第2話 三十人の村
ベル爺さんの家に着いた時、俺が最初に見たのは動かない棚ではなく、その棚をどうにか一人で動かそうとしている七十代後半の老人の背中だった。
腰を低くして両手を棚へ押し当て、顔を真っ赤にしながら「ぬおお」と妙な声まで出している。さっき先に戻した孫には、俺が行くまで絶対に触らせるなと言ったはずなのだが、どうやら伝言が届くより本人の行動が早かったらしい。
「ベル爺さん、何してんの!」
思わず声を上げると、老人は身体をびくりと揺らし、それでも棚から手を離そうとはしなかった。木製とはいえ高さは俺の肩より上まであり、中身を抜いてもかなり重そうな代物で、しかも床板との間でどこかが引っ掛かっているように見える。
「おお、ユウ。ちょうどいいところへ来たな。あと少しで動きそうなんじゃ」
「だから触らないで待っててって言っただろ。腰やったらどうすんの」
「こんな棚くらいで腰をやるほど老いとらん」
「七十七歳が言う台詞じゃないよ。というか、その姿勢がもう危ないから一回やめて」
俺が近づいて肩へ手を添えると、ベル爺さんは渋々といった様子で身体を起こした。立ち上がった直後に腰へ手を当てたのを見逃さず、俺は何も言わずにじっと顔を見る。
「……なんじゃ」
「今、痛かったろ」
「別に痛くない」
「その言い方する時は大体痛いんだよ」
「お前は俺の何を知っとるんじゃ」
「この村に来てから何回爺さんの腰見たと思ってんの」
隣で孫の少年がくすくす笑い、ベル爺さんが気まずそうに鼻を鳴らした。俺はすぐに棚へ飛びつくのではなく、まず老人の歩き方を確認しながら近くの椅子へ座ってもらう。
「脚に痺れはない? さっき押した時に変な痛みとか出てない?」
「ないない。ちょっと張っただけじゃ」
「だったら今日はもう重い物持たないで。棚は俺が見るから」
「だからその棚を動かしたいんじゃ。壁際に寄せすぎて、後ろへ物を落とした時に拾えん」
理由を聞いてから棚の周囲を確認すると、たしかに壁との間がほとんどない。さらに床板の一部がわずかに沈んでおり、棚の脚がそこへ食い込んでいるため、力任せに押しても簡単には動かない状態だった。
「これ、中にまだ何か入ってる?」
「下の段に瓶が少しある」
「じゃあ先に全部出そう。軽くしてから動かした方がいいし、瓶割れたら面倒だから」
俺がしゃがみ込んで扉を開くと、薬草を乾燥させたものや保存用の塩、何に使うのか分からない色の濃い液体まで並んでいた。隣へ来た少年にも割れないものだけ渡し、二人で中身を少しずつ運び出していく。
ベル爺さんは椅子へ座ったまま、どこか不満そうな顔をしていた。
「俺にもやらせろ。座って見てるだけだと落ち着かん」
「じゃあ、あそこの布袋をこっちに寄せて。それくらいなら座ったままできるでしょ」
「子供扱いしとらんか?」
「してないよ。できること頼んでるだけ」
そう答えると、ベル爺さんは少しだけ黙り、それから足元にあった布袋を自分の方へ引き寄せた。こういう時、全部こちらでやってしまう方が早いし、たぶん安全でもある。
でも、それだけが正しいとは思わない。
自分の家のことを自分でやりたいという気持ちは、年を取ったからといって消えるわけじゃない。むしろ、できることが少しずつ減っていくからこそ、残っていることまで他人に奪われたくないと思う人もいる。
前の仕事でも、それは嫌というほど見てきた。
靴下を履くのに十分かかっても、自分で履きたい人はいる。食事を最後まで一人で食べるのに時間がかかっても、口へ運ばれるより自分の手で食べたい人もいた。
忙しい現場では、その十分が重かった。
次の人が待っている。
記録も残っている。
コールも鳴る。
だから「やりましょうか」と手を出して、結果的にこちらが全部やってしまうこともあった。
それが本当に本人のためだったのかと、後から考えることも多かった。
「ユウ兄ちゃん、全部出したよ」
「ああ、ありがとう。じゃあ少し離れてて。今度は棚動かすから」
少年を下がらせ、俺は棚の脚元へ視線を落とした。人力でも何とかできそうだが、無理に持ち上げて床を傷める必要もない。
《魔導書庫》を呼び出すと、少年が目を輝かせながら本棚を見上げた。
「やっぱりそれ、かっこいいよなあ」
「そう?」
「だって本が勝手に出てくるんだよ! 俺も欲しい!」
「俺は普通の収納袋の方が便利だと思うけど」
「絶対そっちの方がいいって!」
子供にとっては伝説級の魔導書も、ただ格好いい物に見えるらしい。俺は苦笑しながら茶色い本を取り出し、必要最小限だけ床へ魔力を流した。
「《整地》」
沈んでいた床板の下を薄く補強し、棚の脚が引っ掛かっていた部分を平らにする。ついでに棚そのものを数センチだけ浮かせ、壁から少し離した位置へゆっくり移動させた。
派手な光も爆音もなく、ほんの十数秒で作業は終わった。
「こんなもんかな。今度は後ろに手が入るくらい空けておいたよ」
「おお、ちょうどいい。最初からそうしてくれればよかったんじゃ」
「最初から一人で動かそうとしなければね」
「それはそれ、これはこれじゃ」
「この村、その理屈好きすぎない?」
マーサ婆ちゃんにも同じようなことを言われた気がする。俺が呆れていると、ベル爺さんの孫が楽しそうに笑い、本人まで釣られたように笑い始めた。
結局、棚の中身を戻す作業まで手伝うことになった。もっとも、全部俺がやったわけではなく、軽い物はベル爺さんにも座ったまま戻してもらい、少年にも分かる場所へ運んでもらう。
作業が終わる頃には、家の中へ差し込む朝日も随分高くなっていた。
「ほれ、これ持ってけ」
帰ろうとした俺へ、ベル爺さんが麻袋を一つ差し出してきた。受け取って覗いてみると、中には小さな芋が十個ほど入っている。
「こんなにいらないって。棚動かしただけだよ」
「余っとるんじゃ。昨日、畑から掘ったばかりだから食え」
「爺さん一人じゃないでしょ。孫もいるんだから家で食べればいいじゃん」
「まだある。というか、お前はもらえる時にもらっとけ。村に来た時より顔色はよくなったが、まだ時々飯を抜くだろ」
思わぬところを突かれ、言葉に詰まった。
確かに、面倒になると一食くらいならいいかと済ませてしまうことはある。別に痩せ細っているわけでもないし、自分ではそれほど問題だと思っていなかった。
「なんで分かるんだよ」
「煙が上がらん日がある」
「……監視されてない?」
「村が小さいんだから、嫌でも分かる」
言われて外を見る。
たしかに、家が二十軒にも満たない村だ。誰が今日は畑へ出ていないとか、誰の家の煙突から煙が出ていないとか、そういう変化は都会よりずっと目につく。
「別に毎回自炊してるわけじゃないよ。マーサ婆ちゃんのところで食べたりしてるし」
「それならいい。とにかく持ってけ。返したら怒るぞ」
「分かったよ。ありがとう」
素直に袋を受け取ると、ベル爺さんは満足そうに頷いた。
こういうことが、この村では多い。
俺が誰かの家を修理すると、数日後には野菜が届く。薪を運べば卵を渡され、畑を手伝えば今度は漬物を持たされる。
別に物々交換の決まりがあるわけではない。
誰も金額を計算しない。
助けられたから返すというより、余ったから持っていけ、腹が減ってるなら食え、という程度の感覚らしい。
前の世界にいた頃、誰かの生活を支えることは仕事だった。
対価として給料を受け取る。
それは当然の仕組みだし、悪いことではない。
けれどこの村に来てから初めて、助ける側と助けられる側の境目がこんなに曖昧でもいいのだと知った。
今日は俺が棚を動かした。
明日はベル爺さんが畑のことを教えてくれるかもしれない。
俺が熱を出せば、誰かが飯を持ってくるだろう。
それでいいらしい。
「じゃあ行くよ。腰、今日は本当に無理しないでね」
「分かった分かった。お前は細かいのう」
「その台詞、今日二回目だからね」
家を出ると、少年が玄関までついてきた。
「ユウ兄ちゃん、また魔法見せて!」
「必要な時ならね。遊びで大きいのは使わないよ」
「ケチ!」
「事故ったら嫌だから」
笑いながら手を振り、その家を後にした。
◇
次は井戸だった。
村の中央にある共同井戸ではなく、少し外れた家にある古い井戸で、呼び止めてきた老婆はサナ婆さんという。俺が着いた時には、既に何人かの村人が集まり、井戸を覗き込みながら好き勝手なことを言っていた。
「縄を強く引けばいいんじゃないか?」
「それで切れたら桶が落ちるだろ」
「落ちたらユウが取ればいい」
「なんで最初から俺が取る前提なんだよ」
後ろから声をかけると、全員が一斉に振り返った。
「おお、来たか!」
「待ってたよ、ユウ!」
「これ見てくれ!」
三人くらいから同時に呼ばれ、俺は思わず笑ってしまった。たった三十人ほどの村なのに、何か起きると妙に人が集まる。
「一人ずつ話して。で、桶が上がらないんだよね?」
「途中で引っ掛かるんだよ。昨日までは普通だったんだけどねえ」
サナ婆さんから縄を受け取り、ゆっくり引いてみる。途中までは問題なく上がるが、地面から二メートルほど下の位置で急に抵抗が増えた。
「縄が引っ掛かってる感じじゃないな。桶そのものが何かに当たってるかも」
「井戸の中に何か落ちたのか?」
「可能性はあるね」
周囲の老人たちがまた一斉に井戸を覗こうとするので、俺は慌てて手を広げた。
「ちょっと待って。みんなで縁に寄らないでよ。落ちた人まで助けることになったら仕事増えるから」
「お前なら何とかできるだろ」
「できるかどうかと、落ちていいかどうかは別だから!」
注意すると、ぶつぶつ言いながらも一歩ずつ下がってくれる。
この村の老人たちは基本的に元気だ。
身体が動く。
畑もやる。
山にも行く。
だから余計に、自分たちが危ないことをしているという感覚が薄い。
元気なのはいいことだが、元気と無敵は違う。
俺は井戸の縁へ片膝をつき、中を覗き込んだ。
暗い。
日差しは入っているものの、かなり深い場所まで水面がある。
「光が欲しいな」
《魔導書庫》を出し、白い装丁の本へ手を伸ばしかけて止まる。
どれだったか。
まだ十冊全部を完全に使いこなせているわけではない。使える術は自然と頭へ入ってくるのだが、一冊の中にも複数の魔法があり、便利だからと片っ端から試す気にもなれなかった。
結局、以前使ったことのある小さな光源魔法を選ぶ。
「《灯火》」
指先ほどの光球が生まれ、井戸の中へゆっくり降りていく。
「おお……」
「いつ見ても綺麗だねえ」
周囲から感嘆の声が上がった。
こうして反応されると、少しだけ恥ずかしい。
俺自身はいまだに、この力が自分の物だという感覚が薄い。前の世界では電気をつけるのにスイッチを押していた人間が、今は指一本で光を作っているのだから、慣れろと言われても難しい。
光球を桶の近くまで下ろしてみると、原因はすぐに分かった。
「枝だ」
「枝?」
「井戸の内壁から太い根か枝みたいなのが出てて、それに桶の取っ手が引っ掛かってる」
「切れるか?」
「たぶん。井戸自体を傷つけないようにやれば大丈夫」
風系統の魔導書から細い刃を作り、枝の先端だけを切り落とす。
縄を引くと、今度は抵抗なく桶が上がってきた。
「直ったよ」
「おお!」
サナ婆さんが嬉しそうに縄を受け取り、何度か上下させて確認する。他の老人たちまで順番に試したがるので、俺は少し離れてその様子を眺めていた。
世界を救えるかもしれないと言われた力で、井戸の枝を一本切った。
それで五人の老人が喜んでいる。
これで十分なんじゃないかと思う。
「ユウ、これ持っていきな」
嫌な予感がして振り返ると、サナ婆さんが籠を差し出していた。中には葉野菜が山ほど入っている。
「また!?」
「今朝採ったやつだよ。柔らかいから煮ても炒めても食える」
「さっき芋ももらったんだけど」
「なら一緒に煮ればいいじゃないか」
「そういう問題かな……」
「もらっとけ、もらっとけ」
周囲からも勧められ、結局受け取ることになる。
この調子だと、今日中に俺の家が食材庫になりそうだ。
◇
昼を少し過ぎる頃、自宅へ戻った俺は、台所の机に並んだ食材を見て腕を組んでいた。
芋。
葉野菜。
卵。
干し肉。
ついでに、井戸の帰りに会った別の爺さんからもらった豆。
「……俺、何しに村回ってたんだっけ」
手伝いに行ったはずなのに、帰るたび荷物が増えている。
仕方がないので昼飯を作ることにした。
芋を切り、葉野菜と一緒に鍋へ入れる。干し肉を少し刻んで加え、塩で味を調整する。
料理は専門ではないが、最低限はできる。
前の世界でも一人暮らしをしていた時期があり、夜勤明けに何か買って帰るのすら面倒な日は適当に鍋を作った。余計な洗い物が出ない料理ばかり上達した気がする。
火をつけるために赤い魔導書を使い、鍋を見ながら椅子へ座る。
「……便利だな」
改めて思う。
ガス代も電気代もない。
水も魔法で出せる。
冷やすこともできる。
やろうと思えば食材保存用の箱だって作れる。
町の魔術師たちが見たら怒るのかもしれないが、俺にはこの使い方の方が性に合っている。
しばらくすると、鍋からいい匂いが立ち始めた。
ちょうどその時、玄関が叩かれる。
「ユウ、いるか?」
「いるよ。開いてる」
入ってきたのは、村では珍しい五十代の男だった。
名前はローデン。
村のまとめ役に近い人物で、誰かが明確に村長と呼んでいるわけではないが、外から商人が来た時や税の話がある時は大抵この人が対応している。
「いい匂いだな。昼飯か?」
「今作ってる。食べる?」
「いいのか?」
「食材ほとんど村でもらったやつだから、俺の物って感じもしないし」
ローデンは笑いながら椅子へ座った。
「なら遠慮なくもらうか。ちょうど話もあった」
「嫌な話?」
「なんで最初にそれを聞くんだ」
「前の世界で『ちょっと話がある』は大体いい話じゃなかったから」
「変なところで苦労しとるな、お前は」
鍋を二つの器へ分け、机へ運ぶ。
ローデンは一口食べると、意外そうに眉を上げた。
「普通にうまいな」
「普通って何だよ」
「魔法ばっかり使ってるから料理はできんと思ってた」
「俺のこと何だと思ってるの」
「便利な若者」
「この村での俺の肩書き、それになってない?」
二人で笑いながら食事を進める。
こうして誰かがふらっと家へ入り、一緒に飯を食べることにも少しずつ慣れてきた。
「それで、話って何?」
「ああ。来週あたり、街道沿いの町から行商が来る」
「へえ。前に来た人?」
「たぶんな。塩と油、それから布を頼んである。お前も欲しい物があるならまとめて言っておけ」
「紙かな。あと石鹸みたいなのがあれば欲しい」
「石鹸なら高いぞ」
「いくらくらい?」
値段を聞いて少し考える。
この世界に来てから、金を使う機会は驚くほど少ない。
家は空き家を貸してもらっている。
食料は畑か村人から。
薪も自分で取るか分けてもらえる。
服や道具だけは町で買う必要があるが、頻繁に必要になる物ではない。
「買えるけど、結構するな」
「無理に買わなくても、灰と油で作れるぞ」
「え、村で作れるの?」
「サナ婆さんが作っとる。聞いてみろ」
「俺さっき会ったのに、そんなこと一言も言ってなかったよ」
「聞かなきゃ言わんだろ」
なるほど。
俺はまだこの村のことを全然知らない。
ここへ来てから何人もの家へ出入りしているが、それぞれが何を得意としているのかまでは分かっていない。
「そういえば、村って本当に三十人くらいなんだよね?」
「今は三十一だな。お前が来て増えた」
「俺込みなんだ」
「当たり前だろ。もう住民なんだから」
何でもないように言われた。
その言葉に、箸ならぬ木匙を持つ手がほんの少し止まる。
「……住民なんだ」
「何を今さら言ってる。家も畑も使って、毎日人の家をうろついてる奴を旅人扱いする方がおかしいだろ」
「うろついてるって言い方やめてよ。頼まれて行ってんだから」
「同じようなもんだ」
ローデンは笑っている。
俺も笑い返したが、胸の奥には別の感覚が残っていた。
住民。
ただそれだけの言葉だった。
元の世界でだって、俺には住所があった。
家もあった。
勤務先もあった。
それでも、自分がどこに属しているのか分からなくなることが時々あった。
仕事へ行って、帰って、寝る。
また起きて仕事へ行く。
家は休む場所というより、次の勤務まで身体を置いておく場所のように感じる日もあった。
この村へ来た時は、もっと単純だった。
誰にも追われずに暮らしたい。
人の少ないところなら楽だろう。
それだけだった。
なのに今は、誰かが普通に俺をこの村の人数へ数えている。
「ユウ?」
「ん?」
「本当にどうした。飯まずかったか?」
「俺が作ったんだけど」
「じゃあ自分の腕に落ち込んだか」
「違うって」
少し笑い、残っていた煮込みを口へ運ぶ。
温かい。
それだけで、何となく胸の内側まで緩む気がした。
◇
昼食後、ローデンに誘われて村を少し歩くことになった。
行商人へ頼む物を各家から集めるらしく、どうせなら俺も一緒に回ればいいという話だった。
「午前中にも散々回ったんだけど」
「じゃあ慣れたもんだろ」
「そういう問題じゃないんだよなあ」
文句を言いつつついていく。
人口三十一人。
家は点々と離れているものの、端から端まで歩いてもそれほど時間はかからない。
村の北側には畑が多く、南側には小さな川が流れている。東へ進めば深い森、西側には細い道が延び、その先でようやく街道へ繋がる。
教会はない。
店もない。
宿屋もない。
鍛冶場だけは小さいものが一つあり、農具の修理程度なら村の中で済ませられる。
「向こうの空き家、誰も使ってないよね?」
「ああ。二年前まで夫婦が住んでたが、息子夫婦のいる町へ移った」
「こっちは?」
「そこは冬だけ誰もいなくなる。娘のところへ行く婆さんの家だ」
ローデンに聞きながら歩いていると、一軒一軒にちゃんと生活があることが分かる。
俺にとっては「小さな村」でも、ここで何十年も生きてきた人間にとっては、家一つにも畑一枚にも歴史がある。
畑の向こうから、腰の曲がった女性が手を上げた。
「ユウ! 昼は食べたかい?」
「食べたよ!」
「ちゃんと野菜も食べたかい?」
「食べた!」
「ならいい!」
それだけで会話が終わる。
少し歩くと、今度は木を削っていた老人から呼ばれる。
「ユウ、これ見てみろ!」
「何?」
「杖だ。お前がこの前言ってた高さにしてみた」
渡された木杖を確認する。
以前、その老人が使っていた杖が高すぎて肩が上がっていたため、もう少し低くした方が歩きやすいと話したことがあった。
「いいと思う。握った時に肩も上がってないし、これなら使いやすそう」
「じゃろ? あと二本作る」
「二本もいる?」
「俺のじゃない。隣の婆さんとサナ用だ」
本人のために話したつもりだったのに、いつの間にか他の人の分まで作っている。
「材料足りる?」
「裏に腐るほど木がある」
「腐ってる木は使わないでよ」
「言葉の綾じゃ!」
笑いながら杖を返す。
こういうところも、この村らしい。
誰か一人に教えたことが、いつの間にか別の誰かへ広がる。
俺が全部やる必要なんてない。
むしろその方がいい。
前の世界でも、本人や家族にやり方を伝え、それが日常の中で続いていく方が支援としては理想的だった。
でも仕事になると、どうしても「職員がやる」形に寄りやすかった。
ここでは、俺が一度口を出せば勝手に村の中で回っていく。
「楽だな」
「何が?」
隣のローデンに聞かれ、俺は少し考えてから答えた。
「俺が全部やらなくてもいいのが」
「当たり前だろ。お前一人しか人間がいないわけじゃないんだから」
「前は、それが分かってても難しかったんだよ」
ローデンは詳しく聞こうとはしなかった。
「そうか」とだけ言い、そのまま歩く。
俺はその距離感も嫌いではなかった。
◇
夕方近くになる頃には、約束していた薪割りも終わり、井戸の具合も再確認し、畑仕事は結局ほとんど進まなかった。
最後にマーサ婆ちゃんの家へ寄り、風呂を沸かす。
「熱すぎないようにしてよ」
「分かってる。前に熱いって怒ったの婆ちゃんでしょ」
「年寄りは肌が弱いんだよ」
「自分で年寄りって言ったじゃん」
「細かいねえ」
どちらが細かいのか分からない。
湯温を確認し、浴槽へ張った湯が熱すぎないことを確かめる。
「一人で入るの?」
「そうだよ」
「滑るところない?」
「この前あんたが床直しただろ。手すりも付けたし問題ないよ」
そう言われ、浴室を覗く。
以前は床の一部が妙に滑りやすく、浴槽も跨ぎづらかった。だから土魔法で床面を整え、木材で簡単な手すりを付けた。
「もし調子悪かったら無理して入らないでね」
「分かったって。あんたは本当に世話焼きだね」
「仕事じゃないんだけどな」
「仕事じゃないからいいんだろ」
不意に返ってきた言葉に、俺は黙った。
マーサ婆ちゃんは何か深い意味を込めた様子もなく、着替えを準備している。
「金をもらってるわけでもないし、やりたくない日はやらなくていい。こっちだって頼める時に頼んでるだけなんだから、嫌なら嫌って言えばいいんだよ」
「……そんな簡単でいいの?」
「何が?」
「いや」
俺は少し笑った。
「なんでもない」
それから家へ帰る途中、村の中央で立ち止まった。
夕方の光が家々の壁を橙色に染めている。
畑から戻る人。
洗濯物を取り込む人。
家畜へ餌をやる子供。
薪を積んでいる老人。
誰かが俺に気づき、軽く手を振る。
こちらも振り返す。
それだけだ。
人口三十一人。
今日一日で、その半分くらいとは顔を合わせた気がする。
「狭いなあ」
口にしてみると、自分でも少し笑ってしまった。
狭い。
本当に狭い。
都会なら、同じ集合住宅に住んでいても隣人の名前を知らないことがある。
ここでは朝飯を抜けば煙突を見てばれる。
腰を痛めれば翌日には全員知っている。
誰かの畑で野菜が余れば、数時間後には別の家の食卓へ並ぶ。
プライバシーという意味ではかなり危うい。
それでも、今はそれを鬱陶しいとは思わなかった。
家へ戻る。
玄関前には、見覚えのない籠が置かれていた。
中を覗くと卵が六個。
紙も何もない。
でも、たぶん誰が置いたかは明日になれば分かる。
「……また増えてるし」
芋もある。
野菜もある。
豆もある。
卵まで増えた。
どう考えても一人では食べ切れない。
だったら明日、誰かのところへ持っていけばいい。
そんなことを自然に考えている自分に気づき、俺は少しだけ立ち止まった。
もらって、返して、助けて、助けられる。
誰か一人が全部を抱え込むのではなく、できる人ができることをする。
前の世界で何度も口にしたはずの「支え合い」という言葉を、俺はこの三十人しかいない村で初めて実感しているのかもしれない。
玄関を開ける前に、もう一度村を振り返った。
世界全体から見れば、地図に名前すら載っているか怪しい場所だ。
王都から見れば、何の価値もない辺境なのかもしれない。
若者が出ていき、老人ばかり残った、小さな村。
でも、俺にとっては違う。
ここでは、役に立たない日があっても責められない。
疲れていたら休めと言われる。
何かできれば喜ばれる。
できなければ、他の誰かがやる。
自分の価値を毎日証明しなくていい。
それだけで十分だった。
「三十一人か」
自分を含めた人数を声に出す。
昨日までなら、たぶん「三十人くらいの村」としか考えていなかった。
でも今日からは少し違う。
俺が来たから三十一人。
そう数えてもらえる場所がある。
その事実が、思っていたより嬉しかった。
家へ入り、玄関を閉める。
夕飯は昼の残りでいい。
風呂も自分用に少し湯を沸かせばいいし、畑の続きは明日やればいい。
今日できなかったことを、今日中に全部終わらせる必要はない。
そう思える生活にも、ようやく身体が慣れ始めていた。
窓の外では、夕日がゆっくり山の向こうへ沈んでいく。
明日もたぶん、誰かが何かを頼みに来るだろう。
俺もきっと、文句を言いながら手伝う。
その代わり、俺が困った時には誰かが勝手に家へ入ってきて、飯でも置いていくのかもしれない。
それくらいの距離が、今はちょうどよかった。
三十人だった村は、俺が来て三十一人になった。
ただ一人増えただけの、小さな変化。
それでも俺にとっては、異世界へ来て初めて、自分がどこかの人数に含まれたと思えた日だった。




