第26話 聞きたいこと
翌朝、少女が目を覚ました時、窓の外にはまだ薄い靄が残っていた。
夜のあいだに冷えた空気が村の低い場所へ溜まり、畑の向こうに並ぶ家々の屋根が白く霞んでいる。遠くではオルドの鶏がいつものように騒ぎ始めていたが、井戸の滑車はまだ鳴っておらず、マーサの家も珍しく静かだった。
少女は布団の中でしばらく天井を眺めた。
昨夜は眠れないと思っていた。
商人のハインから聞いた話が何度も頭の中へ戻ってきて、目を閉じれば妹の顔が浮かんだ。幼い頃の笑顔も、自分が距離を取るようになってから見せるようになった少し寂しそうな表情も、記憶の中では妙に鮮明だった。
それでも、いつの間にか眠っていたらしい。
以前なら、眠ってしまった自分を責めたかもしれない。
家族について大切なことを知ったのだから、もっと考えなければならない。記憶を整理し、自分の感情を理解し、これからどうするべきなのか答えを出さなければならない。
そんなふうに、自分で自分へ課題を与えていたはずだった。
今は少し違う。
「……眠れました」
誰へ報告するでもなく、小さく呟く。
それだけだった。
少女はゆっくり上体を起こし、窓辺へ目を向けた。
昨日使った紙が置いてある。
『王都で、私の追放はどのように伝わっているか』
『公爵家当主が表に出ていないという噂。理由不明』
『妹は、私の追放後に帰宅し、反発したという伝聞あり。未確認』
最後の一文を書いた時のことを思い出す。
信じたい。
けれど、まだ事実ではない。
その二つを同時に持っていてよいのだと、自分へ言い聞かせるように書いた言葉だった。
少女は寝台から降りた。
右足へ体重を乗せ、ゆっくり部屋を歩く。踵にはもうほとんど痛みがなく、注意して探せば僅かな違和感があるような気もしたが、日常の歩行を妨げるほどではない。
「零……いえ」
少し考える。
「零に近い、一」
以前なら零か一かを正確に決めようとしたかもしれない。
今は、その程度で十分だった。
痛みが強くなったら休む。
違和感が変わったら確認する。
数字は正解を当てるためではなく、自分の状態を考えるために使うものなのだと、ようやく身体で分かり始めていた。
着替えて客間を出ると、台所から薪の爆ぜる小さな音が聞こえた。
マーサは既に起きていた。
竈の前に立ち、鍋の中を木杓子でゆっくり混ぜている。窓の隙間から入る朝の冷気と、火にかけられた鍋から立つ湯気が混ざり、部屋には穀物を煮た柔らかな匂いが漂っていた。
「おはようございます」
「おはよう。眠れたかい?」
「はい。思っていたよりも」
マーサは少女の顔を一度見て、それ以上は何も言わなかった。
目が腫れているかを確認されたような気がしたが、尋ねられないことがありがたかった。
少女は自分から食器を出す。
以前なら、勝手に触ってよいのかと迷ったはずだった。今も完全に自分の家だとは思っていないが、どこに何があるかは少しずつ分かるようになり、朝食の前に二人分の器を並べるくらいなら尋ねなくてもよいと知っている。
「マーサさん」
「なんだい?」
「今日、ハインさんは朝に出発するのですよね」
「そう聞いてるよ。朝飯食って、荷を積み直したら出るんじゃないかい」
少女は器を置いた手を止めた。
「何時頃でしょう」
「そんな細かい時間、あの男が決めてると思うかい?」
思わずマーサを見る。
真顔だった。
「……決めていないのですか?」
「馬と荷物と本人次第だろ。日が高くなる前には出ると思うけどね」
「そういうものなのですね」
「そういうものだよ」
王都では、誰かが出発する時刻は分単位とはいかなくとも、かなり前から決まっていた。馬車の準備、護衛、侍女、訪問先への通知まで含め、予定が曖昧なまま朝を迎えることなどほとんどなかった。
けれどハインは、朝食を食べて、荷物を積み直したら出る。
少女にはそれが少し不思議で、同時に妙に羨ましく思えた。
「続きを聞くのかい?」
マーサが鍋から粥をよそう。
少女はすぐには答えなかった。
「まだ、決めていません」
「なら食べな」
「はい」
卓につき、湯気の立つ器を見る。
穀物の粥には小さく刻んだ根菜が入り、上に昨日商人から買ったらしい乾燥香草が少量散らされていた。
豆はない。
それに気づいて少女は少しだけ口元を緩めた。
「今日は豆ではないのですね」
「昨日あれだけ言われたからね」
「嫌いではないのです」
「知ってるよ」
「ただ、三食続くと少し」
「それも知ってる」
マーサが自分の椅子へ腰を下ろす。
「だから今日は入れてない。それだけだよ」
少女は粥を一口食べた。
温かい。
香草の匂いが昨日までのものと少し違う。
「おいしいです」
「そうかい」
「この香草、昨日買ったものですか?」
「そうだよ。あたしが育ててないやつだからね」
少女はもう一口食べる。
商人が来たことで、今日の朝食が少し変わった。
昨日までは、それほど意識していなかった。
村の外から人が来ることは、王都の情報が入ってくることだけではない。塩や油や布が届き、村で採れた野菜や薬草が外へ出て、食卓の香りまで少し変わる。
当たり前のことなのだろう。
けれど、昨日の少女はハインをほとんど「王都について知っているかもしれない人」として見ていた。
「私、昨日は商人の方が来ることを、少し違うものとして考えていました」
「違う?」
「はい。王都の話を聞けるかもしれない、と。そればかり考えていた気がします」
「聞きたかったんだろ」
「そうなのですが……」
少女は香草の浮いた粥を見る。
「この香草も、ハインさんが運んできたのですよね」
「そうだよ」
「塩も。布も。釘も」
「そうだね」
「ガルドさんの豆を買っていったのも」
「半分だけね」
マーサの口元が僅かに緩む。
「あれは全部買わせたら馬がかわいそうだよ」
少女は昨日のやり取りを思い出して笑った。
「ガルドさんは不満そうでした」
「今日には忘れてるさ」
「そうでしょうか」
「忘れてなきゃ次に来た時また同じことするだろ」
「それは忘れているというより、懲りていないのでは?」
マーサが少女を見る。
少しして鼻を鳴らした。
「言うようになったね」
「……すみません」
「なんで謝るんだい」
少女は一瞬黙り、それから自分でも可笑しくなった。
「そうでした」
謝らなくていい。
何度も言われているのに、まだ時々出てしまう。
けれど、出た後に気づけるようにはなった。
朝食を半分ほど食べたところで、外から車輪の音が聞こえた。
少女の手が止まる。
昨日よりは小さい反応だった。
身体が硬くなる前に、これは村の中で荷車を動かしている音だと考えられた。
「ハインさんでしょうか」
「たぶんね」
マーサは急がない。
少女も立ち上がらなかった。
続きを聞くなら早く行かなければ。
一瞬そう思ったが、まだ朝食の途中だ。
ハインは今すぐ村を出るわけではない。
「……食べてから行きます」
「そうしな」
少女は木匙を持ち直した。
急いで流し込まず、一口ずつ食べる。
その間にも外では人の声が増えていった。
荷物を積み直しているのだろう。
何かを笑う声も聞こえる。
少女はそれを聞きながら、自分の中にある問いを一つずつ眺めた。
妹について、もっと聞きたい。
両親についても知りたい。
王太子については――。
そこへ考えが触れた瞬間、胸の奥に重いものが落ちた。
少女は木匙を置く。
「マーサさん」
「なんだい?」
「聞きたいことが多すぎる時は、どうしたらよいのでしょう」
マーサは粥を食べながら眉を上げた。
「全部聞かなきゃいいんじゃないかい」
「でも、ハインさんは今日出発します」
「次も来るだろ」
「それまでに状況が変わるかもしれません」
「変わるかもね」
「なら、今のうちに」
「聞きたいのかい?」
少女は言葉に詰まった。
マーサは答えを待ちながら食事を続けている。
「……知っておいた方がよいと思います」
「聞きたいのかい?」
同じ問いだった。
少女は視線を落とした。
知っておいた方がよい。
王都で何が起きているのか。
自分がどんな扱いになっているのか。
家族が何をしているのか。
いずれルーデ村に迷惑がかかる可能性を考えるなら、情報は多い方がよい。
それは間違っていない。
けれど、マーサが聞いているのはそこではなかった。
「妹のことは、聞きたいです」
少女はゆっくり答えた。
「そうかい」
「父のことは……少し気になります」
「うん」
「王太子殿下については」
言葉が止まる。
胸の内側を確かめる。
「今は、聞きたくありません」
口にした途端、少しだけ呼吸が楽になった。
「ならそれでいいんじゃないかい」
「ですが、必要な情報かもしれません」
「必要になったらローデンが聞くだろ」
少女は顔を上げる。
「ローデンさんが?」
「あんた一人で村の安全まで背負う必要ないだろ」
マーサは当然のことのように言った。
「自分のことだから自分で聞きたいものは聞けばいい。でも、村として必要なことまで全部あんたが聞かなきゃならないわけじゃない」
少女はしばらく答えられなかった。
自分の問題だから。
自分が追放されてきたから。
もし村へ何か起きたら自分の責任になる。
そんな考えが、知らないうちにまた胸の中へ入り込んでいた。
「……そうですね」
「食べな。冷めるよ」
「はい」
少女は木匙を持ち直した。
朝食を終え、食器を片づける。
今日は洗い物を手伝いたいと思ったので、自分からそう言った。
マーサは「ならそっちを洗いな」と二つの器を渡し、自分は鍋を洗う。少女は教わった通り、水を無駄にしすぎないよう布で汚れを落とし、最後にすすいだ。
以前より手際はよくなった。
それでも、マーサの方がずっと早い。
その差を見ても、妹の姿は浮かばなかった。
少女はそのことに、洗い終えてから気づいた。
「……マーサさん」
「今度は何だい?」
「今、私よりマーサさんの方がずっと早かったです」
「そりゃ何十年やってると思ってるんだい」
「そうなのですが」
少女は自分が洗った器を見る。
「比べても、嫌ではありませんでした」
「何の話だい?」
「いえ」
説明しようとして、やめた。
「少し、嬉しかっただけです」
「そうかい」
マーサは分からない顔をしていたが、それ以上は聞かなかった。
家を出る頃には、靄はほとんど消えていた。
朝日が村の道へ届き、雨の名残を含んだ土から湿った匂いが立っている。少女は一度深く息を吸い、右足の具合を確かめてから中央へ向かった。
昨日と同じ道。
けれど、昨日とは少し違う。
商人が来る。
王都の話を聞く。
そう考えるだけで胸が苦しかった昨日に比べれば、今日は自分が何を聞きたいのか、少しだけ分かっている。
途中、ベルの家の前を通った。
作業場ではベルが木材へ鉋をかけている。少女に気づくと手を止め、顎を上げた。
「足は?」
「一です」
「なら走るなよ」
「走りません」
「昨日も聞いた」
「今日は本当に走りません」
「昨日も走ってないだろ」
少女は一瞬考えた。
「では、なぜ言ったのですか?」
「なんとなくだ」
ベルは再び鉋を動かし始める。
少女は笑いながら先へ進んだ。
中央へ近づくにつれ、人の声が増える。
ハインの荷車は昨日と同じ場所にあったが、幌の中身はかなり減っていた。代わりに村から買い取った野菜、薬草、木工品、石鹸などが積まれ、ネストが荷崩れしないよう縄を掛け直している。
ガルドもいた。
昨日売れ残った野菜の籠を持っている。
「また売ろうとしているのですか?」
少女が尋ねると、ガルドは胸を張った。
「最後の交渉だ!」
荷台からハインの声が飛んできた。
「買わんぞ!」
「まだ何も言ってないだろ!」
「その籠持ってきた時点で分かるわ!」
近くにいたオルドが声を立てて笑う。
少女もつられて笑った。
「おはよう」
ローデンが帳面を抱えてやってきた。
「おはようございます」
「眠れたか?」
「はい」
「そうか」
ローデンはそれだけ確認すると、ハインへ帳面を渡した。
「共同分はこれで全部だ」
「確認する」
「昨日みたいに忘れるなよ」
「一回だろ!」
「前もあった」
「……二回だ」
ネストが小声で言う。
「叔父さん、三回です」
「お前は黙ってろ」
周囲からまた笑いが起きた。
少女はその様子を見ながら、胸の緊張が少し和らいでいくのを感じた。
ユウの姿を探す。
昨日は自分から近くにいてほしいと頼んだ。
今日も頼みたいのか。
少女は自分へ問いかける。
少し考えたところで、広場の反対側からユウが歩いてくるのが見えた。
片手に銀色の魔導書を持っている。
少女の視線に気づき、軽く手を上げた。
「おはよう」
「おはようございます」
「ハインさん、もう出る?」
「まだみたいです」
「よかった。ローデンさんに報告してから東側もう一回見ようと思ってたから」
「警戒線ですか?」
「うん。夜は反応なし。朝も一回見てきたけど、外側の線も変な反応はなかった」
ローデンも話を聞き、銀色の本を見る。
「人の跡は?」
「新しいのは見つけてない。俺が分かる範囲だけど」
「あとでケルにも見てもらう」
「お願いします」
少女は二人の会話を聞きながら、少しだけ安心した。
東側の問題はなくなっていない。
けれど、昨夜の間に何かが起きたわけでもない。
今日も確認する人がいる。
それで十分だった。
「昨日の続き、聞く?」
ユウが少女を見る。
尋ねられた瞬間、胸が少し速くなる。
「はい。ただ……全部ではありません」
「そっか」
「妹について、もう少し聞きたいです。それから父について、ハインさんが他に何か聞いていれば」
「うん」
「王太子殿下については、今日は聞きません」
ユウは少しも驚かなかった。
「了解」
「それで」
少女は一度息を吸った。
「今日も、近くにいていただけますか?」
「いいよ」
あまりに普通に答えられ、少女は僅かに目を伏せた。
「ありがとうございます」
「昨日と同じで、俺は話さなくていい?」
「はい。自分で聞きたいです」
「分かった」
そのやり取りを近くで聞いていたローデンが口を挟む。
「村に関係する部分は俺も聞くぞ」
「お願いします」
少女は素直に頷いた。
「私一人で全部を聞く必要はないと、今朝マーサさんに言われました」
「当たり前だ」
「ローデンさんまで即答するのですね」
「村のことだからな」
ローデンは肩をすくめた。
「お前さんの過去を全部聞き出すつもりはないが、役人や兵が来る可能性があるなら俺が知らん顔してるわけにもいかん」
「はい」
「だから、そこは俺が聞く。自分で聞きたいことは自分で聞け」
「分かりました」
少女の中で、昨日より少しだけ境界が明確になった。
自分の気持ちのために知りたいこと。
村の安全のために必要なこと。
重なる部分はあっても、同じではない。
ハインは荷物の確認を終えると、荷車の横で朝食代わりらしい硬いパンを齧り始めた。
少女が近づくと、すぐに気づく。
「おはよう」
「おはようございます」
「昨日の続きか?」
少女は少し驚いた。
「分かるのですか?」
「昨日あんなところで止めたからな。来るか来ないか、半々くらいだと思ってた」
「半々」
「来なきゃそれでいいと思ってたぞ」
ハインは残ったパンを布へ包み直した。
「聞くか?」
「はい。ただ、今日は聞くことを決めてきました」
「そりゃ助かる。俺も何でも知ってるわけじゃないからな」
少女は頷く。
「最初に、もう一度確認させてください。これから聞くことも、ハインさんが直接見たものではないのですよね」
「ああ。俺は王都には行ってない。二つ西の大きな宿場で、王都方面から来た商人連中に聞いた話が中心だ」
「同じ話を複数の方から聞いたものはありますか?」
「ある。逆に一人しか言ってない話もある」
「分けられますか?」
「覚えてる範囲なら」
「お願いします」
ハインが少しだけ姿勢を正した。
昨日よりも、少女が何を求めているのか理解している顔だった。
「まず、妹の方の令嬢について聞きたいです」
自分で口にすると、胸の奥が揺れた。
それでも昨日ほどではない。
「昨日、私の……その公爵令嬢の追放後に帰宅し、父親へ反発したという話を伺いました」
「そうだな」
「それは一人からだけですか?」
「待ってくれ」
ハインは顎へ手を当てた。
少女は急かさず待つ。
近くではネストが荷縄を締める音が続いており、少し離れたところではガルドとオルドがまだ何か話している。朝の広場は静かではなかったが、その雑音がかえって少女にはありがたかった。
「帰ってきて揉めたって話は二人から聞いた」
ハインが言った。
「二人?」
「ああ。ただ、たぶん元の出所が同じ可能性もある」
少女の眉が動く。
「どうしてですか?」
「二人とも王都南区の商人から聞いたって言ってたからだ。その南区の商人が同じ奴か、別の奴かまでは分からん」
「でしたら、二人が言っていても、情報源が二つとは限らない」
「そういうことだな」
少女は小さく頷いた。
昨日より落ち着いて聞けている。
「姉がそんなことをするはずがない、と言ったという部分は?」
「そっちは一人だ」
「父親へ詰め寄ったという話は?」
「それも同じ奴から聞いた」
「分かりました」
少女は息を吐いた。
期待が少し小さくなる。
けれど、失望とは違った。
昨日は「妹が自分を信じていた」という大きな一つの塊として胸へ入ってきた情報が、今日は少しずつ形を持ち始めている。
「他には?」
少女が尋ねる。
「妹の令嬢が、姉の処分について調べてるって話がある」
指先が僅かに動いた。
「……調べている?」
「らしい、だぞ」
「誰から聞きましたか?」
「これは一人だけだ。王都から来た布商人が言ってた」
「何を調べているのですか?」
「そこまでは分からん。処分が決まった時のことを家の使用人に聞いて回ってるとか、王宮へ行ったとか、その程度だ」
少女は黙った。
妹なら。
その言葉が頭へ浮かび、すぐに胸が痛んだ。
妹なら、自分より上手く調べられる。
妹なら、自分より頭がいい。
妹なら、自分より――。
少女は膝の上で手を握りかけ、ゆっくり開いた。
「……今、比べそうになりました」
小さく言う。
ユウが少女を見る。
「そっか」
「はい」
少女は少しだけ笑った。
「でも、今は妹が何をできるかではなく、何をしようとしているかを聞いているのでした」
ハインは事情を知らないため不思議そうな顔をしていたが、口を挟まなかった。
「続けてください」
「いいのか?」
「はい」
胸の重さを確かめる。
「今は三くらいです」
「三?」
ハインが首を傾げる。
「こちらの話です」
ユウが答えた。
「そうか」
ハインは深く追及しなかった。
「あと、妹の令嬢が王太子に会おうとして断られたって話も聞いた」
少女の表情が強張った。
王太子。
今日は聞かないと決めた相手の名前が、妹の話の中から出てきた。
ハインも気づいたらしい。
「これはやめるか?」
少女は迷った。
聞きたいのは妹の行動だ。
王太子が何を考えているかではない。
「妹が何をしたか、という範囲だけお願いします」
「分かった」
ハインは頷く。
「会おうとした。でも、すぐには会えなかった。それ以上は知らん」
「理由は?」
「知らない」
「後日会えたかどうかも?」
「分からん」
「……分かりました」
少女はそこで止めた。
なぜ会わなかったのか。
王太子は妹を避けているのか。
何か隠しているのか。
いくつもの疑問が浮かんだが、今日はそこへ進まない。
聞かないと決めた。
今は、その決定を変えたいとは思わなかった。
「妹について、他には?」
「俺が覚えてるのはそのくらいだな」
「そうですか」
少女は一度目を閉じた。
妹は帰ってきたらしい。
家で揉めたらしい。
自分を信じる言葉を口にしたという話がある。
処分について調べているという噂がある。
王太子へ会おうとしたとも言われている。
どれも確定ではない。
それでも、昨日より少しだけ妹の現在に輪郭が生まれた。
「ありがとうございます」
「もういいのか?」
「妹については」
少女は自分の胸へ意識を向けた。
「今は、十分です」
言えた。
昨日は感情が溢れて止めた。
今日は、自分で十分だと判断して止めた。
同じ「ここまで」でも、少し違う。
少女は一度水を飲んだ。
ハインが用意してくれた器ではなく、自分で持ってきた小さな水筒だった。マーサに「聞くなら水持ってけ」と渡されたものだ。
冷たい水が喉を通る。
「次に、父について聞きたいです」
口にした途端、胸の内側が少し硬くなる。
「昨日、しばらく表に出ていないという話を伺いました」
「ああ」
「それは、何人くらいから?」
「三人かな」
少女は少し驚いた。
「妹の話より多いのですね」
「公爵本人は商売にも影響するからな。大きな領地持ちが表に出なくなりゃ、商人は気にする」
少女はその言葉を聞き、別の意味で納得した。
父は自分にとって父だった。
けれど外の人間にとっては、公爵家の当主であり、大きな領地と金と人を動かす存在なのだ。
「いつ頃から?」
「婚約破棄の後って話しか知らん」
「直後ですか?」
「そこまで細かくは分からない」
「公務を完全に止めている?」
「いや、それは違うと思うぞ」
ハインは首を振った。
「家の仕事そのものは動いてるらしい。代官や家令がいるんだろ?」
「はい」
少女は反射的に答えた。
自分の家の仕組みを思い出す。
「父がすべてを直接処理するわけではありません」
「だろうな。領地から品物も普通に出てるって聞いた。だから家が潰れたとか、領地が止まったとかいう話じゃない」
「では、『表に出ていない』というのは?」
「王都の社交や王宮への出入りが減ったって意味らしい」
少女は考え込む。
父は元々、必要のない社交を好む人ではなかった。
けれど公爵という立場上、王宮へ出ないことは別だ。
「王家と揉めているという噂は?」
「それも二人から聞いた。ただ、理由が違う」
「教えてください」
「一人は、公爵令嬢の不祥事で王家から責任を問われてるって言ってた」
少女の胸が冷える。
自分のせい。
その言葉が浮かぶ。
けれど、すぐにハインが続けた。
「もう一人は逆だ」
「逆?」
「娘を追放した後で、公爵の方が王家に何か言ってるって話だった」
少女は瞬きを忘れた。
「父が……王家へ?」
「そう聞いただけだ。何を言ってるかは知らん」
「処分に反対した?」
「分からん」
「婚約破棄に?」
「それも分からん」
「では、何を」
言いかけて止まる。
ハインは知らない。
分からないものを、問い詰めても答えは出ない。
「……すみません」
「いや」
少女は膝の上の手を見る。
父が王家に何かを言っている。
それだけなら、いくらでも理由は考えられる。
自分の処分が軽すぎると抗議したのかもしれない。
公爵家の名誉を守るため、王家へ補償を求めているのかもしれない。
妹が騒いだため、形式上確認しているだけかもしれない。
あるいは。
ほんの一瞬だけ、別の可能性が浮かぶ。
父が、自分の処分を疑っている。
そこまで考えたところで、少女は自分から止めた。
「まだ、分かりません」
口にする。
「そうだな」
ローデンが静かに答えた。
「情報が足りん」
「はい」
父に期待したいのか。
少女自身にも分からなかった。
妹とは違う。
父から最後に向けられた言葉は、今もはっきり覚えている。
『……やはり、お前だったか』
自分の言葉を聞こうとしなかった。
否定しても、言い訳としか受け取らなかった。
その記憶は、噂一つで消えるものではない。
「父が王家へ何か言っているとしても」
少女はゆっくり言った。
「それで、あの日のことがなくなるわけではありません」
ユウは何も言わなかった。
ローデンも同じだった。
ハインだけが事情を完全には知らず、少し困ったように視線を逸らした。
「……そうですね」
少女は自分で続ける。
「今は、それでいいです」
父の真意まで決めない。
期待もしない。
悪い意味だとも決めない。
ただ、王家との間に何かあるという噂が複数ある。
今はそれだけ。
「他に、公爵家について聞いた話はありますか?」
ハインが少し考える。
「使用人が何人か辞めたって噂はあったな」
少女が顔を上げる。
「誰が?」
「名前までは知らん」
「なぜ辞めたのですか?」
「それも知らん。娘の件で家の空気が悪くなったとか、責任取らされたとか、ただ時期が重なっただけとか、話はばらばらだ」
「……そうですか」
少女は胸の中で家の使用人たちを思い浮かべる。
自分の侍女。
執事。
厨房の者たち。
庭師。
教師。
名前を知っている者も、ほとんど話したことがない者もいる。
誰かが自分のことで責任を負わされたのだとしたら。
胸が痛んだ。
だが、これもまだ分からない。
「その話は、一人から?」
「辞めた奴がいるって部分は二人。理由はそれぞれ別だ」
「分かりました」
少女は覚えておくことにした。
今すぐ何かできるわけではない。
それでも、忘れたくはなかった。
「母については、本当に何も?」
「俺は聞いてないな」
「そうですか」
少女はそれ以上尋ねなかった。
母について情報がない。
それは、母が何もしていないことを意味しない。
元気でいるのか。
自分をどう思っているのか。
妹と話したのか。
分からない。
「今日は、ここまでにします」
少女が言うと、ハインは少し驚いた顔をした。
「王太子の話は?」
「聞きません」
「いいのか?」
「はい」
胸は揺れた。
けれど、答えは変わらない。
「今は、聞きたくありません」
ハインは少女を数秒見た後、頷いた。
「分かった」
「もし村の安全に関係する情報があるなら、ローデンさんへお願いします」
「ああ」
ローデンが前へ出る。
「そこは俺が聞く」
少女は立ち上がった。
「ありがとうございました」
「役に立ったかは分からんぞ」
「分からないことが分かったものもあります」
「それ、役に立ってるのか?」
ハインが苦笑する。
少女は少し考えた。
「私には」
そして、小さく笑った。
「昨日よりは」
少女は少し離れた場所へ移動した。
ローデンはそのままハインと話し始める。
内容は聞こえない。
役人の動きや街道の検問、東側へ向かう者を見たかなど、村に必要な情報を確認しているのだろう。
少女は聞こうとはしなかった。
自分が聞かなければならない話ではない。
もし必要なら、後でローデンが教えてくれる。
その考え方は、まだ少し落ち着かない。
けれど、肩に乗っていたものが一つ減ったようにも感じた。
「どうだった?」
ユウが隣へ来る。
少女はすぐには答えず、自分の中を確認した。
「疲れました」
「うん」
「でも、昨日とは違います」
「どのへんが?」
「昨日は、聞いたものが全部一度に胸へ入ってきたような感じでした」
少女は言葉を探す。
「今日は、少しずつ置けた気がします」
「そっか」
「妹の話。父の話。使用人の話。分からないものは、分からないところへ」
「いいんじゃない?」
「はい」
少女はユウを見る。
「それから、王太子殿下のことは聞きませんでした」
「うん」
「気にならないわけではありません」
「そりゃそうでしょ」
「でも、聞かなくてもよいと思えました」
ユウは少し笑った。
「ならよかったんじゃない?」
「……はい」
そこへ、荷台から大きな声が飛んできた。
「ユウ!」
ハインだった。
「何です?」
「お前、今回何も売らんのか?」
ユウが首を傾げる。
「売るもの?」
「前に作った金具、街で結構評判よかったぞ」
「ああ、灰色の本で補強したやつ?」
「そう、それだ! もっとないのか?」
「ないです」
「作れ!」
「嫌です」
即答だった。
少女は目を瞬く。
ハインも同じだった。
「売れるぞ?」
「今いらないし」
「金になるぞ?」
「別に困ってないし」
「もっと稼げるぞ?」
「作るの面倒だし」
ハインは頭を抱えた。
「商売人泣かせだなお前!」
周囲で聞いていたベルが笑い声を上げる。
「諦めろ! そいつは必要にならんと作らん!」
「腕があるなら使えよ!」
「嫌です」
「二回言うな!」
少女は思わず笑った。
ハインはなおも食い下がろうとしたが、ローデンに「出発するんじゃなかったのか」と言われ、渋々荷車へ戻った。
「……ユウさん」
「ん?」
「本当に作らないのですか?」
「うん」
「売れるのに?」
「うん」
「お金になるのに?」
「今そんなに欲しくないし」
少女は少し考えた。
「もったいない、とは思わないのですか?」
「ちょっとは」
「では、なぜ?」
「作る時間使うじゃん」
「はい」
「その時間、昼寝できる」
少女は黙った。
ユウは真面目な顔をしている。
「……昼寝と、お金を比べているのですか?」
「今日は昼寝の勝ち」
少女は堪えきれず笑った。
ベルまで聞こえたらしく、作業場の方から「正しい!」という声が飛んでくる。
「ベルさんまで」
「腰が痛い日は寝るのが一番だ!」
「ベルさんは休んでください」
「お前に言われんでも休む!」
村の朝に笑い声が広がった。
少女は笑いながら、不意に思った。
王都にいた頃なら、能力があるのに使わないという考え方をどう受け取っただろう。
できるならやる。
優れているなら結果を出す。
学んだなら役立てる。
そうすることが当然だった。
妹は何でもできた。
だから褒められた。
自分は妹より時間がかかった。
だから、もっと努力しろと言われた。
そこでは「できるけれど、今日はやらない」という選択肢をほとんど見たことがない。
「ユウさん」
「何?」
「もし、毎日作ればたくさん売れるとしても?」
「毎日作りたくない」
「すごく簡単に言いますね」
「作りたくなったら作るかもしれないけど」
「……そうですか」
少女は少しだけ視線を落とした。
「私は、できることは全部やらなければならないと思っていました」
「疲れない?」
「疲れました」
「じゃあ全部やらなくてよかったんじゃない?」
あまりに単純な答えだった。
少女は苦笑する。
「昔の私に言っても、たぶん怒ると思います」
「俺も昔の俺に言ったら怒られそう」
「ユウさんも?」
「『お前がやらなかったら誰がやるんだ』って」
ユウは少しだけ遠くを見る。
「そんな感じだったから」
少女は何も言わなかった。
その横顔には、いつもの軽さだけではないものが一瞬混ざった。
けれど、無理に聞かない。
ユウが自分へそうしてくれたように。
やがて荷物の積み直しが終わった。
ネストが馬具を確認し、ハインが村人から預かった注文をもう一度帳面と照らし合わせる。
少女は少し離れたところから見ていた。
昨日は怖かった荷車。
今も完全に平気になったわけではない。
けれど、今目の前にある荷車には、ガルドの野菜やマーサの薬草、ベルの木工品、サナの石鹸が積まれている。
「あ」
少女は石鹸を見つけた。
薄い布に包まれた四角いもの。
「サナさん」
近くにいたサナへ声をかける。
「なんだい?」
「あれは、以前作っていた石鹸ですか?」
「別のやつだよ」
「そうなのですね」
「お前さんが手伝ったのはまだこっちだ」
サナは小さな籠を見せた。
中には型から外された石鹸がいくつか並んでいる。
「もう型から?」
「固まったからね。ただ、すぐ使うもんじゃないよ」
「まだ待つのですか?」
「そうだよ。乾かして落ち着かせる」
少女は石鹸を覗き込んだ。
自分が香草を砕き、混ぜる作業を手伝ったものだ。
もう形にはなっている。
けれど、まだ完成ではない。
「形になっても、待つのですね」
「石鹸はね」
サナが一つを手に取る。
「焦って使ったっていいことないよ。触れるようになったから完成、ってわけでもない」
少女はその言葉を聞きながら、白っぽい石鹸を見る。
形になっている。
目の前にある。
それでも、待つ。
「いつ使えるようになりますか?」
「様子見ながらだね」
「日にちを決めないのですか?」
「だいたいはあるけど、天気でも違うからね。触って、匂い見て、ちゃんと待つ」
「……そうですか」
「使いたい?」
少女は考える。
「はい」
素直に答えた。
「自分が手伝ったものを使ってみたいです」
「じゃあ使えるようになったら一個やるよ」
「よいのですか?」
「手伝っただろ」
「でも、材料はサナさんのものです」
「じゃあ今度また手伝いな」
少女は少し迷った。
「それは、石鹸をいただくためですか?」
サナが少女を見る。
数秒後、にやりと笑った。
「違うね」
「では?」
「お前さん、またやりたいんだろ?」
少女は石鹸を見る。
「……はい」
「ならそれでいい」
「はい」
少女は笑った。
「また、やりたいです」
ハインの出発準備が整った。
村人たちが荷車の周囲へ集まる。
ガルドは最後まで野菜を一つ追加で売ろうとして断られ、ネストに「次回お願いします」と宥められていた。
「次は全部買えよ!」
「量によります!」
「いい返事だ!」
「返事になってないだろ!」
ハインが怒鳴り、また笑いが起こる。
少女は少し後ろからその光景を眺めた。
「次はいつ来るのですか?」
少女がハインへ尋ねる。
「天気と道次第だが、いつも通りなら何週間か後だな」
「何週間か」
「急ぎで何か欲しい物があるなら今言え。次の大きな宿場で探してくる」
少女は一瞬考えた。
欲しいもの。
自分の持ち物は少ない。
服もほとんどない。
紙も炭筆も、今使っているものは村で分けてもらった。
必要なものはいくらでも思いつくはずなのに、急に聞かれると答えが出なかった。
「……今は、分かりません」
「じゃあ次までに考えとけ」
「はい」
「ローデンに言っとけば俺に伝わる」
「分かりました」
少女は少し迷った後、頭を下げた。
「それから、昨日と今日、ありがとうございました」
「俺は聞いた話をしただけだ」
「それでも」
少女は顔を上げる。
「私には必要でした」
ハインは少女をしばらく見てから、軽く頷いた。
「そうか」
それ以上、名前を尋ねなかった。
どの公爵家かも。
本当に自分が噂の令嬢なのかも。
少女はそのことにも頭を下げた。
荷車が動き始める。
車輪が土を踏む音に、身体が僅かに強張った。
昨日よりずっと小さい。
少女はその反応を無視せず、足の裏が地面に触れている感覚を確かめた。
ここは境界ではない。
自分は荷車に乗せられていない。
誰かに連れていかれるわけでもない。
荷車は西へ向かう。
「またなー!」
ガルドが大きく手を振る。
「次は豆減らしとけ!」
「増やしとく!」
「話聞け!」
ハインの声が遠ざかる。
村人たちの笑い声も続いた。
少女は荷車が見えなくなるまで見送った。
胸の中に、少し不思議な感覚が残っている。
西へ行く道。
その先には街があり、さらに遠くには王都がある。
以前なら、そこは自分が戻らなければならない場所だったかもしれない。
名誉を取り戻す。
無実を証明する。
家族に分かってもらう。
妹と話す。
王太子に真実を認めさせる。
それらを全部終えて、ようやく自分の人生が再開する。
そう考えていたかもしれない。
けれど今、少女の背後からサナの声が聞こえた。
「昼から暇なら、石鹸の置き場所変えるの手伝うかい?」
少女は振り返る。
サナが籠を抱えている。
「重い作業ですか?」
「軽いのだけ渡すよ」
「では、やってみたいです」
「昼飯食ってから来な」
「はい」
今度はベルが声をかけてくる。
「足が一なら、鑿も少しやるか?」
少女は迷った。
石鹸。
鑿。
両方はできるかもしれない。
だが、両方やる必要はない。
「今日は石鹸を手伝います」
「そうか」
「鑿は、また別の日でもよいですか?」
「木は逃げん」
「ありがとうございます」
ベルはそれだけ言って作業場へ戻った。
少女はその背中を見送り、少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
断った。
でも、何も失わなかった。
ベルは不機嫌にもならない。
次はもう教えないとも言わない。
ただ、木は逃げないと言った。
「忙しいね」
隣からユウの声がした。
少女は彼を見る。
「二つしか誘われていません」
「十分じゃない?」
「ユウさんは?」
「昼寝」
「本当にするのですか?」
「するよ。昨日言ったし」
「誰に約束したのですか?」
「俺に?」
少女はまた笑った。
「それは、守らなければなりませんね」
「でしょ?」
「はい」
笑いながら答えた後、少女はふと気づいた。
昨日、妹のことを聞いた。
今日、さらに少しだけ聞いた。
父についても知った。
何一つ解決していない。
むしろ、分からないことは増えたかもしれない。
それでも今日の午後には、サナと石鹸を動かす予定がある。
夕食は何だろう。
明日は鑿を触るかもしれない。
オルドのところへ鶏を見に行ってもいい。
空き家についても、まだ見たいところがある。
「ユウさん」
「ん?」
「少し前まで、私は王都のことを全部片づけないと、その先のことを考えてはいけないような気がしていました」
「うん」
「でも」
少女は西の道から村へ視線を戻した。
「先のことは、もう始まっていたのですね」
ユウはすぐには答えなかった。
少女も答えを求めて言ったわけではない。
村の中央では、商人が去った後の片づけが始まっていた。
空になった籠をオルドが重ね、ローデンは帳面を確認し、ガルドは売れ残った野菜を誰へ押しつけるか考えているらしい。サナは石鹸の籠を持って自宅へ向かい、ベルの作業場からは再び鉋の音が聞こえ始めている。
何も特別ではない朝だった。
王都で何が起きているかとは関係なく、村の一日は続いている。
「そうかもね」
しばらくしてユウが言った。
少女は頷いた。
「はい」
昼前、マーサの家へ戻ると、台所には見慣れた籠が置かれていた。
少女は嫌な予感を覚えながら覗き込む。
豆が入っている。
「マーサさん」
「なんだい?」
「これは」
「ガルドが置いてった」
「売れ残ったものですか?」
「そうだね」
少女はしばらく豆を見つめた。
朝は豆ではなかった。
昼も、たぶん別のものにしてくれるだろう。
けれど、この量なら近いうちにまた食卓へ並ぶ。
「……豆そのものは嫌いではないのです」
「知ってるよ」
「本当に嫌いではありません」
「分かったって」
「念のためです」
マーサが笑う。
「なら今夜は豆にするかい?」
少女は真剣に考えた。
「今夜なら……少し」
「少しかい」
「他のものも一緒なら」
「注文が増えたね」
少女の身体が一瞬止まる。
けれど、マーサの顔を見ると笑っている。
「……嫌ですか?」
「誰が?」
「私が注文することです」
「作れないもんなら作れないって言うよ」
「では」
少女は少しだけ考え、言った。
「豆と、卵が食べたいです」
「オルドんとこ行って買ってきな」
「私が?」
「食べたいんだろ?」
少女は目を瞬いた。
卵を買う。
それだけのことなのに、少し胸が弾んだ。
「行ってきます」
「走るんじゃないよ」
「今日は皆さんに言われます」
「普段走りそうな顔してるんじゃないかい」
「どのような顔ですか?」
「知らないよ」
少女は笑いながら家を出た。
オルドの家までの道は、もう迷わない。
昨日までの自分なら、王都から情報が来た翌日に卵を買いに行くなど、あまりにも呑気ではないかと思ったかもしれない。
妹が何をしているかもしれない。
父が王家と揉めているかもしれない。
使用人が辞めたかもしれない。
自分の冤罪について、何かが動き始めているかもしれない。
それでも、腹は減る。
夕食も来る。
食べたいものもある。
オルドの鶏小屋が見えてくる。
柵の向こうで何羽かの鶏が土をつついている。
「こんにちは」
「おう」
オルドが振り返る。
「今日は見るだけか?」
「今日は、卵を買いに来ました」
「何個だ?」
少女は止まった。
個数を聞いていなかった。
「……マーサさんに聞いていません」
「じゃあ戻るか?」
「いえ」
少女は考える。
自分とマーサ。
二人分。
他の料理にも使える。
ただ、多すぎても困る。
「四つでは、多いでしょうか」
「別に。数日は持つ」
「では四つください」
「分かった」
オルドは籠から卵を四つ取り出した。
少女はそこで、もう一つ問題に気づく。
代金。
自分は小さな銀貨をいくらか持っている。
追放時に残された、数少ない自分の財産。
「おいくらですか?」
オルドが値段を言う。
少女は袋から硬貨を取り出した。
王都で扱っていた金額とは比べものにならないほど小さい。
それでも、今の自分が自分のために使うお金だ。
「これで合っていますか?」
「多い」
「え?」
「こっちだ」
オルドが小さな硬貨を指す。
少女は顔が熱くなった。
「すみません。日常の買い物を自分でしたことが、ほとんどなくて」
「なら今日覚えりゃいい」
オルドは何でもないように言った。
「こっち一枚と、それ二枚」
「はい」
少女は言われた通り硬貨を渡す。
オルドは卵を小さな籠へ入れた。
「籠は返せよ」
「分かりました」
「落とすなよ」
「気をつけます」
少女は両手で籠を受け取った。
四つの卵。
自分で選んで、自分のお金で買った。
ほんの小さなことだった。
公爵家の令嬢として受けた教育と比べれば、あまりにも些細だ。
領地の税収計算はできる。
大規模な晩餐会の席次も組める。
複数の貴族家の関係を覚え、外国の歴史や礼法も学んだ。
なのに卵四つの代金を間違えた。
以前なら、恥ずかしくて仕方がなかっただろう。
今も少し恥ずかしい。
けれど。
「オルドさん」
「ん?」
「次は間違えないと思います」
「そりゃよかった」
それで終わった。
帰り道、籠を抱えながら少女は何度も中を確認した。
割れていない。
落としてもいない。
少し歩幅を小さくする。
踵は一のまま。
道の途中で、ユウが家の前に椅子を出しているのが見えた。
「何をしているのですか?」
「昼寝の準備」
「外で?」
「天気いいから」
「本当に寝るのですね」
「言ったでしょ」
少女は籠を少し持ち上げた。
「私は卵を買いました」
「おお」
「四つです」
「うん」
「最初、代金を間違えました」
「そうなんだ」
「次は間違えないと思います」
「よかったじゃん」
それだけだった。
すごいとも。
そんなことも知らなかったのかとも言わない。
少女は少し笑う。
「ユウさん」
「ん?」
「おやすみなさい」
「まだ昼前だけど」
「昼寝をするのでしょう?」
「する」
「では、おやすみなさい」
ユウも笑った。
「おやすみ」
少女はマーサの家へ向かう。
腕の中には四つの卵。
午後には石鹸。
王都のことは、今日はもう聞かない。
妹のことも、父のことも、次に何か分かるまで答えを作らない。
村の道を歩きながら、少女はふと西の方角を振り返った。
ハインの荷車は、もう見えない。
その先には自分が失った世界がある。
そして、その世界では今も何かが動いているらしい。
妹が自分を探しているかもしれない。
父が王家へ何かを訴えているかもしれない。
それらはまだ、確かではない。
だから今は、追いかけない。
無かったことにもしない。
聞かなければならないから聞くのでもなく、知るのが怖いから永遠に背を向けるのでもない。
自分が聞きたい時に、聞けるだけ聞く。
止めたくなったら、止める。
少女は前を向いた。
籠の中で卵が触れ合わないよう、少しだけ持ち方を直す。
今日の自分が選んだものは、王都へ戻る道ではなかった。
大きな決断でもない。
夕食に食べる、四つの卵だった。
それでも少女は、その小さな籠を昨日までより少し大切に抱えて、マーサの家へ帰っていった。




