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第25話 村に来た商人

 目を覚ました時、少女は最初に窓の外を見た。


 薄い雲の向こうから朝日が差し込み、マーサの家の前を通る細い道を淡く照らしている。いつもと同じように遠くで鶏が鳴き、少し遅れて井戸の滑車が軋む音が聞こえてきたが、今日はその何でもない朝の音を聞きながら、胸の奥に小さな重さが残っていることにも気づいた。


「……今日ですね」


 村へ商人が来る。


 昨夜まで何度も考えた。


 姿を見せるか。


 王都について尋ねるか。


 自分の名前を明かすか。


 妹について聞くか。


 結局、そのどれにも完全な答えは出さないまま眠った。


 けれど、それでよいのだとも思っている。昨日の自分が決め切れなかったことを、今日の自分まで無理に守る必要はない。


 少女は寝台の端へ腰を下ろし、右足へ薄い当て物を入れてから靴を履いた。


 立ってみる。


 部屋の中を数歩歩く。


 痛みはない。


「今は、零」


 もう自然にそう言えるようになった。


 零だから一日中歩ける、ではない。


 今は零。


 変わったら、その時また考える。


 少女は窓辺へ近づき、そこに置いていた二つのものを見た。


 一つはベルからもらった木片。


 初めて鑿を使った時の、浅すぎる跡も、深く削りすぎた跡も、少し上手くできた跡も残っている。


 もう一つは昨日書いた紙だった。


『王都で、私の追放はどのように伝わっているか』


『両親は何かしているか』


『妹は』


 最後の一行だけ、問いが完成していない。


 少女は紙を開いてしばらく眺めた後、折り直した。


 今日は持っていくことにした。


 台所へ下りると、マーサは既に朝食の支度を終えていた。


 焼いた黒パンと野菜のスープ。それから、小さな木皿には昨日ガルドが持ってきた豆が当然のように載っている。


「おはようございます」


「おはよう。眠れたかい?」


「はい。途中で目も覚めませんでした」


「なら食べな」


 少女は椅子へ座った。


 マーサは商人の話をしなかった。


 少女が切り出すまで待っているのだろう。


 そう分かるからこそ、少女も急いで話そうとはしなかった。


 まずパンを一口食べる。


 スープを飲む。


 豆も食べる。


 いつもと同じ朝食だった。


 王都で暮らしていた頃なら、何か重要な予定がある日の朝は、食事を味わう余裕などなかったかもしれない。予定を頭の中で何度も確認し、失敗しないために先の先まで考え、食べ終わったかどうかすら曖昧なまま席を立つこともあった。


「マーサさん」


「なんだい?」


「私、今日は村の中央へ行こうと思います」


 マーサはパンをちぎりながら少女を見る。


「そうかい」


「商人の方を見てみます」


「うん」


「話を聞くかは、まだ決めません」


「それでいいんじゃないかい」


「それから……」


 少女は少し迷った。


「ユウさんかローデンさんに、一緒にいていただきたいです」


 口にすると、胸の奥にあった緊張が僅かにほどけた。


 一人で向き合わなければならない。


 そんな決まりは、どこにもない。


「だったら頼みな」


「自分でできることなのに、頼んでもよいのでしょうか」


「一人で立ってられるなら椅子使っちゃいけないのかい?」


「……違います」


「同じだよ」


 マーサはスープを飲んだ。


「一人でも聞ける。けど、一人じゃない方が安心する。なら誰かに隣にいてもらえばいい」


「はい」


「ただし、ユウが嫌だって言ったら諦めな」


「嫌と言われるでしょうか」


「知らないよ。本人に聞きな」


 少女は少し笑った。


「そうします」


 朝食を終える頃には、村の外がいつもより賑やかになり始めていた。


 商人が来る日には、売るものや交換するものを持って村の中央へ集まるらしい。マーサも乾燥させた薬草を小さな袋へ詰め、少女が手伝おうとすると「袋を押さえてくれ」と頼んだ。


 少女は言われた通り袋の口を広げる。


「これを売るのですか?」


「そうだよ」


「薬草は村でも使いますよね」


「使う分は残してある」


「全部売らない?」


「全部売ったら必要な時困るだろ」


「そうですね」


 マーサは乾燥した葉を量りながら袋へ入れていく。


「逆に全部取っといても、古くなるだけだしね」


「必要な分を残して、余る分を売る」


「そういうこと」


 少女は袋の口を縛った。


 王都で学んだ領地経営の講義でも、似た考え方は何度も聞いたことがある。


 生産量。


 備蓄量。


 消費予測。


 市場価格。


 帳簿の上では知っていた。


 けれど今、自分の手の中にあるのは「薬草一袋」だった。


「……少し不思議です」


「何が?」


「昔、こういうことを数字では習いました」


「薬草の売り方を?」


「もっと大きな話です。領地の生産や備蓄について」


「へえ」


「でも、実際に袋へ詰めたのは初めてです」


 マーサが笑う。


「なら今日は一袋分、詳しくなったね」


「一袋分」


 少女も笑った。


「はい。そうかもしれません」


 準備を終えた頃、家の外から大きな声が聞こえた。


「来たぞー!」


 ガルドだった。


 商人が来たのかと少女の身体が一瞬強張ったが、続いて聞こえた声で違うと分かった。


「マーサ! これも売る!」


「朝からうるさいね!」


 マーサが外へ出る。


 少女も後を追った。


 ガルドは大きな籠を抱えて立っていた。


 中には豆だけでなく、形の不揃いな根菜や葉物が詰め込まれている。


「こんなに売るのですか?」


「売れるならな!」


「売れなかったら?」


「食う!」


「全部?」


「皆でな!」


 ガルドは笑う。


「商人が来るたびにこうなのですか?」


「だいたいね」


 マーサが答える。


「ガルドは値段より持って帰るのが嫌なんだよ」


「重いからな!」


「なら最初から減らしな」


「売れるかもしれんだろ!」


 少女は籠を覗き込んだ。


 曲がった根菜がある。


 以前ユウがガルドの畑から持ち帰ってきたものとよく似ていた。


「形が違っても売れるのですか?」


「味は同じだ!」


 ガルドが即答する。


「街の商人は見た目も気にするよ」


 マーサが横から言う。


「じゃあ安くする!」


「最初からそれ言うんじゃないよ。値切られるだろ」


「そうなのか?」


「毎回言ってるだろ」


 少女は思わず吹き出した。


「ガルドさん、交渉は得意ではないのですね」


「畑は得意だ!」


「それは知っています」


 少女は素直に答えた。


 ガルドが満足そうに胸を張った。


 三人で村の中央へ向かう。


 マーサは薬草の袋だけを持ち、少女が持とうとした時には「軽いから自分で持つ」と断った。少女も無理に取ろうとはせず、代わりにガルドの籠から落ちそうになっていた葉を中へ戻した。


 中央の広場と呼ぶには小さな空き地には、既に何人もの村人が集まっていた。


 ベルは木製の小物を三つ並べている。


 オルドは卵を籠に入れていた。


 サナは石鹸らしい包みをいくつか用意しており、その中に少女が手伝ったものがあるのか気になったが、まだ声はかけなかった。


「おはよう」


 ローデンが少女に気づいた。


「来たか」


「はい」


「足は?」


「今は零です」


「ならいい」


 ローデンの近くには、何冊かの薄い帳面が積まれていた。


 少女はそちらへ目を向ける。


「それは?」


「村でまとめて買う物の記録だ。塩、油、釘、布、薬なんかだな」


「見てもよいですか?」


「構わんが、面白くないぞ」


 少女は一冊を開いた。


 数字と品名が並んでいる。


 誰が何を頼んだか。


 村の共同分がいくつか。


 前回の価格も横に記録されている。


 文字は少し癖が強いが、読むことはできた。


「前回より塩を増やすのですか?」


「ああ。冬前に少しずつ備蓄を増やす」


「でも、油は減っています」


「前回多めに買ったから残ってる」


 少女は頷く。


 自然に数字を追っていた。


「この合計は……」


 言いかけて、指が止まる。


「何だ?」


「いえ」


「間違ってるか?」


「そうではありません」


 少女はもう一度数字を見る。


「この列は村の共同購入分で、こちらが個人分ですか?」


「そうだ」


「でしたら、合っています」


「なんだ、驚かせるな」


「すみません」


「謝ることじゃない」


 ローデンは帳面を覗く。


「こういうの分かるのか?」


「はい」


 少女は少し迷ってから答えた。


「領地経営のために、会計や帳簿についても学びました」


「貴族の教育か」


「はい」


 以前より、その言葉を口にする時の痛みが少し弱い。


「もっと複雑な帳簿も読めます。ただ……」


「ただ?」


「実際に豆や卵が並んでいるところで見るのは初めてです」


 ローデンが笑った。


「そりゃ公爵令嬢が市場で豆数えんだろうな」


 少女の肩が僅かに揺れた。


 けれど、ローデンの声には皮肉も侮蔑もない。


「そうですね」


 少女は自分でも笑った。


「今は数えています」


「だな」


 その時、東側からではなく、西の街道の方から小さな鐘の音が聞こえた。


 村人たちが一斉に顔を上げる。


「来たぞ!」


 誰かが言った。


 少女の胸が強く鳴った。


 道の向こうに荷車が見えた。


 二頭ではなく一頭の馬が引く、中型の幌付き荷車だった。


 御者台には男が一人座っている。


 その隣には若い男がもう一人。


 武装した兵士の姿はない。


 それでも少女の身体は勝手に強張った。


 荷車。


 見知らぬ男。


 街道。


 追放された日の記憶が、ほんの一瞬だけ重なる。


「大丈夫?」


 横から声がした。


 少女は振り返る。


 いつの間に来たのか、ユウが少し離れた場所に立っていた。


「……はい」


 答えた後、少女は首を横へ振った。


「いいえ。少し怖いです」


「そっか」


 ユウはそれ以上近づかなかった。


 少女は一度息を吐く。


「ユウさん」


「ん?」


「お願いしてもよいですか?」


「何を?」


「商人の方がいる間、できれば……近くにいていただきたいです」


 言い切るまでに少し時間がかかった。


 ユウは周囲を見る。


「俺、特にやることないからいいよ」


「嫌ではありませんか?」


「嫌じゃない」


「ありがとうございます」


「でも俺が代わりに質問する?」


 少女は少し考えた。


「いいえ」


 今度ははっきり答えられた。


「聞くなら、自分で聞きたいです」


「了解」


 ユウはそれだけ答えた。


 少女の胸の奥にあった緊張が、ほんの少しだけ軽くなった。


 荷車が村へ入ってくる。


 馬が止まり、御者台から四十代ほどの男が降りた。


「よう、ローデン!」


「久しぶりだな、ハイン」


「久しぶりってほど空いてないだろ!」


「お前が毎回そう言うんだ」


 商人――ハインは大きく笑った。


 その後ろから、二十歳前後に見える若い男も降りてくる。


「そっちは?」


「甥のネストだ。最近手伝わせてる」


「よろしくお願いします」


 若い男が頭を下げる。


 村人たちもそれぞれ挨拶を返した。


 少女は少し離れた場所から様子を見ていた。


 普通だ。


 少なくとも今見える範囲では、普通の商人だった。


 王国の兵士でもない。


 自分を捕まえに来た役人でもない。


 ただ荷物を運んできた人。


 そう頭では分かっていても、緊張はすぐには消えなかった。


「まず頼まれてたもん下ろすぞ!」


 ハインが幌を開ける。


 中から袋や木箱が次々と出てきた。


「塩!」


「こっちだ!」


「油!」


「マーサの分もあるよ!」


「布は?」


「青と茶! 赤は高くてやめた!」


「誰が頼んだ釘だ!」


「俺だ!」


 急に村が賑やかになった。


 少女は目を瞬いた。


 商人が来るという言葉から、自分はもっと静かで緊張した場面を想像していた。


 実際にはガルドが野菜を抱えて値段を聞き、ベルが横から「先に買う物を下ろせ」と怒鳴り、オルドが卵を割るなと甥のネストへ何度も注意している。


「……忙しいですね」


「いつもこんな感じ」


 ユウが隣で答える。


「もっと商談らしいものを想像していました」


「これも商談じゃない?」


「そうなのでしょうか」


 目の前ではガルドが叫んでいた。


「この豆はうまいぞ!」


「知ってるよ!」


 ハインも負けずに叫ぶ。


「なら高く買え!」


「量が多いんだよ!」


「多い方がいいだろ!」


「俺はこの後も村回るんだ!」


「全部売れ!」


「無茶言うな!」


 少女は口元を押さえた。


「……商談ですね」


「たぶん」


 しばらく見ているうちに、少女の身体から少しずつ力が抜けていった。


 ハインは村人一人一人と話しながら、品物を確認している。


 サナの石鹸を手に取り、香りを確かめる。


 ベルの木箱を開け閉めする。


 ガルドの根菜は本当に形が悪いと言って値段を下げようとし、ガルドと再び言い合いになる。


 そのどれも、自分とは関係のない日常だった。


「お嬢さんは?」


 突然ハインの視線が少女へ向いた。


 胸が跳ねる。


 ユウは動かなかった。


 代わりに答えようともしない。


 少女は一度だけ呼吸を整えた。


「……こんにちは」


「こんにちは。見ない顔だな」


「はい」


「村の親戚か?」


 少女はローデンを見る。


 ローデンも何も言わない。


 自分で答えてよいということなのだろう。


「今、マーサさんのお家にお世話になっています」


「マーサの?」


「はい」


 ハインがマーサを見る。


「珍しいな」


「何がだい」


「いや、あんた他人を家に泊めるの嫌がるだろ」


「嫌なら泊めてないよ」


「そりゃそうだ」


 ハインは笑った。


 それ以上、少女について追及しなかった。


 少女は少し拍子抜けした。


「……聞かれませんでした」


 小声で言う。


 ユウが首を傾げる。


「何を?」


「名前や、どこから来たのか」


「気になったら後で聞くんじゃない?」


「そうかもしれません」


「聞かれたくない?」


 少女は考える。


「今は、少しだけ」


「なら今はそれでいいんじゃない」


「はい」


 商人との取引が続く。


 少女はしばらく見ているだけだったが、ローデンが帳面と商品を何度も見比べていることに気づいた。


「どうしました?」


「油が一つ足りない」


 ハインが荷台を覗き込む。


「嘘だろ?」


「頼んだのは六だ」


「五しかないな」


「だから言ってる」


「どっかで下ろしたか?」


 ハインは頭を掻いた。


 少女は帳面を見る。


「前回の注文を書いた紙はありますか?」


「俺が持ってる」


 ハインが荷台から別の帳面を出した。


「見ても?」


 少女が尋ねると、ハインは少し驚いた顔をした。


「ああ、読めるなら」


 少女は帳面を受け取った。


 注文の欄を見る。


 油。


 五。


「こちらには五とあります」


「え?」


 ローデンが覗く。


「俺の方は六だぞ」


「注文を変更したのではありませんか?」


「覚えてないな」


 ハインが腕を組む。


 少女は前後の記録を確認した。


「ここに、小さく追記があります」


「どれ?」


「『一つ、塩へ変更』」


 ハインが顔を近づける。


「ああ!」


「お前の字だろ!」


 ローデンが怒鳴る。


「思い出した! 前の村で塩が足りないって話になって、こっちも増やすかって!」


「なら言え!」


「忘れてた!」


 周囲から笑い声が上がった。


 少女は帳面を返す。


「助かった」


 ハインが言った。


「いえ」


「字読むの速いな」


「こういうものは慣れています」


「商家の娘か?」


 少女の身体が僅かに固まる。


「……違います」


「そうか」


 ハインはそれ以上聞かなかった。


 代わりにローデンへ向き直る。


「塩はちゃんと一袋増えてるぞ!」


「そこ間違ってたら殴るところだった」


「怖い村だな!」


「お前が忘れるからだ!」


 また笑いが起こった。


 少女は少し離れた。


 胸の奥が速く動いている。


 商家の娘か。


 違う。


 それだけ答えた。


 嘘ではない。


 けれど、本当のことを全部言ったわけでもない。


「大丈夫?」


 ユウが尋ねる。


「はい」


 少女は少し考える。


「……三くらいです」


「怖さ?」


「はい」


「休む?」


 少女は周囲を見る。


 まだここにいたい。


「少しだけ、端へ行きたいです」


「じゃあ行こう」


 二人は広場から少し離れ、ベルが作った見張り用ではない普通の長椅子へ座った。


 少女は膝の上で両手を組む。


「逃げたわけではありませんよね」


「何から?」


「商人の方から」


「休んでるだけじゃない?」


「そうですね」


 少女は呼吸を整える。


 少しずつ胸の速さが戻っていく。


「ユウさん」


「ん?」


「私は、あの方に本当のことを言っていません」


「うん」


「それは、悪いことでしょうか」


「聞かれてないことまで全部話さないと駄目なの?」


「……分かりません」


「俺、ハインさんに元介護福祉士だって言ったことないよ」


 少女は顔を上げた。


「そうなのですか?」


「言っても分かんないし」


「異世界から来たことは?」


「それも言ってない」


「でも、村の方は知っていますよね」


「だいたいはね」


「商人の方には?」


「別に必要ないかなって」


 少女は少し驚いた。


「隠しているのですか?」


「隠してるっていうか、話してないだけ」


「違うのですか?」


「俺は違うと思ってる」


 ユウは少し考えた。


「聞かれたら全部答える義務がある相手でもないし」


「……そうですね」


「ただ、嘘ついて困ることなら別だけど」


「私は?」


「俺が決めるの?」


 またそれだった。


 少女は苦笑する。


「決めませんね」


「うん」


「でも、聞いてくださってありがとうございます」


「どういたしまして」


 しばらく休むと、怖さは二ほどまで下がった。


 広場の騒がしさも、もう脅威には聞こえない。


 少女は折った紙を取り出した。


「聞いてみようと思います」


「何を?」


「まず、王都で最近大きな出来事があったか」


「名前は?」


「まだ言いません」


「了解」


「一緒に来ていただけますか?」


「もちろん」


 少女は立ち上がった。


 広場へ戻る。


 取引は一段落し、ハインは荷車の横で水を飲んでいた。


 ローデンも近くにいる。


 少女はそちらへ歩いた。


 一歩。


 もう一歩。


 足は痛くない。


 胸は少し苦しい。


 それでも、自分で進める。


「ハインさん」


「ん?」


 商人が振り返る。


「少し、伺ってもよろしいでしょうか」


「もちろん。何だ?」


 少女は一度ローデンを見る。


 ローデンは小さく頷いた。


 ユウは少女の斜め後ろにいる。


 代わりに話す位置ではない。


 ただ、そこにいる。


「最近、王都で……貴族に関係する大きな出来事はありましたか?」


 ハインの表情が変わった。


 少女はそれを見逃さなかった。


「貴族?」


「はい」


「王都そのものには行ってないから、俺が知ってるのは街道沿いで聞いた話だけだぞ」


「それで構いません」


「噂も混じってる」


「噂なら、そう教えてください」


 ハインは少し感心したように少女を見る。


「変わった聞き方するな」


「間違えたくないので」


「分かった」


 ハインは水の入った器を荷台へ置いた。


「いくつかあるが……一番大きいのは、王太子殿下の婚約がなくなったって話だな」


 少女の指先が冷たくなった。


 知っている。


 自分のことだ。


 それでも、外の人間の口から聞くと全く違う重さを持っていた。


「理由は?」


 少女は自分の声が震えないよう、ゆっくり尋ねた。


「そこが話によって違う」


 ハインが眉を寄せる。


「違うのですか?」


「ああ。最初に聞いたのは、婚約者だった公爵家の令嬢が、ある男爵家の娘にひどいことをしたって話だ」


 少女の喉が詰まる。


 ユウは何も言わない。


 ローデンも黙っている。


「どのようなことをしたと?」


「嫌がらせとか、脅しとか。詳しい話じゃ、階段から落とそうとしたとか、毒を使ったとかいうのも聞いた」


「……毒」


 少女は小さく繰り返した。


 自分が責められた罪の中にも、それはあった。


「それは事実として?」


「俺が最初に聞いた時は、やったことになってた」


「今は違うのですか?」


 ハインが少し首を傾げる。


「だから変なんだよ」


 少女は顔を上げた。


「変?」


「二つ先の宿場で聞いた話だと、毒なんか使ってないって言う奴がいた」


「誰が?」


「知らん。商人同士の噂だ。王都の使用人から聞いたって奴もいたが、その使用人が誰かまでは知らん」


「では、確認できない」


「そうだな」


 少女は紙を握りしめそうになり、力を抜いた。


 噂。


 まだ事実ではない。


「他には?」


「階段の話も、見た奴がいるって話と、誰も直接見てないって話がある」


「……直接見ていない」


「それから、婚約を破棄したのは公開の場だったらしい」


「それは」


 少女は息を飲む。


「……事実です」


 ハインの目が少女へ向いた。


 ローデンの表情が僅かに変わる。


 ユウは動かない。


 言ってしまった。


 少女は自分でも驚いていた。


 けれど、訂正しようとは思わなかった。


「知ってるのか?」


 ハインが尋ねる。


「はい」


「王都にいた?」


 少女はすぐには答えなかった。


 怖さが上がる。


 三。


 四まではいかない。


「……いました」


 それだけ答えた。


 ハインは少女をじっと見る。


 視線が顔から服へ、そして再び顔へ戻った。


 少女は逃げなかった。


「もしかして」


 ハインが言いかける。


 少女の胸が大きく鳴る。


「ハイン」


 ローデンが静かに呼んだ。


 止める声ではなかった。


 ただ、少し慎重になれという響きがあった。


 ハインはローデンを見る。


 それから少女へ戻る。


「いや」


 言葉を変えた。


「聞かない方がいいか?」


 少女は驚いた。


 名前を当てられると思っていた。


 けれど、ハインは止まった。


「……今は」


 少女は一度呼吸する。


「今は、聞かないでいただけると助かります」


「分かった」


 ハインは頷いた。


 それだけだった。


 少女の肩から少し力が抜ける。


「ありがとうございます」


「別に」


 ハインは頭を掻く。


「ローデンが何も言わんってことは、俺が勝手に聞かん方がよさそうだ」


「すまんな」


「面倒事じゃないならいい」


 ハインがローデンを見る。


「面倒事なのか?」


「分からん」


「一番困る答えだな」


「だから分かるまで勝手に広げるな」


「分かったよ」


 ハインは少女へ視線を戻した。


「名前も聞かない。どこから来たかも、今は聞かない」


「……はい」


「ただ、俺が聞いた噂でいいなら話す」


「お願いします」


 少女は座りたくなった。


 近くの椅子へ視線を向ける。


「座ってもよいでしょうか」


「もちろん」


 自分から言えた。


 ユウが椅子を運ぼうとしたが、少女は首を横へ振った。


「そこにあるもので大丈夫です」


 自分で数歩歩き、腰を下ろす。


 ユウも少し離れた場所へ座った。


 ローデンは立ったまま。


 ハインは荷車へ背を預けた。


「続きをお願いします」


 少女が言う。


「婚約破棄の後、その公爵令嬢は王都からいなくなった。これはかなり広まってる」


「追放されたと?」


「そう聞いてる」


「どこへ?」


「そこも話が違う」


 少女の眉が僅かに動いた。


「国外へ追放されたって話もあれば、東の辺境へ送られたって話もある。修道院に入れられたって言う奴までいた」


「修道院……」


 自分は一度も修道院へ行っていない。


「罪人として処刑されたという話は?」


「俺は聞いてない」


 少女は少し息を吐いた。


「正式な布告は?」


「見てない」


「では、今のお話は」


「ほとんど噂だな」


「分かりました」


 少女は頭の中で整理する。


 王太子の婚約破棄。


 公開の場で行われたこと。


 公爵令嬢が王都から消えたこと。


 ここまでは自分が知っている事実と一致する。


 その後。


 国外追放。


 東の辺境。


 修道院。


 情報が分かれている。


「追放先が統一されていない……」


 少女は小さく呟いた。


 ローデンが反応する。


「気になるな」


「はい」


 少女は彼を見る。


「私が境界で聞いたのは、東側でした」


 ハインが少女を見る。


 少女はもう、その視線から逃げなかった。


「やっぱり」


 ハインがそこまで言い、また止めた。


「……いや、名前は聞かない約束だったな」


「はい」


「続けるぞ」


「お願いします」


「それから、公爵家の話も少し聞いた」


 少女の身体が強張った。


「……どのような?」


「これも噂だ」


「はい」


「当主がしばらく表に出てないって話がある」


 父。


 少女は膝の上で指を組む。


「理由は?」


「分からん。娘の不祥事で謹慎してるって奴もいるし、王家と何か揉めてるって話もある」


「王家と?」


「それ以上は知らん」


 ハインは先にそう言った。


 少女は頷く。


「母親については?」


「聞いてない」


「そうですか」


 少しだけ、胸の奥に奇妙な感情が生まれた。


 安堵なのか。


 寂しさなのか。


 自分でも分からない。


 そして、紙に残した最後の言葉が頭へ浮かぶ。


『妹は』


 少女は口を開きかけた。


 声が出ない。


 怖さが上がった。


 もし妹が、自分を罪人だと信じていたら。


 もし両親と同じように「やはり姉だった」と言っていたら。


 あるいは、何もしていなかったら。


 何を聞いても傷つく気がした。


「休む?」


 ユウの声が聞こえた。


 少女は彼を見る。


「……今、四に近いです」


「じゃあ一回止める?」


 少女はハインを見る。


「すみません」


「いや、構わん」


「少しだけ」


「水飲むか?」


「いただけますか?」


 ハインが荷車から清潔な器を取り出そうとしたが、ユウが自分の水筒を差し出す。


 少女は一瞬迷った。


「よいのですか?」


「俺まだ飲んでないやつだから」


「そういう意味では」


「嫌ならハインさんにもらおう」


 少女は少し笑った。


「いただきます」


 水筒を受け取り、ゆっくり飲む。


 冷たい水が喉を通る。


 王都の話をしている。


 あの日のことを。


 自分が罪人として扱われたことを。


 それでも今、自分は王宮の大広間にはいない。


 隣にはユウがいる。


 少し離れたところでガルドが、まだ野菜の値段についてネストと揉めている。


 サナは買った布をマーサへ見せている。


 オルドは卵の箱を何度も確認している。


 ここはルーデ村だ。


 少女はそのことを一つずつ確認した。


「三くらいになりました」


 水筒を返しながら言う。


「続ける?」


 ユウが尋ねる。


 少女は紙を開いた。


 最後の一行。


『妹は』


 その文字を見る。


「……一つだけ」


 少女はハインを見る。


「はいよ」


「その公爵家には、もう一人娘がいるはずです」


 ハインの表情が少し変わった。


 知っている。


 少女にはそれが分かった。


「妹の方か」


「はい」


 胸が苦しい。


 それでも聞く。


「その方について、何か聞きましたか?」


 ハインはすぐには答えなかった。


「これも、俺が直接見た話じゃない」


「はい」


「王都から来た商人が言ってた。さらにそいつも、王都の知り合いから聞いたらしい」


「つまり、二段階の伝聞?」


「そうなるな」


 少女は頷く。


「それで構いません。伝聞として聞きます」


 ハインは少し考えてから話した。


「妹の令嬢が、姉の追放を知ってひどく取り乱したって話がある」


 少女の呼吸が止まった。


「……え?」


「帰ってきた時には、もう姉はいなかった。それで家の中でかなり揉めたとか」


 少女はハインを見つめる。


「帰って……きた?」


「ああ。何かで王都を離れてたらしい。そこまでは知らん」


 少女の指が震えた。


 妹は、いなかった。


 あの日。


 婚約を破棄された場所にも。


 父から責められた時にも。


 母から失望された時にも。


 追放を告げられた時にも。


 少女は、それを知っている。


 けれどその後、妹がどうしたかは知らなかった。


「取り乱した、というのは」


 声が掠れた。


「何を?」


「そこまでは詳しく知らん。ただ、姉がそんなことするはずないって言ったとか、どうして自分が帰るまで待たなかったって父親に詰め寄ったとか」


 少女は動けなかった。


 お姉様。


 幼い頃の声が蘇る。


 自分の後ろをついてきた小さな妹。


 何でもすぐ覚えた。


 何をやらせても褒められた。


 父も母も笑った。


 その隣で、自分はいつも比べられていた。


『お姉様、見てください!』


『お姉様と一緒がいいです!』


『お姉様みたいにできました!』


 妹が悪かったわけではない。


 分かっていた。


 頭では、ずっと。


 それでも近づかれるたび苦しくなり、少しずつ距離を置いた。


 妹の笑顔を見るたび、その後に続く父や母の言葉を恐れた。


『妹は一度でできたぞ』


『どうしてあなたは、あの子のようにできないの?』


 少女は俯いた。


「大丈夫?」


 ユウの声が遠く感じる。


「……分かりません」


 少女は正直に答えた。


「怖さは?」


「分かりません」


「じゃあ続けるのやめようか」


 その言葉で、少女はようやく顔を上げた。


「ハインさん」


「うん」


「妹について、他にもありますか?」


「あるにはある」


 胸が揺れる。


「でも」


 少女は紙を見る。


 聞きたい。


 今すぐ全部。


 妹は何をした。


 どこにいる。


 自分を探しているのか。


 両親と何を話したのか。


 王太子へ何か言ったのか。


 知りたい。


 けれど今、自分の手が震えている。


「……今日は」


 少女は紙を折った。


「今日は、ここまでにします」


 言葉にした瞬間、涙が一滴だけ紙の上へ落ちた。


「分かった」


 ハインは続きを話さなかった。


「すみません」


「謝らなくていい」


「でも、途中で」


「俺は明日の朝までいる」


 少女は顔を上げる。


「明日まで?」


「ああ。今日はここで泊めてもらう。いつもそうだ」


「そうなのですか?」


「朝出れば次の村に夕方前には着く」


 ハインは肩をすくめる。


「聞きたくなったら後で聞けばいい。聞きたくなけりゃそのままでいい」


 少女は目元を拭った。


「……ありがとうございます」


 立ち上がろうとすると、足に力が入りにくかった。


 痛いわけではない。


 身体の中が空っぽになったような感覚がある。


「座ってた方がいい?」


 ユウが尋ねる。


「少しだけ」


「うん」


 少女はもう一度椅子へ腰を下ろした。


 ユウは何も言わない。


 妹はあなたを信じていたんですね、とも。


 よかったですね、とも。


 すぐ会いに行きましょう、とも言わない。


 そのことがありがたかった。


「ユウさん」


「ん?」


「私、嬉しいのでしょうか」


「俺に聞く?」


「……分かりませんよね」


「うん」


「でも、苦しいです」


「そっか」


「妹が私を信じていたかもしれないと聞いたのに」


「うん」


「嬉しいはずなのに」


 少女は自分の胸を押さえる。


「すごく、苦しいです」


 ユウは少し考えてから言った。


「嬉しいだけじゃないんじゃない?」


 少女は彼を見る。


「妹さんのこと、いろいろあったんでしょ」


「はい」


「じゃあ一個の気持ちじゃなくてもいいんじゃないかな」


 少女は何も言えなかった。


 嬉しい。


 苦しい。


 会いたい。


 怖い。


 謝りたい。


 どうして今まで自分から距離を取ったのかと思う。


 でも、妹を見るだけで苦しかった自分も確かにいた。


「……会いたいかも、分かりません」


「今決めなくていいでしょ」


「はい」


 少女は涙を拭う。


「今日は、それを聞けただけで十分な気がします」


「じゃあ十分なんじゃない?」


「はい」


 今度は少しだけ笑えた。


 しばらくして、少女はマーサの家へ戻ることにした。


 商人との取引はまだ続いている。


 買い物をしていないことに気づいたが、今日はもう何かを選ぶ気力がなかった。


「何も買いませんでした」


 歩きながら少女が言う。


「明日の朝までいるんでしょ?」


 ユウが答える。


「そうでした」


「欲しいのあったら後で見れば?」


「なければ?」


「買わなくていいんじゃない?」


「そうですね」


 少女は小さく笑った。


 マーサの家まで、ユウも一緒に歩いた。


 途中で右足を確認する。


「一です」


「足は大丈夫そうだね」


「はい。今日は別のところが疲れました」


「そっか」


「こういう疲れも、休んでよいのでしょうか」


 ユウが少女を見る。


「駄目な理由ある?」


「ありません」


「じゃあ休もう」


「はい」


 家へ戻ると、マーサは少し遅れて帰ってきた。


 少女が居間の椅子へ座っているのを見ると、何も聞かずに水を置いた。


「ありがとう、ございます」


「聞いたのかい?」


「はい」


「そうかい」


「妹が」


 そこまで言って、少女の声が止まった。


 マーサは向かいへ座る。


 急かさない。


 少女はゆっくり言葉を探した。


「妹は、私が追放された後に帰ってきたそうです」


「うん」


「私がそんなことをするはずがないと、言ったという噂があるそうです」


「噂?」


「二人以上を通した伝聞です。事実かは確認できません」


「そうかい」


「でも……」


 少女の目から、また涙が落ちた。


「信じたいです」


 マーサは黙っていた。


「信じたいのに、怖いです」


「何が?」


「もし違ったら」


 少女は両手を握る。


「本当は妹も私を信じていなかったら。商人の方が聞いた話が間違っていたら」


「うん」


「期待しなければ、違っても傷つかないと思うのです」


「そうかい」


「だから、信じない方が」


「そうしたいのかい?」


 少女は答えられなかった。


 しばらくして、首を横へ振る。


「……分かりません」


「なら今は分からないでいいよ」


「はい」


 マーサは立ち上がる。


「昼飯、食える?」


 あまりにも普通の質問だった。


 少女は涙を拭いながら、自分の腹へ意識を向けた。


「少しなら」


「豆は?」


「今日は……少なめでお願いします」


「分かった」


 少女は泣きながら少し笑った。


 昼食は静かだった。


 マーサは必要以上に話しかけない。


 少女も無理に明るくしようとはしなかった。


 豆と野菜の煮込みを少し。


 パンを半分。


 水を飲む。


 食欲はいつもより少なかったが、食べられないほどではない。


 食後、少女は自分から言った。


「少し眠りたいです」


「寝な」


「今日は何もしていませんが」


 言ってから、自分で止まる。


「……いえ」


「何だい?」


「何もしていないわけではありませんでした」


「そうだね」


「話を聞きました」


「うん」


「疲れました」


「なら寝な」


「はい」


 少女は客間へ戻った。


 窓辺に、木片と紙がある。


 紙には涙の跡が小さく残っていた。


 少女はそれを捨てなかった。


 妹についての一行。


『妹は』


 その問いには、まだ答えがない。


 今日聞いたのは、答えではない。


 ただ一つの噂。


 けれど少女の中では、それだけで十分すぎるほど大きかった。


 寝台へ横になる。


 目を閉じると、妹の顔が浮かぶ。


 最後にきちんと話したのはいつだっただろう。


 思い出そうとして、胸が痛む。


 妹はいつも自分へ近づいてきた。


 自分が遠ざかった。


『お姉様、一緒にお茶を飲みませんか?』


『今日は予定がありますから』


『では明日は?』


『明日も勉強があります』


『……そうですか』


 予定は本当にあった。


 嘘ではない。


 けれど、少しなら時間を作れた日もあった。


 妹といると、その後で自分が惨めになるのが怖かった。


「……ごめんなさい」


 誰もいない部屋で、少女は呟いた。


 けれど、すぐに別の気持ちも出てくる。


 どうして私ばかり。


 どうしてあなたは何でもできたの。


 どうして父も母も、あなたを見る時だけあんなに嬉しそうだったの。


 どうして私には、同じように笑ってくれなかったの。


 妹に向けるべきではないと分かっていた。


 だからこそ、その感情を持つ自分まで嫌いだった。


 少女は布団を握った。


「……まだ、難しいです」


 昨日ベルへ言った言葉と同じだった。


 すぐに全部を綺麗にはできない。


 妹が悪くなかったと理解することと、比較され続けた痛みが消えることは別なのだろう。


 いつの間にか、少女は眠っていた。


 目を覚ました時には、午後の日差しが窓から斜めに入っていた。


 身体は少し重い。


 けれど、胸を締めつけていたものは昼前より弱くなっている。


 少女は寝台の上でゆっくり身体を起こした。


「……三、くらい」


 怖さなのか、苦しさなのか、自分でもよく分からない。


 それでも数字にすると、少し距離を置いて見られた。


 居間へ出る。


 マーサはいなかった。


 代わりに卓の上へ、小さな布が置かれている。


『商人のところへ行ってくる。起きたら水飲め』


 短い書き置き。


 少女は笑った。


「はい」


 誰もいないのに返事をして、水を飲んだ。


 外へ出るか迷った。


 商人はまだいる。


 続きを聞くこともできる。


 けれど、今は聞きたいとは思わなかった。


 なら、行かなくていい。


 少女は家の前の椅子へ座った。


 午後の村は朝より静かだった。


 取引が一段落したのだろう。


 遠くから荷物を動かす音は聞こえるが、叫び声は少ない。


 しばらくすると、道の向こうからユウが歩いてきた。


 手には何か小さな包みを持っている。


「起きた?」


「はい」


「寝られた?」


「かなり」


「よかった」


 ユウは家の前で立ち止まった。


「それは?」


 少女が包みを見る。


「塩」


「塩を買ったのですか?」


「うん。自分の分」


「ユウさんも買い物をするのですね」


「するよ。俺、何だと思われてるの?」


「魔法で何でも作る方かと」


「塩は作らないなあ」


「作れないのですか?」


「たぶん魔法で無理やりやれば何かできるかもしれないけど、普通に買った方が早い」


 少女は笑った。


「ユウさんでも、買った方がよいものがある」


「いっぱいあるよ」


「少し安心します」


「何で?」


「分かりません」


 少女は自分でも笑った。


 ユウが隣の椅子を指す。


「座っていい?」


「もちろんです」


 二人で並んで座る。


 近すぎない。


 離れすぎてもいない。


 少女は少し迷ってから話した。


「妹のことを考えていました」


「うん」


「謝りたいと思いました」


「そっか」


「でも、そのすぐ後に、妹を羨ましいと思っていた気持ちも出てきました」


「うん」


「嫌な姉でしょうか」


 ユウはすぐには答えなかった。


「妹さんに何かしたの?」


「……避けていました」


「それは妹さん、寂しかったかもしれないね」


 少女の胸が痛む。


 けれど、ユウは続ける。


「でも、あんたも一緒にいるの苦しかったんでしょ」


「はい」


「じゃあ、両方あるんじゃない?」


「また、両方」


「最近多いね」


「はい」


 少女は少し笑った。


「妹を大切に思っていたことも」


「うん」


「妹と比べられるのが嫌だったことも」


「うん」


「妹から離れたかったことも」


「うん」


「今、会いたいかもしれないと思っていることも」


「全部あっていいんじゃない?」


 少女は空を見る。


 薄い雲が流れている。


「綺麗に一つへ決めなくても?」


「人の気持ちって、そんな綺麗?」


「……私のは、あまり」


「俺のもそんなもんだよ」


「ユウさんも?」


「そりゃね」


 少女は少し意外だった。


 ユウはいつも、自分よりずっと迷わない人に見える。


「例えば?」


「仕事好きだったけど辞めたかったとか」


 少女は彼を見る。


「前のお仕事」


「うん。人の役に立てた時は嬉しかったし、できなかったことができるようになった人を見るのも好きだった」


「でも、辛かった?」


「めちゃくちゃ」


 ユウは笑った。


「仕事そのものが嫌いなのか、働き方が嫌なのか、自分が弱いだけなのか、ずっと分かんなかった」


「今は?」


「働き方が嫌だったんだろうなとは思う。でも全部それだけだったかは、まだ分かんない」


「まだ?」


「うん」


 少女は少し驚いた。


「元の世界を離れて、もうこちらで暮らしているのに?」


「分かんないものは分かんないよ」


 ユウは遠くの畑を見る。


「答え出ないままでも、こっちで飯食って昼寝できるし」


 少女はその横顔を見つめた。


 答えが出なければ、次へ進めない。


 そう思っていた。


 家族をどう思うか。


 妹をどう思うか。


 王太子を許すのか。


 自分は無実なのか。


 これから何者になるのか。


 全部を決めてからでなければ、新しい生活など始めてはいけないような気がしていた。


 けれど実際には、自分はもうここで卵を食べた。


 鶏に触った。


 鑿を使った。


 昼寝もした。


 豆が三食は嫌だと言った。


 何も答えが出ていないまま。


「……不思議ですね」


「何が?」


「私、何も解決していないのに、ここで生活しています」


「そうだね」


「よいのでしょうか」


「もうしてるし」


 少女は目を瞬いた後、笑った。


「そうでした」


 少しして、少女は商人のいる方角を見る。


「今日は、もう聞きません」


「決めた?」


「今は」


 少女は言い直す。


「今は、聞きたくありません」


「了解」


「明日の朝、聞きたくなるかもしれません」


「その時聞けば?」


「はい」


 少女は自分の膝へ手を置いた。


「それから、今日は買い物もしません」


「欲しいものなかった?」


「まだ商品をきちんと見ていません」


「じゃあ何で?」


「今日は選ぶことに疲れました」


 ユウが少し笑った。


「それ分かる」


「分かりますか?」


「疲れてる時に店行くと、何食べたいかも決められなくなる」


「店?」


「元いた世界の話」


「たくさん食べ物があるのですか?」


「ありすぎるくらい」


「それは羨ましいです」


「選ぶの面倒な日もあるよ」


「贅沢ですね」


「そうかも」


 二人は笑った。


 夕方、マーサが戻ってきた。


 少女が商人のところへ行かなかったことを伝えても、何も言わなかった。


「明日の朝までいるんですよね」


「いるよ」


「その時、何か欲しいと思ったら見に行きます」


「そうしな」


「思わなかったら?」


「寝てな」


「はい」


 少女は笑った。


 夕食の支度を少し手伝う。


 今日は豆ではなく、根菜と干し肉の煮込みだった。


「ガルドさんの豆は?」


「商人が半分買った」


「売れたのですか?」


「安くされたって怒ってたよ」


「残りは?」


「うちにもある」


 少女の手が止まる。


「……明日は?」


「分からないねぇ」


 マーサの口元が笑っている。


「マーサさん」


「何だい?」


「明日の朝は、できれば豆以外がよいです」


「分かったよ」


「ありがとうございます」


 自分の希望を言う。


 今日もそれだけで済んだ。


 夕食後、少女は客間へ戻った。


 窓辺の紙を開く。


『王都で、私の追放はどのように伝わっているか』


 その下へ、今日聞いたことを短く書く。


『婚約破棄は広まっている。追放先は噂が複数。正式布告は未確認』


『公爵家当主が表に出ていないという噂。理由不明』


 そして最後。


『妹は』


 少女の手が止まる。


 少し考えてから、その続きを書いた。


『私の追放後に帰宅し、反発したという伝聞あり。未確認』


 そこで炭筆を置いた。


 信じたい。


 でも、事実とは決めない。


 その両方を紙の上に残した。


 少女は木片の隣へ紙を置く。


 失敗した跡がある木。


 答えの出ていない紙。


 どちらも捨てる必要はない。


 明日の朝、ハインへ続きを聞くかはまだ分からない。


 妹について、もっと知りたい気持ちはある。


 けれど今日の自分には、ここまでで十分だった。


 少女は寝台へ入った。


 目を閉じる直前、妹の笑顔が浮かんだ。


『お姉様』


 胸が痛んだ。


 けれど、今度はその記憶を追い払わなかった。


「……おやすみなさい」


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


 遠く離れた妹かもしれない。


 過去の自分かもしれない。


 あるいは、ただ今日という一日へ言っただけなのかもしれない。


 答えは出ない。


 それでも構わなかった。


 少女はそのまま目を閉じた。


 王都から届いた最初の噂は、失ったものを取り戻してはくれなかった。


 追放をなかったことにも、家族との年月をやり直すことにもならない。


 ただ、少女がもう二度と自分へ向けられることはないと思っていた一つの声が、遠い場所でまだ自分を呼んでいたかもしれない。


 今夜は、それだけを胸の中へ置いて眠ることにした。

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