女の方へ押した。
「昼飯まで暇なら、そっちやるかい?」
少女は籠を見る。
昨日までなら、反射的に「やります」と答えていただろう。
けれど今日は一度、自分の身体と気持ちを確かめた。
朝からハインに話を聞いた。
妹のこと。
父のこと。
使用人たちのこと。
身体よりも頭の方が疲れている。
「少しだけなら」
「じゃあ半分」
「全部ではなく?」
「午後サナんとこ行くんだろ」
「はい」
「なら残しときな」
「体力を、ですか?」
「豆もだよ。あたしの仕事なくなるだろ」
少女は目を瞬き、それから笑った。
「では、半分だけ」
二人で向かい合い、豆の筋を取る。
窓から差し込む光が少しずつ強くなり、朝の冷たさはもうほとんど残っていなかった。外では誰かが井戸を使っており、滑車の軋む音と、水を汲み上げる桶の音が時折聞こえてくる。
少女は豆を一つ手に取った。
筋を探して、端を折る。
最初にやった時より迷わない。
それでもマーサほど速くはない。
その違いを見ても、今日は何も痛まなかった。
昼食は、根菜と干し肉を煮込んだ薄いスープと黒パンだった。
少女は朝から考えることが多かったせいか、思っていた以上に空腹だった。マーサに「まだ食べるかい」と聞かれ、以前なら遠慮したかもしれないところを素直にスープのおかわりを頼んだ。
「よく食べるようになったね」
「……食べすぎでしょうか」
「誰がそんなこと言った」
「いえ、誰も」
「なら食べな」
「はい」
二杯目を食べながら、少女は自分の腹具合を確かめる。
空腹だったから食べる。
満たされたら止める。
それだけのことが、以前は意外なほど難しかった。
食事一つにも礼儀があり、量があり、時間があり、誰と食べるかによって振る舞いが変わった。公爵令嬢として食べ方を間違えないことばかり考え、腹が減っているかどうかを意識した記憶はあまりない。
「ごちそうさまでした」
二杯目を食べ終え、少女は満足して木匙を置いた。
「午後はどうするんだい?」
「サナさんのところへ行きます」
「その後は?」
「決めていません」
「そうかい」
マーサはそれ以上予定を尋ねなかった。
食後すぐに立ち上がろうとして、少女はやめた。
少し休んでから行く。
そう決めて窓辺の椅子へ座ると、陽射しが膝へ落ちた。
外はよく晴れている。
少女は目を閉じた。
朝に聞いた妹の話が、また浮かんでくる。
自分の処分について調べているかもしれない。
父へ反発したかもしれない。
王太子へ会おうとしたかもしれない。
信じたい。
けれど未確認。
昨日の夜ほど胸は荒れなかった。
それでも、妹が「お姉様」と呼びながら走ってくる幼い頃の姿を思い出すと、胸の奥が締めつけられる。
自分は何度、その笑顔から目を逸らしただろう。
妹が何かを成功させるたびに褒める両親の声が怖くて、妹自身まで避けた。
妹は悪くなかった。
そのことは、昔から分かっていたはずなのに。
「……会いたいのでしょうか」
小さく呟く。
答えは出ない。
会いたい気もする。
怖い気もする。
もし妹が本当に自分を信じていたなら、謝りたい。
けれど何を謝るのかと考え始めると、今度は自分だけが悪かったような気がして苦しくなる。
少女はそこで考えるのを止めた。
答えが出ない。
なら、今は出さない。
窓の外から鶏の声が聞こえた。
オルドのところで買った卵を思い出す。
今夜は豆と卵。
午後は石鹸。
少女は椅子から立ち上がった。
「行ってきます」
「おう」
マーサは寝室の方から返事をした。
昼寝をするらしい。
少女は少し笑って家を出た。
サナの家へ向かう道には、午後の日差しが明るく落ちていた。
朝に残っていた湿り気はかなり乾き、道端の草から立っていた水の匂いも薄くなっている。少女は急がず歩き、途中で右足の踵を意識した。
痛みはほとんどない。
朝と変わらない。
だからといって速く歩く必要もない。
サナの家の前まで来ると、戸口の近くに木箱がいくつか並べられていた。
「こんにちは」
「来たね」
中からサナが出てくる。
頭には布を巻き、袖を肘まで上げていた。
「足は?」
「一です。ほとんど気になりません」
「ならこっち持って」
挨拶より早く、小さな木箱を渡される。
少女は受け取った。
軽い。
「どこへ?」
「裏」
「はい」
家の裏へ回ると、簡単な棚が置かれていた。
屋根から少し離れ、直射日光が当たりにくい場所になっている。風は通るが、雨が降れば濡れそうだった。
「ここですか?」
「上から二段目」
少女は言われた場所へ箱を置く。
中には型から外された石鹸が並んでいた。
「これは、昨日見せていただいたものとは違いますね」
「前に作ったやつ」
「全部乾かしているのですか?」
「そうだよ」
サナは別の箱を運んでくる。
「お前さんが手伝ったのは、まだ中」
「今日は移さないのですか?」
「まず場所作るんだよ」
少女は棚を見る。
既に石鹸が並んでいる。
新しいものを置くなら、その分だけ場所が必要になる。
「なるほど」
「全部出して、古いの確認して、使えるやつは中へ入れる。空いたところへ新しいのを置く」
「順番があるのですね」
「適当に積んだら、どれがいつ作ったやつか分からなくなるだろ」
少女は棚へ近づいた。
石鹸は一見どれも似ている。
色や香りに少し違いはあるが、作った時期までは見ただけでは分からない。
「記録は?」
「そこ」
サナが棚の横を指す。
小さな木札が掛けられていた。
少女は覗き込む。
日付らしい印と、使った材料が簡単に書かれている。
「サナさんが書いたのですか?」
「そうだよ」
「かなり前のものもありますね」
「売る分もあるからね」
少女は木札を見ながら、自然に頭の中で数を数えた。
棚の段数。
一段に置ける箱。
一箱に入っている石鹸。
村で使う分。
ハインへ渡す分。
材料。
作った時期。
「どうした?」
「いえ」
少女は顔を上げる。
「こういう記録を見るのが、少し好きなのかもしれません」
「変わってるね」
「そうでしょうか」
「石鹸作るより札見てる顔の方が真剣だよ」
少女は少し恥ずかしくなった。
「家では、帳簿を見ることが多かったので」
「公爵家の?」
サナは少女の過去を知っている。
それでも声色は変わらなかった。
「はい」
少女は頷く。
「領地の収支や備蓄、使用人の給与、季節ごとの支出などです。もちろん最終的な管理は専門の者がしていましたが、将来必要になるからと教えられていました」
「役に立ってるじゃないか」
少女は答えようとして、少し止まった。
役に立つ。
その言葉へ以前ほど強く飛びつかなかった自分に気づく。
「はい」
それでも素直に頷いた。
「こういうことは、できます」
「じゃあこれ読んで」
サナが木札を渡してくる。
「え?」
「こっちの箱と合ってるか見て。あたしは中から次持ってくる」
「よいのですか?」
「読めるんだろ?」
「はい」
「なら頼むよ」
サナはもう家の中へ戻っていった。
少女は手の中の木札を見る。
頼まれた。
けれど、それは大げさな役割ではない。
この箱と札が合っているかを見るだけ。
少女は石鹸を一つずつ確認した。
香草入り。
無香料。
油の種類。
数。
木札の記録と照らす。
「……一つ少ない?」
箱をもう一度数える。
やはり一つ少ない。
サナが戻ってきた。
「どうだい?」
「こちら、記録では十二個ですが十一個です」
「使ったんじゃないかね」
「記録していないのですか?」
「忘れたんだろ」
あまりにもあっさり言われ、少女は目を瞬いた。
「忘れた?」
「あるよ、そんなこと」
「でも、帳簿が合わなくなります」
「石鹸一個だよ」
「一個でも」
言いかけて止まる。
サナが少女を見る。
「気になる?」
「……はい」
「じゃあどうする?」
少女は木札を見る。
記録上は十二。
実数は十一。
原因は分からない。
「今の数を十一に直して、理由不明と書きます」
「それでいいよ」
「探さないのですか?」
「一個の石鹸を村中ひっくり返して?」
少女は想像した。
サナの家。
倉庫。
誰かへ渡した可能性。
自宅で使った可能性。
探せば見つかるかもしれない。
けれど、そのために何時間使うのか。
「……探しません」
「そうだろ」
「でも、次から使った時に印をつければ、分かりやすいと思います」
「それはいいね」
サナは頷いた。
「じゃあそうするか」
少女は木札を書き直す。
自分の提案が採用された。
嬉しい。
けれど、「自分が直さなければこの家は困る」という感覚ではなかった。
ただ、少し使いやすくなった。
それだけ。
「次」
サナが別の箱を置く。
「はい」
少女は確認を続けた。
しばらくすると、棚の上段が空いた。
サナは家の中から、少女が手伝った石鹸の箱を持ってくる。
「これだよ」
少女は自然に身を乗り出した。
淡い色の四角い石鹸が並んでいる。
香草を混ぜたものには、小さな緑の粒が残っていた。
「触っても?」
「手が乾いてるならね」
少女は指先を確認してから、一つだけそっと触れた。
表面は固い。
作った日の柔らかな感触とは全く違う。
「もう石鹸に見えます」
「見えるだけ」
「まだ使えない」
「そう」
サナは一つを持ち上げ、側面を確認する。
「中までちゃんと落ち着くのを待つ」
「見た目だけでは分からないのですね」
「そういうもんは多いよ」
少女は石鹸を見つめた。
見た目は完成している。
けれど、まだ途中。
「……私も、でしょうか」
口から出てから、自分で驚いた。
サナも少女を見る。
「何が?」
「いえ」
少女は少し迷う。
誤魔化すこともできた。
けれど、今は言ってもよい気がした。
「村へ来た頃より、普通に食べられるようになりました。眠れるようにもなって、足も治ってきて、笑うことも増えました」
「そうだね」
「だから時々、もう大丈夫なのではないかと思うのです」
石鹸へ指先を添える。
「でも、王都の話を聞けば苦しくなります。妹のことを考えても、会いたいのか怖いのか分かりません。父のことも……期待したくないのに、少しだけ期待してしまう自分がいます」
サナは急かさなかった。
風が棚の間を抜け、石鹸に混ぜられた香草の淡い匂いが少女の鼻先を掠めた。
「それで、まだ駄目なのかい?」
やがてサナが尋ねる。
「駄目、というわけでは」
「じゃあいいじゃないか」
「でも」
「笑えるようになったら全部忘れなきゃいけないのかい?」
「……いいえ」
「飯食えるようになったら、嫌だったことが嫌じゃなくなるのかい?」
「なりません」
「なら別だろ」
サナは新しい石鹸を棚へ並べ始める。
「石鹸と人間を一緒にするのも変だけどね」
少女は少し笑った。
「私が先に一緒にしました」
「そうだったね」
「はい」
少女も箱から石鹸を一つ取り、サナが示した場所へ置いた。
「では、私はまだ途中でもよいのでしょうか」
「知らないよ」
「え?」
「途中かどうか決めるのもあたしじゃないだろ」
少女は石鹸を持ったまま止まった。
サナは次の一つを並べる。
「元気になったって思う日があってもいいし、今日は駄目だって日があってもいい。あたしが『お前はまだ途中だ』って決めたら、それも変な話じゃないかい?」
「……そうですね」
「自分で見な」
サナは少女の手元を顎で示す。
「あと、それ落とすなよ」
「はい」
少女は慌てて石鹸を棚へ置いた。
作業はゆっくり進んだ。
途中で少女は一度座った。
足ではなく、朝から続いた精神的な疲れを感じたからだった。
「少し休みます」
「そうしな」
サナは一人で作業を続ける。
少女は椅子へ座り、その様子を見る。
自分が休んでも作業は止まらない。
サナは困らない。
少女が再び動けるようになったら、その時また手伝えばよい。
「サナさん」
「なんだい?」
「私が休んでいる間に、全部終わってしまったら?」
「終わるかもね」
「……それでもよいのですね」
「終わらせちゃ駄目なのかい?」
「いえ」
少女は笑った。
「大丈夫です」
以前なら、自分の仕事を取られたように感じただろう。
今は違う。
石鹸を完成させることが目的であって、自分が最後まで作業することが目的ではない。
しばらく休み、喉が渇いたので水を飲む。
身体が少し軽くなったところで、少女は立ち上がった。
「もう少しやります」
「じゃあ残り三箱」
「はい」
再び作業へ加わった。
三箱目を確認している時、少女は一枚の木札に目を留めた。
「サナさん」
「ん?」
「こちらの日付、前後していませんか?」
サナが覗き込む。
「ああ、本当だ」
「この箱の方が先に作られています」
「じゃあ置く場所逆だね」
「入れ替えますか?」
「頼むよ」
少女は二つの箱を持ち上げる。
片方は少し重い。
無理に一度で運ぶ必要はない。
一箱ずつ移動する。
「前なら、二つ持とうとしたかもしれません」
少女が言うと、サナが鼻で笑った。
「持てるのかい?」
「たぶん」
「なら持ってみる?」
少女は二つの箱を見る。
できるかもしれない。
けれど、腰を痛めるほど重くなくても、落とせば石鹸が欠ける。
「やめておきます」
「そうしな」
一箱ずつ運んだ。
全部の作業が終わる頃には、陽射しが少し傾いていた。
棚には新しい石鹸が整然と並び、木札も少女が確認した順番に掛け直されている。
「終わりました」
「終わったね」
少女は棚を眺める。
自分が手伝った石鹸も、その中にある。
「これで待つのですね」
「そう」
「何もしないで?」
「たまに見るよ」
「見るだけ?」
「湿ってないか、変なの出てないか。必要なら場所も変える」
少女は頷いた。
何もしないように見えても、放置ではない。
待ちながら、必要な時だけ手を入れる。
「難しいですね」
「何が?」
「待つことです」
「お前さん、待つの苦手そうだね」
「……はい」
少女は素直に認めた。
「何か問題があれば、すぐに解決しなければならないと思ってしまいます」
「解決できるならすりゃいいさ」
「できない時は?」
「できるようになるまで待つか、誰かに聞くか、諦めるか」
「諦めることも?」
「あるよ」
サナは棚の端にあった形の崩れた石鹸を一つ持ち上げた。
「これは失敗」
少女は見る。
端が大きく欠け、表面も他のものより粗い。
「使えないのですか?」
「家で掃除に使う」
「失敗なのに?」
「売り物にはならないってだけだよ」
少女は目を瞬いた。
「捨てないのですね」
「使えるからね」
サナはそれを別の籠へ入れる。
「何でも満点じゃなきゃ捨てるほど、この村は物が余ってないよ」
少女はその石鹸を見つめた。
妹ならもっと綺麗に作れただろう。
反射のように浮かんだ言葉。
少女は小さく息を吐く。
「また出ました」
「何が?」
「妹なら、もっと上手に作れた、と」
「そうかい」
「はい」
サナは形の崩れた石鹸をもう一度見た。
「妹さんは石鹸作ったことあるのかい?」
少女は固まった。
「……ないと思います」
「じゃあ分からんじゃないか」
「そうですね」
「なんで何でも妹さんができることになってるんだい?」
少女はすぐに答えられなかった。
妹は何でも一度でできた。
剣術も。
魔術も。
音楽も。
語学も。
礼法も。
自分が何日もかけて覚えたことを、妹は驚くほど早く身につけた。
だからいつしか、知らないことまで妹の方が上手にできるような気がしていた。
「私が、そう思うようになったからです」
少女はゆっくり答えた。
「誰かに比べられる前から?」
「……最初は違いました」
思い出す。
幼い頃。
妹が文字を覚え始めた時。
少女は嬉しかった。
自分が知っていることを妹へ教えた。
妹は「お姉様、すごい!」と笑っていた。
いつから変わったのだろう。
「何度も比べられているうちに、私も先に比べるようになりました」
声が少し掠れた。
「誰かに言われる前に、自分で『妹ならもっとできる』と思っておけば、言われた時に少しは傷つかずに済むような気がしていたのかもしれません」
サナの手が止まった。
少女自身も、口にしてから初めてその考えに気づいた。
先に自分を下げる。
先に妹の方が上だと認める。
そうすれば、父や母に言われた時、「知っています」と思える。
驚かなくて済む。
期待してから落とされずに済む。
自分を守るためだったのかもしれない。
けれど、それを繰り返しすぎて、誰も比べていない場所でも妹を連れてくるようになった。
「……嫌な癖ですね」
「癖なら直るかもね」
サナは簡単に言った。
「直らなかったら?」
「出た時に気づけばいいんじゃないかい」
「毎回?」
「毎回じゃなくても」
少女はサナを見る。
「随分、適当ですね」
「石鹸一個なくした女に何を期待してるんだい」
少女は吹き出した。
「それを自分で言うのですか?」
「事実だからね」
「記録は直しました」
「次から印もつける」
「はい」
笑っているうちに、胸の重さが少し和らいだ。
サナの家を出る前に、少女は自分が手伝った石鹸をもう一度見た。
まだ使えない。
けれど、失敗しているわけでもない。
待っている途中だ。
「また見に来てもよいですか?」
「好きにしな」
「毎日来たら?」
「邪魔」
「では、少し空けます」
「そうしな」
少女は笑って頭を下げた。
「ありがとうございました」
「おう」
外へ出ると、午後の風が少し涼しくなっていた。
少女はマーサの家へ戻ろうとして、途中で足を止めた。
少し先にユウの家がある。
家の前には、昼前に出していた椅子がまだ置かれている。
そしてユウは、本当に寝ていた。
「……本当に」
少女は思わず呟いた。
椅子を少し倒し、壁へ寄りかかるようにして目を閉じている。
膝の上には薄い布。
その横の小さな台には、閉じた銀色の魔導書が置かれていた。
起こさない方がよい。
そう思った瞬間、ユウが目を開けた。
「あれ?」
「すみません。起こしましたか?」
「いや、ちょうど起きた」
ユウは大きく伸びをする。
「今何時くらい?」
「私に聞かれても」
「そっか」
少女は少し笑った。
「石鹸の作業が終わりました」
「どうだった?」
「まだ使えませんでした」
「そっか」
「でも、形にはなっていました」
「じゃあもうちょい?」
「サナさんは、様子を見ながらと言っていました」
「じゃあ待つしかないね」
「はい」
少女はユウの家の前に立ったまま、少し迷う。
「座る?」
ユウが隣の木箱を指した。
「よいのですか?」
「うん」
少女は木箱へ腰を下ろした。
以前なら、若い男性の家の前で二人きりで座ること自体を気にしたかもしれない。
今も全く意識しないわけではない。
けれど、それより先に「少し休みたい」と思った。
「疲れた?」
「少し」
「足?」
「足は一のままです。頭の方が」
「ああ」
「朝から、色々考えましたから」
「そっか」
ユウはそれ以上聞かなかった。
少女もすぐには話さなかった。
二人の前を風が通り抜ける。
遠くで誰かが木を割る音がする。
オルドの鶏も鳴いている。
村のどこかから、子供の笑い声が聞こえた。
「ユウさん」
「ん?」
「私は、妹と比べられる前に、自分で自分を妹と比べるようになっていたみたいです」
ユウが少女を見る。
「今日、気づきました」
「サナさんと話して?」
「はい」
少女は膝の上で指を組んだ。
「先に自分で『妹の方ができる』と思っておけば、誰かに言われても少しは傷つかずに済むと思っていたのかもしれません」
「……そっか」
「変ですよね」
「変かな」
「自分で自分を傷つけているようなものです」
「でも、その時はそれで少しマシだったんじゃない?」
少女は顔を上げた。
「マシ?」
「何も準備してない時に言われるよりは、って思ったんでしょ?」
「……たぶん」
「じゃあ、その時のあんたには必要だったのかもしれないじゃん」
少女は黙った。
悪い癖。
直すべきもの。
そう考えていた。
「でも、今は?」
「今?」
「ここで誰も妹さんと比べてないなら、今はいらないかもしれないけど」
ユウは少し考えてから続ける。
「前に必要だったものが、ずっと必要とは限らないし」
少女はサナの棚を思い出した。
使える石鹸。
売る石鹸。
掃除に使う石鹸。
作った時には必要だった方法も、後で変えることがある。
「……捨てなくても、使わなくなることはできますか?」
「何を?」
「その癖を」
「知らない」
ユウは即答した。
少女は少しだけ目を見開く。
「知らないのですか?」
「俺、そういう専門家じゃないし」
「そうでした」
「でも、出てきた時に『また出た』って分かるなら、それだけでも前と違うんじゃない?」
「サナさんにも似たことを言われました」
「じゃあサナさんの方が専門家かも」
「石鹸の?」
「人生の?」
少女は笑った。
「どちらでしょう」
「八十年くらい生きてそうだし」
「サナさんの年齢を私は知りません」
「俺も知らない」
二人で少し笑う。
その時、東の方角から短い金属音が響いた。
少女の笑みが消える。
ユウもすぐに身体を起こした。
銀色の魔導書へ手を伸ばす。
「警戒線?」
少女が尋ねる。
「たぶん」
ユウは本を開いた。
銀色の文字が頁の上へ浮かぶ。
少女は立ち上がりかけたが、ユウが何も言っていないことに気づいて止まった。
「内側じゃない」
ユウが頁を見る。
「外側の補助線」
「反応したのですか?」
「うん。一回だけ」
少女の胸が速くなる。
「何が?」
「まだ分からない」
ユウは立ち上がる。
その言葉を聞き、少女も息を整えた。
まだ分からない。
すぐに道の向こうからローデンが歩いてきた。
走ってはいない。
けれど普段より歩幅が大きい。
「ユウ」
「外側です。一回だけ」
「場所は?」
「東の少し北寄り」
「内側は?」
「反応なし」
ローデンは頷いた。
「ケル呼ぶ。ドランもだ」
「俺も行きます」
「ああ」
ユウは銀色の本を閉じかけ、少女を見る。
「私は?」
少女は自分から尋ねた。
「村にいた方がいいと思う」
ユウは迷わず答えた。
「まだ何か分からないし、確認だけだから」
少女の中に、一瞬だけ「一緒に行かなければ」という気持ちが浮かぶ。
自分が追放されてきた東側。
人の足跡。
荷車の跡。
魔獣。
もし自分と関係があったら。
だが、まだ何も分からない。
「……分かりました」
少女は頷いた。
「ここにいます」
「うん」
「でも」
ユウが待つ。
「気をつけてください」
「了解」
ユウは軽く手を上げ、ローデンとともに東へ向かった。
少女はその背中を見送った。
追いかけない。
自分にできることがあるかもしれない。
けれど、確認へ行く人は既にいる。
自分が増えれば安全になるとも限らない。
少しして、サナが道の向こうから顔を出した。
「今の音かい?」
「外側の警戒線が一度反応したそうです」
「中は?」
「反応していません」
「じゃあ待つか」
「はい」
サナはあっさり自宅へ戻ろうとする。
「サナさん」
「なんだい?」
「怖くないのですか?」
「怖いよ」
サナは振り返った。
「だからユウたちが見に行ったんだろ」
「……そうですね」
「何か来たら知らせるさ」
「はい」
サナは今度こそ戻っていった。
少女はその場に残る。
何かしたい。
じっとしているのは落ち着かない。
けれど、自分が森へ行くことは今必要ではない。
少女はユウの家の前に置かれた椅子を見る。
さっきまで彼が昼寝をしていた場所。
隣の木箱。
少女はそこへ座り直した。
待つ。
石鹸と同じではない。
けれど、今は待つしかない。
胸の中では不安が動いている。
以前の人間の足跡。
古い道。
荷車。
魔獣。
少女はそれらを一つに結びつけそうになるたび、自分で止めた。
分からない。
まだ、分からない。
やがてベルが作業場から出てきた。
「座ってんのか?」
「はい」
「いいことだ」
「警戒線が鳴ったのですが」
「知ってる」
「何もしなくてよいのでしょうか」
「今、俺が森行って何する?」
少女はベルを見る。
腰を押さえている。
「……分かりません」
「俺も分からん」
ベルは少女の近くにもう一つ椅子を持ってきた。
「だから待つ」
「ベルさんも?」
「座って待つ」
「腰が痛いからでは?」
「それもある」
ベルは堂々と答えた。
少女は少し笑った。
二人で待つ。
しばらくすると、オルドも来た。
「何か出たか?」
「まだ分かりません」
「そうか」
「オルドさんも待つのですか?」
「鶏に餌やってくる」
「待たないのですね」
「俺が見てても森は変わらん」
そのまま去っていった。
少女はベルを見る。
「皆さん、随分違いますね」
「何が?」
「待ち方が」
「そりゃそうだろ」
ベルは腰を伸ばす。
「全員で道見てたってしょうがない」
少女は頷いた。
公爵家で何か問題が起きれば、関係する者が一斉に動いた。
報告。
確認。
指示。
責任者。
それが必要な場面もある。
けれど、ここでは森を確認する者が行き、村に残る者は自分の生活を続ける。
何もしないのではない。
必要な人が、必要なことをしている。
それからしばらくして、東の道に人影が見えた。
少女は立ち上がる。
ユウ。
ローデン。
ケル。
ドラン。
四人とも歩いている。
走ってはいない。
怪我をしている様子もない。
少女は息を吐いた。
「どうでした?」
戻ってきたユウへ尋ねる。
「鹿っぽい」
「鹿?」
「たぶん」
ケルが補足する。
「蹄の跡が一組あった。外側の線へ近づいて、驚いて北へ逃げたように見える」
「魔獣では?」
「今のところ、その跡はない」
「人の足跡は?」
「新しいものは見つからん」
少女は胸へ手を当てた。
「そうですか」
「ただし」
ケルが続ける。
「鹿と断定はしない。跡が浅いところもある。大きさと形は鹿に近い。それだけだ」
「はい」
少女は頷く。
「鹿に近い跡があった。今は、それだけ」
「そうだ」
ケルの口元が僅かに緩んだ。
ユウは銀色の魔導書を開く。
「外側の線、感度ちょっと高いかも」
「変えるのか?」
ローデンが尋ねる。
「いや、今日は変えないです」
「なぜ?」
「一回反応しただけだから。鹿っぽいのが近づいた時に鳴るくらいがいいのか、鳴りすぎなのか、まだ分からない」
少女はその言葉を聞いた。
すぐには直さない。
問題かどうかもまだ分からないから。
「明日また見る?」
「うん。何回も鹿で鳴るなら考える」
「分かった」
ローデンはそれで話を終えた。
少女は銀色の魔導書を見る。
「ユウさん」
「ん?」
「魔法でも、待つのですね」
「何が?」
「一度反応したからといって、すぐに調整しない」
「ああ」
ユウは本を閉じる。
「一回だけじゃ分かんないからね」
「そうですか」
少女は少し笑った。
「今日は、待つことばかりです」
「石鹸?」
「それもです」
「何かあった?」
「色々ありました」
「そっか」
ユウはそれ以上聞かなかった。
夕方、少女はマーサの家へ戻った。
台所には昼間買った卵が並び、豆は鍋の中で柔らかく煮えていた。
「帰りました」
「おかえり」
「警戒線は、鹿に近い足跡だったそうです」
「聞いたよ」
「早いですね」
「ベルが来た」
「やはり隠し事には向きませんね」
「言っただろ」
少女は笑いながら手を洗う。
「卵、どうする?」
マーサが尋ねる。
少女は少し考えた。
「私は料理の仕方をほとんど知りません」
「知ってるよ」
「教えていただけますか?」
「何を?」
「卵を焼く方法を」
マーサが少女を見る。
「今から?」
「はい」
「疲れてないのかい?」
少女は自分の状態を確かめた。
朝から王都の話を聞いた。
午後は石鹸を運んだ。
警戒線が鳴り、少し緊張した。
身体の疲れは三くらい。
頭は四に近いかもしれない。
「……今日は、見るだけにします」
「そうかい」
「でも、見てもよいですか?」
「勝手に見な」
マーサは鍋を火へ掛ける。
少女はその横に立った。
卵を割る。
油を引く。
火加減を見る。
簡単そうに見える。
けれど、実際にやればきっと失敗する。
それでもよい。
今日できなければ、次にやればいい。
「明日は、やってみてもよいですか?」
「卵が残ってたらね」
「四つあります」
「今日二つ使う」
「二つ残ります」
「ならできるね」
「はい」
少女は嬉しそうに頷いた。
夕食には、豆と卵が並んだ。
少女が自分で買った卵。
マーサが焼いた卵。
自分は見ていただけ。
それでも、いつもの食卓とは少し違って見える。
「いただきます」
卵を一口食べる。
「おいしいです」
「そうかい」
「明日、これを作ります」
「失敗するかもよ」
「はい」
「焦がすかもしれない」
「はい」
「殻入るかもよ」
「……それは嫌です」
「取ればいいだろ」
少女は少し考え、笑った。
「そうですね」
食事を終えた後、少女は昨日使った紙を取り出した。
王都について書いたもの。
新しい情報を加える。
『妹が処分について調べているという伝聞あり。一人から。未確認』
『妹が王太子との面会を求めたという伝聞あり。結果不明。未確認』
『父と王家の間に何らかの対立があるという噂。複数。ただし理由は一致せず』
『公爵家の使用人が複数辞めたという噂。理由不明』
そこまで書いて、少女は炭筆を置いた。
以前なら、さらに考察を書いたかもしれない。
父は何を考えている。
妹は何を見つけた。
王太子はなぜ会わない。
使用人はなぜ辞めた。
けれど、それはまだ書けない。
分からないから。
少女は別の紙を一枚出した。
何を書くか少し迷う。
それから、今日あったことを短く記した。
『卵四つ。最初、代金を間違えた。次は分かる』
『石鹸はまだ待つ。記録札を一つ直した』
『明日、卵を焼いてみる』
少女は三行を見つめた。
王都について書いた紙とは、まるで重さが違う。
公爵家。
王家。
妹。
追放。
冤罪。
その横に置けば、卵や石鹸などあまりにも小さく見える。
けれど、少女はその紙を捨てなかった。
むしろ丁寧に折り、王都についての紙とは別に置いた。
「何を書いてるんだい?」
マーサが湯を飲みながら尋ねる。
「今日あったことです」
「日記かい?」
「そこまで立派なものではありません」
「見せる?」
少女は少し考えた。
「嫌です」
「そうかい」
マーサはあっさり引いた。
少女はその反応に笑う。
「でも、一つだけなら」
「なんだい?」
「明日、卵を焼いてみると書きました」
「なら寝坊するんじゃないよ」
「朝に作るのですか?」
「夕飯でもいいよ」
「……では、起きてから決めます」
「そうしな」
少女は紙をしまった。
夜、寝台へ入る。
窓の外には静かな村の夜が広がっている。
東の森で何が起きているのかは、まだ分からない。
王都で妹が何をしているのかも、父が何を考えているのかも分からない。
少女自身のこれからも決まっていない。
どの家で暮らすのか。
何を仕事にするのか。
いつまでこの村にいられるのか。
名前をいつ話すのか。
王都へ戻る日が来るのか。
答えのないものは、まだいくつも残っている。
少女は以前なら、その全部を一晩で考えようとしたかもしれない。
今夜はしなかった。
明日は卵を焼く。
石鹸はまだ待つ。
森の警戒線は、ユウたちがまた確認する。
王都のことは、新しい情報が来るまで分からない。
それぞれに、それぞれの時間がある。
少女は布団を胸元まで引き上げた。
今日の自分も、まだ何かの完成形ではない。
だからといって、失敗しているわけでもない。
そのことを今夜は無理に言葉へまとめず、少女は静かに目を閉じた。
明日になれば、まず二つ残った卵のうち一つを、自分の手で割ってみようと思いながら。




