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第24話 聞くかどうか

朝食の卓に卵が置かれているのを見つけた瞬間、少女は思わず足を止めた。


 昨日の夕食で、三食続いた豆を前にして「明日は卵がいいです」と口にした。その時は半分ほど冗談のような気持ちもあったのだが、木皿の上には薄く焼かれた卵が二つ並び、隣には昨日の残りらしい豆が控えめに添えられている。


「……本当に卵です」


「昨日、自分で言ったんだろ」


 鍋を火から下ろしていたマーサが振り返る。


「そうですが」


「何か問題あるのかい?」


「ありません。ただ、本当に出てくるとは思っていませんでした」


「食べたいって言われたから出したんだよ」


 あまりにも簡単な答えに、少女は椅子へ座りながら卵を見つめた。


 希望を言う。


 それが聞かれる。


 可能なら叶えられ、無理なら断られる。


 考えてみれば、それだけのことなのだろう。


 けれど少女にとって、自分の希望がこれほど軽く扱われることは珍しかった。軽いというのは、粗末にされたという意味ではない。大げさな理由も、正当性の証明も求められず、ただ「食べたいと言ったから」という理由だけで十分だった。


「オルドさんからですか?」


「朝一番で持ってきたよ。あんたが卵食べたいって言ったら、昨日より大きいの選んでた」


「わざわざ?」


「本人は『たまたまだ』って言ってたけどね」


 マーサは笑いながら自分の椅子へ座った。


「ガルドには言うんじゃないよ」


「なぜですか?」


「豆より卵がいいって言ったと勘違いして騒ぐ」


「昨日、本人の前で言いました」


「ああ、そうだったね」


「しかも昼には豆を食べるかもしれないとも」


「なら昼前に来るよ」


 少女は少し考え、苦笑した。


「来そうですね」


「来るね」


 二人の意見は一致した。


 卵へ匙を入れると、表面より内側が少し柔らかい。


 口へ運んだ少女は、しばらく味わってから小さく頷いた。


「美味しいです」


「よかったね」


「はい」


 少女はもう一口食べた。


 その時、明日やって来る商人のことが頭に浮かんだ。


 昨夜、眠る前にも考えていた。


 村へ定期的に来る商人。


 王都や街道沿いの情報を持っている可能性がある人。


 自分の追放について何か知っているかもしれない人。


 同時に、自分の存在を外へ持ち出すかもしれない人でもある。


 昨日までは「もう少し先」と思えていたものが、いつの間にか明日まで近づいていた。


「マーサさん」


「なんだい?」


「商人の方は、明日の何時頃いらっしゃるのでしょう」


 マーサの匙が一瞬だけ止まった。


「天気と道次第だけど、いつもなら昼前だね」


「昼前」


「気になるかい?」


「……はい」


 少女は卵を見つめた。


「聞きたいことがあります」


「王都のこと?」


「はい」


 答えるだけで、胸の奥が少し重くなる。


「でも、聞きたくない気持ちもあります」


「じゃあ聞かなきゃいい」


「そんなに簡単に決めてよいのでしょうか」


「聞くか聞かないかくらい、自分で決めていいだろ」


「必要な情報かもしれません」


「なら聞けばいい」


「でも、聞いたら戻れないこともあるかもしれません」


「じゃあ聞かなきゃいい」


 同じところへ戻ってきた。


 少女は困ってマーサを見る。


「どちらなのですか?」


「私はどっちでもいいよ」


「それでは困ります」


「困るのはあんただろ」


「……そうですね」


 少女は肩を落とした。


 以前なら、誰かに正解を決めてもらえる方が楽だった。


 聞くべきだ。


 聞いてはいけない。


 どちらかを命じられれば、それに従えばいい。


 けれど今は、自分で決める必要がある。


「今日一日考えたらどうだい」


 マーサがスープを口へ運びながら言った。


「明日来るんだろ?」


「はい」


「今日決めても、明日の朝変えていい」


「変えても?」


「商人が村に着くまでなら何回でも変えられるだろ」


 少女は少し笑った。


「それでは、決めた意味がなくありませんか?」


「決めたら二度と変えちゃいけない方が変じゃないかい?」


 ベルの棚を思い出した。


 一度作ったからといって、死ぬまでその高さで使わなければならない決まりはない。


 昨日の鑿もそうだった。


 一度目に失敗しても、次は角度を変えればいい。


「……この村では、決めた後でもよく変えますね」


「変えちゃ困ることもあるけどね」


「例えば?」


「人に金借りといて、返さないって変えられたら困る」


「それは困ります」


「だろ?」


「では、何でも変えてよいわけではない」


「当たり前さ」


 少女は頷いた。


 自由に決めることと、何をしても構わないことは違う。


 それも少しずつ分かってきた。


 朝食を終えた後、少女は昨日使った薄い踵当てを自分で調整した。


 部屋の中を歩いても痛みはない。昨日はベルのところから帰る頃に一と二の間まで上がったため、今日も完全に治ったと決めつけるつもりはなかった。


「今日はどうするんだい?」


 マーサが尋ねる。


 少女は少し考えた。


「ベルさんのところへ行ってもよいと思っています」


「鑿?」


「はい。でも、昨日やりましたから」


「二日続けちゃいけないのかい?」


「そういうわけでは」


「なら行きたいなら行けばいい」


 少女は自分へ問いかける。


 鑿をもう一度使いたいか。


 答えは、少し違った。


「……今日は、そこまでではないかもしれません」


「じゃあやめる?」


「はい」


 口にすると、思ったより簡単だった。


 昨日楽しかった。


 だから今日もやらなければならないわけではない。


「代わりに、少し歩きたいです」


「どこへ?」


「まだ決めていません」


「東はやめときな」


「はい」


「足が痛くなったら戻る」


「はい」


「それ以外は好きにしな」


 少女は立ち上がった。


「では、行ってきます」


「行っといで」


 外へ出ると、空には薄い雲が広がっていた。


 雨を降らせるほど厚くはなく、その隙間から時折日差しが落ちている。土の道はすっかり乾ききってはいないが、数日前のように靴が沈むほど柔らかくもなかった。


 少女は道の中央で一度立ち止まった。


 行き先を決めていない。


 以前なら、それだけで落ち着かなかっただろう。


 今日は村を見渡す。


 右へ行けば共同井戸とベルの作業場。


 少し先にはサナの家。


 左へ行けばオルドの鶏小屋。


 畑の向こうにはガルドがいるかもしれない。


 どこにも行かず、家へ戻ってもいい。


「……鶏にしましょう」


 誰もいない道で、自分に聞かせるように呟いた。


 理由は特にない。


 昨日、卵を食べたいと言ったからかもしれない。


 それくらいで十分だった。


 オルドの家へ近づくにつれ、鶏の鳴き声が大きくなった。


 柵の内側では十羽ほどが地面をつつき、土を蹴り上げている。以前初めて来た時、少女は思っていたより大きな鶏に驚き、触るかと聞かれて「今日は見るだけにします」と断った。


 今日はどうだろう。


「おや」


 鶏小屋の横からオルドが顔を出した。


「また見に来たか」


「おはようございます」


「おはよう」


「昨日、卵をいただきました。ありがとうございます」


「たまたま余っただけだ」


 マーサの言った通りだった。


「大きいものを選んでくださったと聞きました」


「マーサめ」


 オルドが眉を寄せる。


「余計なことを」


「美味しかったです」


「ならいい」


 少女は笑った。


 柵の近くへ寄る。


 鶏の一羽が少女を見て、首を傾けるような動きをした。


「覚えているのでしょうか」


「餌持ってない奴は覚えん」


「では、覚えられていませんね」


「餌やるか?」


 少女はオルドを見る。


「よいのですか?」


「少しなら」


 オルドは小さな木の器へ穀物を入れ、少女へ差し出した。


「柵の中には入らなくていい。ここから撒け」


「はい」


 少女は器を受け取った。


 穀物を少し掴む。


 鶏たちがまだ撒いてもいないのに近づいてきた。


「来ました」


「餌は分かる」


「私ではなく、餌を見ているのですね」


「そうだ」


「少し残念です」


「毎日やればお前も覚える」


 少女は思わずオルドを見る。


「毎日?」


「毎日来いとは言ってないぞ」


「……はい」


 最近、何かを言われるとすぐ義務へ変換する自分に、少女自身が気づいた。


 オルドもそれを察したのか、穀物を一つまみ取る。


「来たい日に来りゃいい」


「そうします」


 少女は穀物を撒いた。


 鶏が一斉に集まる。


 想像以上の勢いだった。


「わっ」


 少女は思わず半歩下がった。


 オルドが笑う。


「怖いか?」


「少し驚いただけです」


「指出すなよ。餌と間違える」


「噛むのですか?」


「つつく」


「痛い?」


「少しな」


 少女は安全な距離を保ちながら、もう一度穀物を撒いた。


 鶏たちが追いかける。


 その動きが可笑しくて、自然と笑みがこぼれた。


「触るか?」


 以前と同じ問いが来た。


 少女は一羽の鶏を見る。


 怖くないわけではない。


 けれど、今日は少し興味がある。


「……触ってみたいです」


「じゃあ待て」


 オルドは柵の中へ入り、比較的大人しい一羽を抱き上げた。


 鶏は少し羽を動かしたものの、暴れない。


「背中からだ。頭の方へ急に手を出すな」


「はい」


 少女は柵越しに手を伸ばす。


 指先が羽へ触れた。


「……温かい」


「生きてるからな」


「もっと硬いと思っていました」


「羽は柔らかい」


 少女はそっと背を撫でる。


 鶏が小さく身体を動かしたので、すぐ手を引いた。


「嫌がりましたか?」


「少し動いただけだ」


「もう一度触っても?」


「いいぞ」


 二度目は、先ほどより力を抜いた。


 羽の柔らかさ。


 その下の体温。


 小さく上下する身体。


「不思議です」


「何がだ」


「卵を食べているのに、鶏をこんなに近くで見たことがありませんでした」


「町じゃそうだろうな」


「誰かが育てて、誰かが運んで、料理人が調理して……私は最後だけ見ていたのですね」


 昨日ユウと話したことを思い出す。


 完成したものの中で暮らしていた。


「卵は毎日産むのですか?」


「産む時期ならな。毎日とは限らん」


「では、昨日いただいた卵も」


「朝見たらあった」


「それを私が食べた」


「そうだ」


 少女は鶏を見る。


「ありがとうございます」


「鶏に言ってるのか?」


「はい」


「分からんぞ」


「それでもです」


 オルドが笑った。


 鶏を柵へ戻した後、少女は近くの椅子へ座らせてもらった。


 足はまだ零に近い。


 痛いからではなく、少し休みたいと思ったから座る。


 オルドは鶏小屋の掃除を始めた。


「お手伝いしましょうか?」


「やりたいのか?」


 以前なら「できますか」ではなく「何をすれば」と聞いていたかもしれない。


 少女は考える。


 鶏へ餌をやるのは楽しかった。


 掃除はどうだろう。


 匂いはかなり強い。


「……今日は見ているだけでよいです」


「そうか」


 オルドは何も気にせず作業を続けた。


 少女はその姿を眺めながら、明日の商人について考えた。


 もし王都の話を聞くなら、何を聞きたいのか。


 自分の名前が広まっているか。


 追放についてどう伝えられているか。


 王太子は何をしているか。


 両親は。


 妹は。


 妹。


 その一つだけで、胸の奥が強く揺れた。


「顔が難しくなったな」


 オルドの声に、少女は我に返った。


「すみません」


「何で謝る」


「考え事をしていました」


「そうか」


 オルドはそれ以上聞かなかった。


 少女は少し迷ってから、自分から話した。


「明日、商人の方が来るそうですね」


「来るな」


「王都のことも知っているでしょうか」


「王都そのものに行く商人じゃないが、街の話は持ってくる」


「そうですか」


「聞きたいことがあるのか?」


「……あると思います」


「なら聞けばいい」


「聞くのが怖いことでも?」


 オルドは掃除の手を止め、少し考えた。


「俺は医者が嫌いだ」


「医者?」


「昔、胸が苦しくなった時に街の医者へ行けって言われた」


「行ったのですか?」


「行きたくなかった」


「なぜ?」


「悪い病気だって言われるのが嫌だった」


 少女は黙って聞く。


「知らなきゃ病気じゃない気がしたんだ」


「でも」


「行った」


「どうでした?」


「歳だと言われた」


 少女は一瞬、反応に困った。


 オルドが鼻を鳴らす。


「ガルドに言ったら三日笑われた」


「……それは」


「笑うなよ」


「笑っていません」


「口が笑ってるぞ」


 少女は口元を押さえた。


「すみません」


「まあいい」


 オルドは箒を動かしながら続けた。


「でも、行った方がいいかどうかは俺には分からん」


「え?」


「俺は胸が苦しかったから行った。お前が何を聞きたいのか知らん」


「はい」


「知った方がいいこともあるし、今知らなくていいこともあるだろ」


「どうやって決めればよいのでしょう」


「知らん」


 あまりにも潔い答えだった。


 少女は少し笑った。


「皆さん、それを言いますね」


「自分のことは自分で決めろってユウがよく言うからな」


「ユウさんが?」


「最近は俺たちも言う」


「逆だとマーサさんは言っていました」


「どっちでもいい」


 少女はとうとう声を出して笑った。


 オルドの家を出た後、少女は村の中央へ戻った。


 共同井戸の近くでは二人の老婆が洗濯物を絞っている。少女が通ると片方が手を上げ、もう片方が「鶏触ったのかい」と聞いてきた。


「なぜ知っているのですか?」


「オルドのところから出てきたから」


「それだけで?」


「服に羽ついてるよ」


 少女は慌てて袖を見る。


 小さな茶色い羽毛が一枚ついていた。


「あ……」


「取ってやろうか?」


「自分で取れます」


「そうかい」


 老婆はすぐに洗濯へ戻る。


 少女は羽毛を指先で摘まんだ。


 捨てようとして、少し迷う。


 今日初めて鶏へ触った。


 だからといって、羽を記念に取っておく必要はない。


 昨日の木片とは違う。


「これは、いいですね」


 少女は道端へ羽を放した。


 風が拾い、少し先へ転がしていった。


 何でも残さなくてもいい。


 それもまた、少し新しい感覚だった。


 共同井戸を離れたところで、東側からユウとケルが歩いてくるのが見えた。


 今日はドランも一緒だった。


 三人の表情に緊張はない。


 それでも、少女は自然と歩みを止めた。


「お疲れさまです」


「おはよう」


 ユウが答える。


「もう昼近いぞ」


 ドランが笑った。


「では、こんにちは?」


「どっちでもいい」


 ケルが言った。


 少女は少し笑う。


「警戒線ですか?」


「うん」


 ユウが頷いた。


「今日も大きな反応なし」


「人の足跡は?」


「新しいのはない」


 ケルが答える。


「北側も見たが、昨日から変化なし。獣の足跡はいくつかあるが、普通の小動物だ」


「では、安全になったのでしょうか」


 口にしてから、少女はすぐに首を横へ振った。


「……違いますね。今日、新しいものが見つからなかっただけ」


 ケルが僅かに口元を緩めた。


「そういうことだ」


「少し覚えました」


「十分だ」


 ドランが東の方角を振り返る。


「ただ、古い道の方はまだ気になる」


「人の足跡が向かった方ですね」


「ああ。雨で跡はほとんど消えたが、道そのものが使われてる形跡はある」


 少女の胸に小さな緊張が戻る。


「荷車の跡も?」


「前に見たものはな。新しいのは確認できてない」


「同じ人かどうかも」


「分からん」


「はい」


 少女はそれ以上、頭の中で繋げないようにした。


「外側の警戒線は?」


「昨日より少し範囲広げた」


 ユウが答える。


「感度は低め。鹿とか小さい動物で毎回鳴ったら、誰も寝られなくなるから」


「魔物なら分かるのですか?」


「大きさと魔力反応をある程度分けてる。でも完璧じゃない」


「間違うことも?」


「あるよ」


「ユウさんの魔法でも?」


「あるある」


 あまりにも軽く言うので、少女は目を瞬いた。


「もっと完璧なのかと思っていました」


「無理。警戒線は俺が見て判断してるんじゃなくて、条件に引っかかったら知らせるだけだから」


「条件が間違っていれば?」


「鳴らないこともあるし、逆にどうでもいいので鳴ることもある」


「では、調整が必要なのですね」


「そう」


 ベルの棚。


 サナの石鹸。


 ガルドの水路。


 そしてユウの魔法まで。


 一度作って終わりではない。


「魔法も、途中なのですね」


 少女が言うと、ユウが首を傾げた。


「途中?」


「昨日から考えていたことです。完成したと思っても、使ってみて変えるものが多いのだと」


「ああ」


「ユウさんの魔法なら最初から全部上手くいくのかと思っていました」


「それは買いかぶりすぎ」


「でも、岩を壊せるのでしょう?」


「壊すだけなら」


「それと、人を守ることは違う?」


「全然違う」


 ユウの声が少し真面目になった。


「壊す方が簡単な時って結構あるよ。大きい魔法撃てばいいだけなら、加減考えなくていいから」


 少女は東の森を見る。


「守るには?」


「何を守るか考えて、周りも見て、やりすぎないようにして、失敗した時どうするかも考える」


「……大変ですね」


「だから一人で全部やりたくない」


 ユウが笑った。


「ケルさんたちが森を見て、ベル爺さんが見張り台作って、ローデンさんが人のこと考えてくれる。俺は魔法のところやる。それでいいでしょ」


 少女は三人を見る。


 誰か一人がすべてを解決しているわけではない。


 役割はある。


 けれど固定された義務ではなく、できる人ができるところを受け持っている。


「お前さんの案も使ってるぞ」


 ドランが言った。


「私の?」


「座って見張れるようにってやつだ」


「ああ」


「昨日の夜もベルが座ってた」


「腰は大丈夫でしたか?」


「座ってる分には一だってさ」


 少女は安心した。


「役に立ったのなら、よかったです」


 以前なら「大したことではありません」と否定していたかもしれない。


 今日は、そのまま受け取れた。


「そういえば」


 ユウが少女を見る。


「今日は鑿じゃなかったの?」


「行きませんでした」


「飽きた?」


「いいえ。昨日は楽しかったです」


「じゃあ何で?」


「今日はそこまでやりたいと思わなかったので」


 少女は少し胸を張った。


「鶏に触ってきました」


「おお」


「初めてです」


「どうだった?」


「温かかったです」


「感想そこ?」


「羽も柔らかかったです」


「そうだね」


「卵をいただいたお礼も言えました」


 ユウは笑った。


「いい朝じゃん」


「はい。よい朝でした」


 三人と別れ、少女はマーサの家へ戻った。


 予想通り、家の前にはガルドがいた。


 籠を抱えている。


「戻ったか!」


「戻りました」


「豆だ!」


「やはり」


「なんだその顔は!」


「昨日、マーサさんと昼前に来るだろうと予想していました」


「なぜ分かった!」


「ガルドさんだからです」


「どういう意味だ!」


 少女は答えず、笑いながら家へ入った。


 昼食には豆が出た。


 朝に希望した通り、卵も食べた。


 昼にはガルドの豆。


 自分で言った通りになったことが少し可笑しい。


「美味しいです」


「そうだろう!」


 ガルドがなぜか一緒に食卓へ座っている。


「でも、夜は別のものがいいです」


「豆があるぞ!」


「三食は昨日食べました」


「若いんだから食える!」


「食べられますが、食べたいとは限りません」


 少女が返すと、マーサが声を立てて笑った。


「言うようになったねぇ」


「悪いことですか?」


「いいや。ガルドにはもっと言いな」


「なんでだ!」


 ガルドの声が家中に響いた。


 食後、少女は少し休んだ。


 右足は一にも届かない。


 薄い当て物で問題なさそうだ。


 それでも午後すぐ外へ出る気にはならず、マーサの家の軒下で椅子に座った。


 空を覆っていた雲は少し薄くなり、遠くの山の輪郭が朝よりはっきりしている。


 明日、商人が来る。


 少女は再び考え始めた。


 何を聞きたいのか。


 紙があれば書き出せる。


 そう思い、家の中へ戻った。


「マーサさん、紙を一枚いただいてもよいですか?」


「紙?」


「はい。少し考えたいことがあって」


「いいけど、高いから一枚だけだよ」


「ありがとうございます」


 王都にいた頃、紙を一枚使うことへ許可を求めたことなどなかった。


 ここでは紙も貴重だ。


 少女は小さな紙片と炭筆を借り、卓へ戻った。


 最初に書いた。


『王都で、私の追放はどのように伝わっているか』


 書いた瞬間、手が止まる。


 知りたい。


 怖い。


 次に。


『公爵家について』


 曖昧すぎる。


 少女は少し考え、続ける。


『両親は何かしているか』


 胸が重くなる。


 そして。


『妹は』


 そこまで書いて、炭筆が止まった。


 何を知りたいのだろう。


 妹が自分を探しているか。


 怒っているか。


 信じているか。


 忘れているか。


 少女は紙を見つめた。


「……分かりません」


 炭筆を置く。


 無理に質問へしなくてもいい。


「何書いてるんだい?」


 マーサが近づいてきた。


「明日、商人の方に聞くかもしれないことです」


「見ていいかい?」


 少女は一瞬迷った。


「……はい」


 紙を渡す。


 マーサは文字を追った。


「ずいぶん少ないね」


「書けませんでした」


「妹さんのところで止まってる」


「何を聞きたいのか、自分でも分からなくて」


「ならそこは聞かなくてもいいんじゃないかい」


「でも、知る機会かもしれません」


「商人は明日死ぬのかい?」


「え?」


「明日聞かなきゃ二度と聞けないのかって話だよ」


「……また来ますよね」


「来るよ」


 少女は紙を見る。


 明日しかない。


 そう思い込んでいた。


「次でもよい」


「そういうこと」


「では、一つだけでも?」


「一つも聞かなくてもいい」


 マーサは紙を返す。


「商人の顔見てから決めてもいい」


「そんな直前でも?」


「質問するだけだろ」


 少女は紙を受け取った。


「本当に、決めるのを急がないのですね」


「急ぐ理由がないからね」


 マーサは元の場所へ戻った。


 少女は紙を見つめ、最初の一行へ指を置いた。


 これだけなら。


 自分の追放が、外でどう伝えられているのか。


 法的なことを考える上でも必要になるかもしれない。


 ローデンと話した時、正式な命令書を自分が持っていない以上、村側にも判断材料が少ないことは分かっている。


 けれど、商人が正確な情報を持っている保証もない。


 噂かもしれない。


 間違っているかもしれない。


「……聞いたことが事実とは限らない」


 少女は小さく呟いた。


 森の足跡と同じだ。


 情報が一つあったからといって、全部を結びつけない。


 噂なら噂として扱えばいい。


 少女は紙の端に書き足した。


『商人が知っている範囲で。噂か事実かを分ける』


 それを見て、少しだけ呼吸が楽になった。


 夕方近く、ローデンがやってきた。


 今日は一人だった。


 マーサの家の前で少女を見つけると、家へ入る前に声をかけた。


「明日の話、少しいいか?」


「はい」


 少女は紙を折り、卓の端へ置いた。


 ローデンは椅子へ座り、マーサも近くへ来た。


「商人は明日の昼前に来る予定だ」


「聞きました」


「いつも通りなら、村の中央に荷車を止める。皆が買うもの売るもの持って集まる」


「私も、そこへ行ってよいのでしょうか」


「そこを聞きに来た」


 少女は背筋を少し伸ばした。


「俺たちとしては、隠れてろとは言わん」


 ローデンは先にそう言った。


「昨日も話したが、お前がいること自体を秘密にし続けるつもりはない」


「はい」


「ただ、商人は外の人間だ。お前のことを見れば、当然気にする可能性はある」


「質問されるかもしれない」


「あるな」


「答えなくても?」


「いい」


「それで不審に思われても?」


「思うかもしれん」


 ローデンは都合のいい答えをしなかった。


「そこは選べ。何も聞かれたくないなら、明日はマーサの家にいてもいい。遠くから様子を見るだけでもいい。普通に買い物へ来てもいい」


「買い物」


「銀貨、少し持ってるんだろ?」


 少女は頷いた。


 追放された時に持たされた小さな袋。


 その中に残った銀貨は、まだほとんど使っていない。


「何か買ってもよいのですか?」


 尋ねると、ローデンが眉を上げた。


「自分の金だろ」


「そうですが」


「何か欲しいものあるのか?」


 少女は考える。


 すぐには出てこない。


「……分かりません」


「なら見てから決めればいい」


「買わなくても?」


「商人は少し残念がるだろうな」


 少女は笑った。


「それと、王都の話を聞きたいと思っています」


 少女が言うと、ローデンの表情が少し引き締まった。


「何を?」


「まず、私の追放について何か伝わっているか」


「名前を出すのか?」


「それを迷っています」


「名前を出せば、向こうもお前が誰か気づく可能性が高い」


「はい」


「出さずに聞くなら、『最近、王都で貴族の追放があったか』くらいか」


 少女は頷く。


「それなら、私だと分からないかもしれません」


「逆に詳しい話は聞けないかもしれん」


「……そうですね」


 また選ぶことが増えた。


「ローデンさんなら、どうしますか?」


 少女は尋ねた。


 ローデンは少し黙った。


「俺なら?」


「はい」


「俺が追放された公爵令嬢なら、って話か?」


 少女の肩が僅かに強張った。


 公爵令嬢。


 サナとマーサには自分で言った。


 ローデンにも昨日、ある程度の身分を話している。


 それでも、他人の口から言われるとまだ身体が反応する。


「……はい」


 少女は息を整えて答えた。


 ローデンはその反応を見たが、話を急がなかった。


「俺なら、まず聞かない」


「聞かない?」


「商人が何を話すか聞く」


 少女は目を瞬いた。


「こちらから質問せずに?」


「王都で大きな話になってるなら、向こうから話題にするかもしれん。何も言わないなら、その時考える」


「なるほど」


「ただし、これは俺ならだ」


 ローデンは少女を見る。


「お前がそうしろって意味じゃない」


「はい」


「聞きたいなら聞け。聞きたくないなら聞くな。途中でやめてもいい」


 少女は少し笑った。


「皆さん、最後は同じことを言いますね」


「何を?」


「自分で決めろ、と」


「そりゃお前の話だからな」


 ローデンも僅かに笑った。


「ただ一つ」


 その声が再び真面目になる。


「もし商人が、お前のことを知っていた場合は、俺にも聞かせてほしい」


「村を守るため?」


「お前もだ」


 少女はローデンを見る。


「俺たちは王都で何が起きてるか知らん。もし役人が探してるとか、追放後の扱いについて何か通達が出てるとか、そういう話なら村にも関係する」


「はい」


「噂だけなら噂として聞く。確定はしない」


「分かりました」


 少女はゆっくり頷いた。


「その場合は、一人で聞かない方がよいですか?」


「怖いなら俺かユウを呼べ」


「ユウさんを?」


「嫌なら俺だけでもいい」


「嫌ではありません」


 少女はすぐに答えた。


 答えた後で、自分の声が少し早かったことに気づく。


 マーサが横から少女を見た。


 少女は何となく居心地が悪くなり、紙へ視線を落とす。


「……ユウさんがいてくださると、少し安心すると思います」


 今度はゆっくり言った。


 ローデンは余計な意味をつけずに頷く。


「なら、明日そう言えばいい」


「今決めなくても?」


「明日でいい」


「はい」


 少女はほっと息を吐いた。


 話が終わると、ローデンは東側の警戒についても簡単に伝えた。


 今日、新しい人の足跡はない。


 獣が境界へ近づいた痕跡もない。


 外側の警戒線は引き続き試験運用。


 見張りは交代で続ける。


 古い道へ深入りはしない。


「商人が来たからって警戒をやめるわけじゃない」


「はい」


「むしろ外から人が来る日は、誰がどこにいるか分かるようにしとく」


「商人の方が危険という意味ですか?」


「違う。人が増えると、いつもの変化が見えにくくなる」


 少女は納得した。


「森と商人を結びつけてはいけない?」


「今のところはな」


「分かりました」


 ローデンが満足そうに頷いた。


 夕食の頃には、少女の胸にあった緊張は朝より少し形を持つようになっていた。


 怖さが消えたわけではない。


 ただ「商人が来る」という大きな不安の塊だったものが、いくつかに分かれている。


 姿を見せるか。


 名前を言うか。


 質問するか。


 何を聞くか。


 誰かに一緒にいてもらうか。


 一度に全部決めなくていい。


 少女はそれを理解し始めていた。


 夕食後、少女は借りた紙をもう一度開いた。


 最初の質問。


『王都で、私の追放はどのように伝わっているか』


 その下に書き足す。


『まずは商人の話を聞く』


 さらに少し考えた。


『必要なら質問する』


 妹についての欄は、そのまま残した。


『妹は』


 その先は空白だ。


「消さないのかい?」


 マーサが横から尋ねる。


「はい」


「聞くの?」


「分かりません」


「なら何で残す?」


 少女は炭筆を置いた。


「今、答えがないことを忘れないためです」


 マーサは少しだけ目を細めた。


「そうかい」


「空白でも、よいですよね」


「紙がもったいないって意味なら詰めて書いてほしいけどね」


 少女は思わず笑った。


「次から気をつけます」


「今回はいいよ」


 夜になり、少女は客間へ戻った。


 窓辺には昨日の木片がある。


 その横へ、折った紙を置く。


 一方には、失敗と上達の跡。


 もう一方には、まだ答えのない問い。


 どちらも今の自分には必要な気がした。


 少女は寝台へ腰を下ろし、右足を確認する。


 痛みは零。


 今日はそれほど長く歩かなかった。


 鶏に触れた。


 豆を食べた。


 昼には休んだ。


 午後には、明日のことを考えた。


 何も起きていないようで、いくつも自分で選んだ。


 少女は布団へ入り、天井を見上げる。


 明日。


 商人が来る。


 怖い。


 その感情ははっきりしていた。


 王都の話を聞けば、追放された日の記憶が戻ってくるかもしれない。自分を罪人として扱う噂を聞くかもしれないし、家族について知りたくなかったことまで耳へ入るかもしれない。


 だからといって、知らないままでいることを選べるかどうかも、まだ分からなかった。


「……明日の朝、もう一度考えます」


 少女は自分へ言った。


 今夜の自分が、明日の自分の答えまで決める必要はない。


 怖くなれば、マーサの家にいてもいい。


 遠くから商人を見るだけでもいい。


 村の中央へ行ってもいい。


 質問しなくてもいい。


 途中で帰ってもいい。


 選択肢が多いことは、少し前まで苦しかった。


 今も簡単ではない。


 それでも、誰かに一つの道だけを示されるよりは、少しだけ呼吸がしやすかった。


 窓の外から、遠くで見張りを交代する村人たちの声が微かに聞こえた。


 東の森には、まだ分からないことが残っている。


 古い道へ向かった人間が誰なのかも分からない。


 自分の追放と関係がある証拠もない。


 明日の商人とも関係はない。


 少女はそれらを無理に一つへまとめなかった。


 分からないことがいくつあっても、それぞれ別々に置いておけばいい。


 そして、自分が今夜することは一つだけだった。


 眠ること。


 少女は目を閉じた。


 明日何を聞くのかは、まだ決めていない。


 名前を明かすかどうかも、決めていない。


 ただ一つだけ、朝よりはっきりしていることがあった。


 怖いからといって、誰かに代わりに決めてもらいたいとは、もう思わなかった。


 聞くにしても。


 聞かないにしても。


 その選択だけは、自分でしてみたい。


 少女はその小さな決意を抱えたまま、明日を急いで迎えようとはせず、静かに眠りへ落ちていった。

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