第3話 前の仕事
翌朝、俺は珍しく誰にも起こされなかった。
窓の外から聞こえる鳥の声で一度目を覚ましたものの、屋根の修理を頼む声もなければ、棚が動かないと呼びに来る子供もいない。少しだけ拍子抜けしながら布団の中で耳を澄ませてみても、聞こえてくるのは風に揺れる木の葉と、遠くで鳴いている家畜の声くらいだった。
「……こういう日もあるんだな」
昨日まで散々、静かな暮らしを求めてこの村へ来たのだと思っていたはずなのに、何も起こらないと少しだけ落ち着かない。自分でも面倒な身体になったものだと思いながら、俺は毛布を腹の上まで下げ、天井を見つめた。
まだ起きなくてもいい時間だった。
時計はないが、窓から差し込む光を見る限り、朝日は上がったばかりだろう。仕事へ行く必要もなければ、誰かと約束しているわけでもないので、このまま二度寝しても誰にも迷惑はかからない。
それなのに、目が冴えてしまった。
昔の癖というのは、思っているよりしつこい。
夜勤をしていた頃は、休みの日でも決まった時間に目が覚めることがあった。眠っていていいはずなのに、頭のどこかで「巡視の時間だ」と思って身体が勝手に起きてしまい、数秒後に自宅だと気づいて力が抜ける。
ひどい時には、夢の中でもコールが鳴っていた。
音がして、起きなければと思う。
誰かが呼んでいる。
転ばれる前に行かなければならない。
そう思って飛び起きると、部屋は静かで、枕元には当然ナースコールの受信機なんてない。
それでも胸だけは速く鳴っていた。
「……思い出すなよ」
独り言を漏らし、寝返りを打つ。
昨日ローデンに言われた言葉が、どうにも頭へ残っていた。
俺一人しか人間がいないわけじゃない。
だから、全部やらなくてもいい。
当たり前のことだ。
本当に、当たり前のことだった。
なのに前の仕事では、その当たり前が時々とても遠かった。
俺はしばらく天井を眺めてから、結局起き上がった。眠くないのに無理に寝る必要もないし、今日は昨日ほとんど進まなかった畑の続きをやるつもりだった。
顔を洗い、簡単に朝飯を作る。
昨日もらった芋を薄く切り、卵と一緒に焼いた。そこへマーサ婆ちゃんからもらったパンを添えれば、それだけで十分な朝食になる。
一人で机へ向かいながら食べていると、窓の外をガルド爺さんが通り過ぎていった。
こちらに気づくと立ち止まり、窓越しに手を上げる。
「今日はちゃんと食っとるな!」
「なんで確認してんの!」
「昨日ベルから聞いたぞ。時々飯抜くらしいじゃないか!」
「情報回るの早すぎない!?」
ガルド爺さんは楽しそうに笑いながら、そのまま畑の方へ歩いていった。
俺は食べかけの芋を見下ろし、少しだけ肩を落とす。
「三十一人って、こういうことなんだな……」
誰か一人に知られたことが、翌日には村中へ広がる。
面倒ではある。
でも、嫌ではなかった。
少なくとも、前の世界で感じていたような息苦しさとは違う。
食事を終え、食器を洗ってから外へ出る。朝の空気は昨日より少し暖かく、畑の土も乾き始めていた。
鍬を手にして畑へ向かう途中、村の端にある空き家の前で足を止めた。
昨日ローデンから聞いた家だ。
二年前まで老夫婦が暮らしていて、今は息子夫婦の住む町へ移ったという。
窓は閉じられている。
庭には雑草が伸び、軒下には壊れた籠が一つ転がっていた。
別に珍しい光景ではない。
それなのに、なぜかしばらく眺めてしまった。
人が暮らしていた場所から、人がいなくなる。
前の仕事でも、似たようなことを何度も見たからかもしれない。
◇
介護福祉士として働き始めたばかりの頃、俺は今よりずっと張り切っていた。
利用者の名前をできるだけ早く覚え、既往歴や介助方法も頭へ入れようとした。先輩がやっていることを見て、自分も同じようにできるようになりたいと思っていたし、分からないことがあればメモを取った。
最初は、できることが増えるのが嬉しかった。
移乗介助。
排泄介助。
食事介助。
入浴介助。
記録。
夜勤。
一つずつ覚え、先輩から「もう一人で大丈夫だな」と言われた時には、素直に嬉しかった。
介護福祉士という資格を取った時も同じだった。
少なくとも当時の俺は、この仕事を続けていくつもりだった。
人と関わる仕事は嫌いじゃなかったし、何より、自分が少し手を貸すことでその人の生活が変わることに意味を感じていた。
忘れられない利用者もいる。
脳梗塞の後遺症で右半身に麻痺が残っていた男性だった。
入所したばかりの頃は、自分では何もできないと思い込んでいた。
職員が近づけばすぐに、
「やってくれ」
と言う。
服を着るのも、立つのも、車椅子へ移るのも、全部だった。
最初は俺も言われるまま介助していた。
新人だったし、本人が望むならその方がいいと思っていた。
でも、ある日先輩に止められた。
「左手、ちゃんと動くよ」
そう言われた。
「できるところまでやってもらって、それから手伝えばいい」
当時の俺には、それが少し冷たく聞こえた。
困っている人にわざわざやらせる必要があるのかと思った。
でも、その先輩は急かさなかった。
シャツの袖を左手で掴んでもらい、時間をかけて自分で腕を通してもらう。立ち上がる時も全部持ち上げるのではなく、足の位置を整え、手すりを握ってもらい、本人が力を出すのを待った。
最初は男性も苛立っていた。
「できねえよ」
何度もそう言った。
それでも先輩は、
「じゃあ、できないところだけ手伝います」
と答えていた。
数週間後。
その人は、自分でシャツの袖へ腕を通せるようになった。
ほんの少しのことだった。
服を全部一人で着られるようになったわけではない。
立ち上がりだって見守りは必要だった。
それでも本人は、驚くほど嬉しそうだった。
「俺、まだできるんだな」
その言葉を聞いた時、たぶん俺はこの仕事を好きになった。
できないことを全部代わりにやるのではなく、その人に残っている力を見つける。
できることはやってもらう。
難しいところだけ手を貸す。
時間がかかっても、その人自身の生活として続けてもらう。
介護の教科書に書かれていたような言葉が、その時初めて実感として分かった気がした。
だから俺は続けた。
忙しくても。
大変でも。
夜勤が辛くても。
仕事そのものには意味があると思っていた。
問題は、意味がある仕事ならどれだけ無理をしてもいい、と少しずつ思い込むようになったことだった。
◇
畑の土へ鍬を入れながら、昔の光景が途切れ途切れに浮かんでくる。
働き始めて数年もすると、俺は新人ではなくなった。
後輩が入った。
任される仕事が増えた。
委員会にも名前が入るようになった。
事故が起きれば報告書を書く。
新人が分からなければ教える。
家族から難しい話が出れば、上司と一緒に対応する。
それ自体はおかしなことではない。
経験年数が増えれば、仕事が増えるのもある程度は当然だ。
でも、人は増えなかった。
むしろ辞めていった。
一人辞める。
補充が来る。
数か月で辞める。
また別の人が来る。
夜勤に入れる人は限られていて、誰かが体調を崩せば残った人間で回すしかなかった。
俺は断るのが苦手だったのだと思う。
「悪いんだけど、ここ入れない?」
勤務表を指差される。
本当は休みだった。
用事があったわけではない。
だから、
「大丈夫です」
と答えた。
一度。
二度。
三度。
それが続くと、いつの間にか「頼めば入ってくれる人」になった。
自分でも、それでいいと思っていた。
子供がいる職員。
親の介護がある職員。
体調の悪い職員。
みんな事情がある。
俺は独身だった。
当時は自分の時間を守らなければならない理由を、うまく説明できなかった。
予定がないなら働ける。
働けるなら断る理由がない。
そう考えていた。
たぶん、そこから少しずつ壊れていった。
◇
昼前になり、畑仕事を一度やめた。
腰を伸ばして水を飲んでいると、道の向こうからマーサ婆ちゃんが歩いてきた。手には小さな籠を持っている。
「ユウ、いるかい?」
「いるよ。どうしたの?」
「昨日の芋、まだあるだろ」
「あるけど」
「これも持っていきな」
籠の中には、小さな赤い実が入っていた。
この世界の野菜で、味はトマトに少し似ている。生でも食べられるし、煮込みに入れてもいい。
「また食べ物?」
「畑で採れたからね。うちじゃ食べ切れないよ」
「俺も一人なんだけど」
「だったら誰かに分ければいいじゃないか」
あっさり言われる。
俺は少し笑った。
「それでいいんだよな」
「何がだい?」
「余ったら誰かに渡せばいいんだなって」
「当たり前じゃないか。腐らせる方がもったいないだろ」
マーサ婆ちゃんは不思議そうな顔をしている。
当たり前。
またその言葉だ。
俺は籠を受け取りながら、前の職場でのことを思い出した。
◇
ある夜勤の日だった。
職員は俺一人。
利用者は二十人。
全員が常時介助を必要とするわけではない。
眠っている人もいる。
自分でトイレへ行ける人もいる。
だから、数字だけを見れば回せない人数ではなかったのかもしれない。
でも、その日は重なった。
十一時を過ぎた頃、一人がトイレへ行きたいとコールを押した。
対応している最中に、別の部屋でセンサーが鳴った。
急いで戻る。
転倒はしていなかった。
ベッド脇に立っていた利用者をトイレへ案内する。
その途中でまた別のコール。
「ちょっと待ってくださいね」
声をかける。
待ってもらう。
でも、待てない人もいる。
認知症があれば、さっき説明したことを忘れる。
不安になれば何度も呼ぶ。
当然だ。
本人に悪気はない。
その人にとっては、今この瞬間が困っている時間なのだから。
分かっていた。
分かっているのに、胸の奥では焦りが膨らんでいく。
一人をベッドへ戻す。
記録を書く前に別の部屋へ行く。
オムツ交換。
寝衣が汚れていた。
着替える。
シーツも交換する。
その途中でまたセンサー。
廊下を走るわけにはいかない。
転倒したら余計に危ない。
でも、足は自然と速くなる。
センサーの部屋へ着くと、利用者は既に歩き始めていた。
「どうしました?」
「家に帰る」
「今は夜ですよ」
「娘が待ってる」
その人の娘は、もう六十代だった。
本人の中ではもっと昔の時間にいる。
説得しても意味がない。
一緒に廊下を少し歩く。
話を聞く。
落ち着いてもらう。
ようやくベッドへ戻った頃には、最初に対応していた人の記録内容を一部忘れかけていた。
メモを見る。
思い出す。
記録を書く。
またコール。
そんなことを繰り返しているうちに、日付が変わった。
午前二時を過ぎた頃、ようやく静かになった。
俺は詰所の椅子へ座った。
夜食用に買ってきたおにぎりを開けた。
一口食べた。
二口目を食べようとしたところで、またコールが鳴った。
すぐに立った。
おにぎりを机へ置く。
対応へ向かう。
戻ってきた時には三十分以上経っていた。
冷えたおにぎりを見て、なぜか食欲がなくなった。
でも、まだ朝まで何時間もある。
食べなければ動けないと思い、半分だけ口へ押し込んだ。
その時だった。
別の部屋から大きな音がした。
胸が跳ねた。
走ってはいけないと思いながら廊下を急ぎ、部屋へ入る。
利用者が床へ座り込んでいた。
転倒だった。
頭は打っていない。
意識もある。
痛みを確認する。
出血なし。
腕。
脚。
腰。
少しずつ動かしてもらう。
大きな怪我はなさそうだった。
ほっとした。
でも、それで終わらない。
上司へ連絡。
状態確認。
必要なら家族へ連絡。
記録。
事故報告書。
どうして起きたか。
どうすれば防げたか。
センサーは鳴ったのか。
鳴ったなら、なぜ間に合わなかったのか。
間に合わなかった理由は分かっていた。
別の利用者へ対応していたからだ。
でも、報告書の欄にそれだけ書けば終わるわけではない。
再発防止策。
環境調整。
見守り方法。
文章を考える。
書く。
直される。
また書く。
夜が明ける頃には、身体より頭の方が疲れていた。
早番の職員が来て、申し送りをする。
「大変だったね」
そう言われた。
俺は笑って、
「重なっちゃいました」
と答えた。
それだけだった。
勤務が終わって車へ乗り込んだ時、しばらくエンジンをかけられなかった。
何かがあったわけではない。
利用者は無事だった。
誰かから怒鳴られたわけでもない。
ただ、座席へ身体を預けたら動きたくなくなった。
ハンドルへ額をつけて、目を閉じた。
十五分くらいそうしていたと思う。
その後、家へ帰った。
シャワーを浴びる気力もなく、着替えて布団へ倒れた。
眠りに落ちる直前まで、頭の中ではコールの音が鳴っていた。
◇
「ユウ?」
声をかけられ、目の前の畑へ意識が戻る。
マーサ婆ちゃんがこちらを見ていた。
「どうしたんだい。急に黙り込んで」
「ああ、ごめん。昔の仕事思い出してた」
「嫌なことかい?」
「嫌なことだけじゃないよ」
俺は少し考えてから、そう答えた。
本当に、嫌なことだけではなかった。
もし全部嫌だったなら、もっと簡単に辞められたかもしれない。
利用者の笑顔があった。
ありがとうと言われた。
後輩ができるようになった時は嬉しかった。
家族から感謝されたこともある。
先輩と馬鹿な話をしながら夜勤を乗り切った日もあった。
だから、辞める決心がつかなかった。
「好きだったところもあったんだ。でも、疲れた」
「なら休めばよかったじゃないか」
「それができなかったんだよ」
「なんで?」
真っ直ぐ聞かれて、困った。
理由は一つじゃない。
人が足りない。
自分が休めば誰かが代わりに出る。
迷惑をかける。
社会人なのだから。
資格職なのだから。
みんな大変なのだから。
自分だけ弱音を吐くわけにはいかない。
そんな言葉を何度も自分へ向けていた。
「休んだら、誰かが困ると思ってたからかな」
「でも、あんたが倒れたらもっと困るだろう」
あまりにも普通に言われた。
俺は何も返せなかった。
マーサ婆ちゃんは俺が黙っていることなど気にせず、籠から赤い実を一つ取って手渡してくる。
「食べてみな。甘いやつだから」
「今?」
「今食べたっていいだろ。昼前だから食べちゃいけない決まりでもあるのかい?」
言われるまま服の裾で軽く拭き、齧る。
少し酸味がある。
でも、確かに甘い。
「うまい」
「そうだろ。昨日から鳥に狙われて大変だったんだよ」
「結界張ろうか?」
「鳥くらい自分で追い払うさ。全部あんたにやらせたら、私が暇になるじゃないか」
思わず笑った。
全部やらせたら暇になる。
それもそうだ。
俺が便利だからと、村中の仕事を魔法で全部済ませれば、たぶん皆は楽になる。
でも、本当にそれがいいのかは分からない。
畑仕事が好きな人もいる。
薪を割ることを日課にしている人もいる。
自分の家を自分で直したい人もいる。
危ないことは止めたい。
でも、できることまで取り上げる必要はない。
「じゃあ鳥は婆ちゃんに任せるよ。屋根だけは俺に任せて」
「まだ言うかい」
「それは言うよ」
マーサ婆ちゃんは声を上げて笑った。
◇
午後になると、俺は村の南側にある川へ向かった。
目的は水汲みではなく、少し散歩したかっただけだ。
畑仕事を続けてもよかったが、昔のことを思い出したせいか、どうにも頭が重かった。
川辺には平たい石がいくつもあり、その一つへ腰を下ろす。
水は澄んでいる。
流れも穏やかだった。
魚が泳いでいるのが見える。
風が草を揺らし、水面へ細かな波紋を作っていく。
前の世界なら、この時間も働いていたかもしれない。
早番ならそろそろ午後の排泄介助。
遅番なら出勤している頃。
夜勤なら、夕方からの勤務を考え始める時間だった。
休みの日でも、明日が仕事なら時計を見るたびに残り時間を計算していた。
今は違う。
川を見ているだけでいい。
誰かに許可を取る必要もない。
何もしなくても、給料泥棒と呼ばれることもない。
「……当たり前なんだけどな」
自分の時間を、自分のために使う。
そんな当然のことを、俺はいつから難しく考えるようになったのだろう。
前の職場で、同期が辞めた時のことも思い出す。
彼は俺より少し早く限界になった。
「もう無理です」
上司へそう言ったらしい。
その話を聞いた時、俺は心のどこかで羨ましいと思った。
辞めると言えることが。
逃げると決められることが。
同時に、
「残った人が大変になるな」
とも考えた。
今思えば、それがもうおかしかった。
辞める人を責めたかったわけではない。
それでも最初に職場の都合を考えてしまった。
自分が辞めたら誰かが困る。
誰かが夜勤へ入る。
誰かが残業する。
だから自分が残る。
でも、そんなことを全員が考えていたら、誰も逃げられない。
職場を回す責任まで、一人の介護士が背負う必要なんてなかったはずだ。
分かっている。
今なら分かる。
当時も、頭ではたぶん分かっていた。
それでも身体は職場へ向かった。
朝になれば制服へ着替え、タイムカードを押した。
利用者の前へ行けば笑った。
疲れていても、
「大丈夫ですよ」
と言った。
その言葉を、自分自身へ向けることは一度もなかった。
川の流れを見ながら、ゆっくり息を吐く。
「俺も休んでよかったんだろうな」
誰もいない場所だから、ようやく言えた。
休職してもよかった。
転職してもよかった。
辞めてもよかった。
もっと早く誰かに無理だと言ってもよかった。
でも、できなかった。
その結果、異世界へ来た。
どうして転移したのかは、今でも分からない。
事故だったのか。
誰かに呼ばれたのか。
神様のような存在がいたのか。
気づいた時には、この世界にいた。
それならもう、前の人生でできなかったことをやってもいいと思う。
頑張らない。
無理をしない。
全部背負わない。
できることだけやる。
そんな生き方を選んだって、誰にも文句を言われる筋合いはない。
◇
「ユウー!」
遠くから声がした。
反射的に振り返ると、川沿いの道をローデンが歩いてきている。何か問題が起きたのかと思って立ち上がりかけたが、彼の歩き方はのんびりしていて、急いでいる様子はなかった。
「何かあった?」
「いや。家にいなかったから、ここかと思ってな」
「俺を探してたの?」
「ああ。今日、夕方に村の連中で飯を食うことになった」
「急だな」
「魚がたくさん捕れたんだ。どうせ余るから焼こうって話になった」
ローデンは川の上流を指差す。
どうやらガルド爺さんたちが朝から仕掛けていた網に、思った以上の魚が入ったらしい。
「俺、何か持っていった方がいい?」
「別にいらんぞ」
「でも昨日も今日も色々もらってるし」
「なら、お前の家にある余り物を持ってくればいい。どうせ皆からもらった物なんだろ」
「確かに」
思わず笑う。
もらった芋。
野菜。
豆。
卵。
全部村の物みたいなものだ。
「何時くらい?」
「日が傾いたら中央の広場に来い。それまで暇なら寝ててもいいぞ」
「そんなに俺、疲れて見える?」
「時々な」
さらっと言われた。
俺は少し驚いた。
「そんな顔してる?」
「来たばかりの頃よりはずっとましだ。ただ、たまに誰も急かしてないのに一人で急いでる時がある」
言われて、言葉を失う。
自覚がなかった。
「昨日もベルの家から井戸へ向かう時、早足だったろ。誰も急げなんて言ってなかったぞ」
「……癖かな」
「なら、そのうち直せばいい」
ローデンはそれ以上何も言わなかった。
直せ、と命令するでもない。
そんなに頑張るなと説教するでもない。
そのうちでいい。
それだけだった。
「分かった。飯まで少し昼寝するよ」
「そうしろ。寝過ごしたら誰かが起こしに行く」
「それはそれで嫌だな」
「屋根に婆さんが上がったって言えば飛び起きるだろ」
「それ嘘で使うの禁止だからな!」
ローデンは笑いながら村へ戻っていった。
俺はその背中を見送り、もう一度川へ視線を戻す。
昔の職場では、休むことに理由が必要だった。
体調が悪い。
用事がある。
誰かの許可がある。
ここでは違う。
疲れたなら寝ればいい。
それだけで済む。
その単純さに、まだ完全には慣れていない。
◇
夕方、村の中央にある広場へ行くと、既に何人も集まっていた。
大きな石を組んだ簡易的な炉の上で魚が焼かれ、香ばしい匂いが辺りへ漂っている。子供たちは広場を走り回り、老人たちは椅子や木箱へ腰を下ろして好き勝手に話していた。
俺は昼寝の後、自宅にあった芋と赤い実を持ってきた。
「ユウ、遅いぞ!」
「時間決めてなかっただろ!」
ガルド爺さんに文句を言いながら、食材を机へ置く。
すぐに誰かが芋を洗い始め、別の人が赤い実を切り始める。
誰が何をやるか決めていない。
でも、自然に作業が進んでいく。
「俺、何すればいい?」
聞くと、マーサ婆ちゃんが振り返った。
「そこ座ってな」
「え?」
「今日は私らがやるから、あんたは食べる係」
「いや、手伝うよ」
「毎日あちこち呼び回されてるんだから、たまには座っときな。火くらい私らでも起こせるよ」
思わず周囲を見る。
ガルド爺さんも笑っていた。
「魔導書を出したら没収するぞ」
「どうやって没収すんだよ」
「気合いじゃ」
「無茶苦茶だな」
笑いながら、言われた通り椅子へ座る。
落ち着かない。
目の前で皆が動いている。
何か手伝えることがないか探してしまう。
皿を運んだ方がいい。
あの薪は積み直した方が安全だ。
子供が炉へ近づきすぎている。
そんなことばかり気になる。
「ユウ」
横から声をかけられた。
ベル爺さんだった。
「何?」
「座っとれ」
「座ってるよ」
「身体だけな。目が働いとる」
図星だった。
「……分かる?」
「分かるわ。俺たちを年寄り扱いするくせに、お前も大概だな」
ベル爺さんは笑い、自分の手にしていた木杯を俺へ差し出した。中身は果実を薄めた飲み物で、酒ではないらしい。
「飲め。今日は何もしなくていい」
「でも」
「お前が言っとるんだろ。できることは自分でやれって」
「まあ、言ってるけど」
「なら俺たちができることまで取るな」
返す言葉がなかった。
自分が昨日まで言っていたことを、そのまま返された。
俺は木杯を受け取り、少しだけ飲む。
甘い。
「……ずるいな」
「何がじゃ」
「その言い方されたら手出せないじゃん」
「たまには黙って世話されとけ」
ベル爺さんが満足そうに笑う。
俺もつられて笑った。
しばらくすると魚が焼けた。
芋も火の中へ入れられ、赤い実は簡単なサラダのようなものになった。
皆で食べる。
三十一人全員がいるわけではない。
体調が悪くて家にいる人もいるし、早く寝る人もいる。
それでも広場には二十人以上いた。
俺の隣では子供が魚の骨と格闘している。
向かいではマーサ婆ちゃんとガルド爺さんが、どちらが魚を多く捕ったのか言い争っている。
ローデンは少し離れた場所で笑っていた。
誰も俺に何かを求めていない。
魔法を使えとも。
手伝えとも。
役に立てとも言わない。
ただ、飯を食えと言われた。
それだけだった。
前の仕事では、人を支えることが俺の役割だった。
必要とされることに、少し安心していた時期もあったと思う。
自分が動けば誰かが助かる。
自分が頑張れば現場が回る。
それを積み重ねるうちに、頑張らない自分には価値がないような気がしていたのかもしれない。
でも、この村では違う。
今日は何もしなくても、ここに座っていていい。
飯を食べるだけでも、誰も文句を言わない。
それが、思っていた以上に胸へ染みた。
「ユウ兄ちゃん、魚食べないの?」
隣の子供に聞かれ、我に返る。
「食べるよ。今食べる」
「冷めるよ」
「分かってるって」
魚を一口食べる。
少し塩が強い。
でも、うまい。
向こうで誰かが笑う。
別の誰かが言い返す。
日が沈み始め、空が橙色へ変わっていく。
俺はその中で、ゆっくり食事を続けた。
前の仕事を嫌いになりたくはなかった。
あそこで出会った人まで嫌だったことにしたくない。
嬉しかったこともあった。
大切だった時間もあった。
ただ、もう戻りたいとは思わない。
あの働き方に戻る必要もない。
好きだった部分だけを持って、この村で生きていけばいい。
誰かが立ち上がりにくそうなら少し手を貸す。
危ない場所があれば直す。
困っているなら話を聞く。
でも、自分まで壊れるほど頑張らない。
できない日は、できないと言う。
疲れたら休む。
それくらいでいい。
「ユウ、芋も食え!」
ガルド爺さんが焼けた芋を投げるように渡してきたので、慌てて両手で受け取る。
「熱っ! 投げるなよ!」
「若いんだから取れるだろ!」
「若さで熱さは消えないんだよ!」
周囲から笑い声が上がった。
俺も笑った。
前の仕事があったから、今の俺がいる。
それは否定しない。
介護福祉士として覚えたことも、人と関わる中で知ったことも、全部捨てるつもりはなかった。
ただ一つだけ、前の世界へ置いてきてもいいものがある。
自分が頑張り続けなければ、誰かに迷惑をかける。
そんな思い込みだけは、もう持っていかなくていい。
広場の向こうで、夕日が山の端へ沈んでいく。
三十人だった村に加わった俺は、今日も何か特別なことをしたわけではない。
それでも、何もしない時間まで含めて一日だったと思える。
そんな感覚を、俺はまだ少しずつ覚えている途中だった。




