第1話 辺境暮らし
朝、目を覚まして最初に聞こえたのは、電子音ではなかった。枕元でけたたましく鳴る目覚ましでも、廊下の向こうから聞こえてくるナースコールでもない。誰かがベッドから起き上がったことを知らせるセンサー音でもなければ、夜勤明け間際になって立て続けに鳴り始める呼び出しでもなかった。
窓の外から聞こえてきたのは、名前も知らない小さな鳥の鳴き声だった。木造の家の軒下辺りに巣でもあるのか、ぴいぴいと甲高い声が朝の静けさの中へ途切れることなく響いている。
「……朝から元気だな」
少しうるさいとは思う。それでも、不思議と嫌な気分にはならなかった。俺は薄い毛布を胸元まで引き上げると、寝返りを打って窓へ背中を向け、もう一度目を閉じた。
まだ眠いのだから、眠ればいい。そんな当たり前のことを誰にも咎められずにできる生活を手に入れるまで、ずいぶん長い時間がかかったような気がしている。
もっとも、この世界へ来てから数えれば、それほど長いわけではない。問題なのは、その前の二十七年間、とりわけ社会人になってからの時間だった。
前の世界で、俺は介護福祉士として働いていた。
介護という仕事そのものを嫌っていたわけではない。昨日まで一人では立てなかった人が、手すりを使いながら自分の力で立てた時や、食欲をなくしていた人が久しぶりに「これ、美味しいね」と笑った時には、素直に嬉しいと思えた。寝たきりになりかけていた人が、ほんの数歩でも自分の足で歩けた日なんかは、本人以上に喜びそうになって慌てて平静を装ったこともある。
人の生活に関わり、その人が持っている力をできるだけ失わずに済むよう手伝う。できなくなったことが少しでもできるようになれば一緒に喜ぶ。そういう仕事の根っこの部分は、今でも嫌いではないし、たぶん好きだったのだと思う。
ただ、その周りについてくるものが多すぎた。
夜勤をしながらコールに対応し、合間に記録を書き、事故が起きれば報告書を作り、委員会の資料も用意する。家族への連絡、新人教育、欠勤者の穴埋めまで重なり、誰かが休めば勤務が変わることも珍しくなかった。休日に職場から電話がかかってくれば、それだけで胃の辺りが重くなった。
人手は足りないのに、入居者の人数も仕事の量も減らない。それでも事故は起こすな、残業はするな、記録は詳しく書け、一人一人へ丁寧に寄り添え、そのうえ効率よく動けと言われる。
今になって考えてみても、どうすれば全部を完璧にこなせたのか分からない。
考えているうちに、せっかく消えかけていた昔の疲労まで布団の中へ戻ってきそうになった。俺は眉間を軽く揉み、頭の中に浮かんだ勤務表を追い払うように枕へ頬を押しつける。
「せっかく異世界まで来たのに、朝から仕事のこと考えてどうすんだよ。……寝よ」
今日は特別な予定もない。畑の草を少し取ろうとは思っているものの、昼前から始めたところで誰にも怒られないし、朝飯だって腹が減ってから食べればいい。
あと一時間くらい寝よう。それでも眠ければ、もう一時間追加したって構わない。誰かに勤務を交代してもらう必要もなければ、休む理由を説明する必要もないのだから、これこそ俺が求めていた生活なのだろう。
そう思って、ようやく身体から力を抜いたところだった。
「ユウー! 起きとるかー!」
窓の外から聞き慣れた大声が飛び込んできたが、俺は目を開けなかった。返事をしたら最後だということくらい、この村で暮らし始めてから嫌というほど学んでいる。
「ユウー! まだ寝とるのかー!」
まだではない。俺は今日は寝ると決めているので、昼まで起きない人間なのだ。
そんな理屈を布団の中で組み立てながら息を潜めていると、少し間を置いてから、外の老人が先ほどより大きな声を張り上げた。
「ユウ! マーサ婆さんがまた屋根に上がったぞ!」
「なんで屋根に上げたんだよ!」
考えるより先に身体が動き、勢いよく起き上がってしまった。声まで返した後になって失敗したと気づいたが、当然もう遅い。
「なんじゃ、起きとるじゃないか!」
窓の向こうから楽しそうな笑い声が聞こえてくる。俺は寝癖のついた髪を掻き回しながら深く息を吐き、もう一度布団へ倒れ込みたい衝動をどうにか押し込めた。
「……異世界に来ても、結局こうなるのかよ」
もちろん、誰も答えてくれなかった。
◇
身支度を済ませて玄関を開けると、春の終わりらしい少し冷たい空気が頬へ触れた。昼間はかなり暖かくなるようになったものの、辺境にあるこの村では朝晩になるとまだ肌寒く、家々の煙突からは細い煙が立ち上っている。
俺が暮らしているのは、村の中央から少し離れた場所に建つ、石と木を組み合わせた小さな平屋だった。最初に渡された時には床板の一部が腐り、窓もまともに閉まらず、雨が降れば屋根から水まで垂れてくる有様だったが、村人に教えてもらいながら少しずつ修理した。もっとも、途中から面倒になって魔法で直した部分も相当ある。
玄関前から村を見渡してみても、家は全部合わせて二十軒にも満たない。その中には既に誰も住んでいない建物もあるため、実際に煙突から煙が上がっている家となればさらに少なかった。
人口は三十人ほどで、若者の姿もほとんど見かけない。正確な戸籍もなければ誕生日を覚えていない老人までいるので平均年齢を計算したことはないが、二十七歳の俺が村では明らかに若者扱いされている時点で、大体の事情は察することができる。
この村で生まれた若者の多くは、成人すると町へ出ていくらしい。仕事は少なく、店らしい店もなく、娯楽もなく、そもそも大きな街道から外れているため、便利な暮らしを求めれば出ていくのも当然だった。
前の世界で言うところの限界集落に近いのだと思う。
だからこそ、俺はここを選んだ。
人が少なく、競争もなく、出世を求められることもない。仕事に追われることもなく、朝起きた瞬間から一日の業務予定を頭の中で組み立てる必要もないのだから、今の俺にはこれ以上ない場所だった。
「ユウ、こっちだ!」
俺を起こした張本人が、少し離れた家の前から手を振っている。七十四歳になるガルド爺さんで、本人はまだまだ若いと言い張っているが、俺から見れば十分に高齢者である。そのことを口にすると本気で怒るため、最近はなるべく本人の前では言わないようにしていた。
「それで、屋根って誰が上がったんだよ。爺さんが見てたなら止めてくれよ」
「止めたぞ。危ないからやめろと言ったら、余計なことをするなと怒られた」
「そこで引き下がるなよ……。というか、誰なんだ?」
「マーサ婆さん」
名前を聞いた瞬間、嫌な予感が一段階強くなった。俺はガルド爺さんの隣まで歩きながら家の屋根を見上げ、予感が的中していたことに頭を抱えたくなる。
平屋の屋根の上では、小柄な老婆が腰を曲げながら藁の束を抱えていた。
「マーサ婆ちゃん! 何してんの!」
「おお、ユウ。おはよう」
「おはようじゃなくて、なんで屋根にいるのか聞いてるんだよ!」
「昨日の雨で少し漏ったからね。朝のうちに直しておこうと思って」
本人は何がおかしいのか分からないらしく、屋根の上から平然と答えてくる。俺は思わず額へ手を当てたが、ここで怒鳴り続けて驚かせ、足を滑らせでもしたら本末転倒だった。
「だったら俺に言ってよ。別に急ぎの仕事があるわけじゃないんだから」
「自分の家くらい、自分で直せるうちは自分で直したいんだよ」
「気持ちは分かるけど、八十一歳で屋根に上がるのは駄目だって」
「まだ八十だよ! 勝手に一つ増やすんじゃないよ!」
「先月誕生日だっただろ!」
言い返した俺を見下ろしながら、マーサ婆ちゃんは少し考えるように目を細めた。やがて「ああ、そういえばそうだったかね」と呟いたため、隣にいたガルド爺さんが腹を抱えて笑い始める。
「笑ってる場合じゃないからな。落ちたら普通に大怪我する高さなんだから、爺さんは梯子を押さえてて」
「分かった、分かった。朝からよく働く若者じゃ」
「俺は昼まで寝る予定だったんだよ……」
文句を言いながらも、まず屋根の高さと傾斜を確認する。地面から三メートルほどで、勾配はそれほど急ではないものの、転落すれば骨折くらいでは済まない可能性もある。
この世界には治癒魔法が存在しているとはいえ、誰でも使えるものではない。この村には専門の治癒術師などいないし、俺自身が多少使えるからといって、怪我をしてから治せばいいという話でもなかった。
幸い、マーサ婆ちゃんは屋根の端からある程度離れた位置に座っている。今すぐ落ちそうな様子はないため、慌てて近づくより本人を落ち着かせてから動いた方がいい。
「婆ちゃん、その場で座れる? 無理にこっちへ来なくていいから」
「座るくらいならできるよ。あんたは本当に心配性だねえ」
「心配する仕事を何年もやってたから仕方ないんだよ。藁は横に置いて、俺が行くまでそこで待ってて」
「はいはい。若いくせに爺さんみたいなことを言うね」
口では面倒そうに言いながらも、マーサ婆ちゃんは藁を脇へ置いて腰を下ろしてくれた。俺はガルド爺さんに梯子を押さえてもらい、一段ずつ足場を確かめながら屋根へ上がっていく。
屋根へ出ても、すぐにマーサ婆ちゃんの腕を掴んで引っ張ることはしなかった。自分で動けるだけの力が残っているのだから、その力まで奪う必要はない。
「ここまで自分で来られそう?」
「馬鹿にするんじゃないよ。これくらいならできるさ」
「だったらやってみて。危なかったらすぐ支えるから、急がなくていいよ」
差し出した手をいつでも掴める位置へ置きながら見守ると、マーサ婆ちゃんは四つ這いに近い姿勢でゆっくり近づいてきた。動作は遅いものの、腕にも脚にもまだ十分な力があり、身体の使い方もしっかりしている。
足腰が弱っているからといって、何でも代わりにやってしまえばいいわけではない。できることまで周囲が奪い続ければ、本人が持っている力を使う機会そのものが減ってしまう。
前の世界では、そういう場面を何度も見てきた。
「そこまで来たら、左膝をもう少し前に出して。そうすれば身体を捻らなくて済むから」
「分かっとるよ。あんたは本当に細かいねえ」
「分かってるなら素直にやってくれよ。落ちてからじゃ遅いんだから」
梯子のところまで来たマーサ婆ちゃんの身体を横から支え、座った状態のまま足を一段目へ移してもらう。立たせる必要はなく、本人が自分で足を動かせるなら、その方が安全だった。
「右足は届く?」
「これくらいなら大丈夫だよ」
「じゃあ腰だけ支えるから、一段ずつな。焦らなくていいし、足が滑りそうならすぐ言って」
「こんなことで大騒ぎしていたら、年を取ってから苦労するよ」
「婆ちゃんたちを見てると、既に十分苦労してる気がする」
そんなやり取りをしながら、ゆっくり梯子を降りていく。マーサ婆ちゃんの両足が地面へ着くまで支えた後、ふらつきがないことを確認してから手を離した。
すると本人は何事もなかったように背筋を伸ばし、得意げに胸を張った。
「ほら、何ともなかっただろう?」
「何ともなかったのは結果論だって。落ちてから『やっぱり危なかったね』じゃ遅いんだから」
「細かい男だねえ。そんなことじゃ嫁さんに逃げられるよ」
「嫁さんどころか相手もいないから余計な心配しなくていいよ」
ガルド爺さんが横で吹き出し、マーサ婆ちゃんまで楽しそうに笑っている。助けに来たはずなのに、どうして俺がからかわれているのだろう。
「それで、雨漏りしてたのはどの辺?」
話を戻すと、マーサ婆ちゃんは屋根の一角を指差した。昨日の雨で奥の部屋へ少し水が垂れてきたらしく、早いうちに直しておきたかったらしい。
「分かった。じゃあ俺が直すから、今度から屋根に上がる前に呼んでよ」
「藁なら上に置いてきたよ。あれを使えばすぐ終わるさ」
「いや、今日はそっちを使わない。せっかく俺がいるんだから、こういう時くらい楽させて」
俺は右手を身体の横へ伸ばし、意識を自分の内側にある魔力へ向けた。呼びかけるように力を流すと周囲の空気が僅かに震え、何もなかった空間へ淡い光が縦長に集まっていく。
光は徐々に輪郭を作り、やがて俺の身長より少し高い巨大な本棚へ変わった。深い焦げ茶色の木材で作られた棚には、装丁も大きさも異なる十冊の本が整然と並んでいる。
赤、青、緑、茶、白、黒。それぞれに異なる紋様が刻まれ、閉じられている状態でも僅かな魔力を放っていた。
この世界へ来た時から、なぜか俺が使えるようになっていた力。
《魔導書庫》。
名前だけを聞けば、世界の秘密でも収められていそうな大仰な能力である。実際に収められている魔法も相当おかしいらしく、この世界の一般的な魔術師が何年も修行してようやく扱えるような術を、俺は魔導書を開くことで使用できた。
しかも一冊ではなく、十冊もある。
この能力を初めて町で見せた時、居合わせた魔術師には「国家級魔術師どころではない」と顔を引きつらせられた。その後も王宮へ報告すべきだとか、人類史に残る発見だとか、聞いているだけで面倒事の匂いしかしない言葉を並べられたため、俺はその町から逃げるように離れた。
もう誰かから期待される生活は御免だった。
「今日はどれを使うんだい?」
そんな俺の事情など気にする様子もなく、マーサ婆ちゃんが本棚を覗き込んでいる。世界的にはとんでもない代物らしいのに、この村の人たちは既に見慣れてしまったらしい。
「今日は土のやつ。屋根の下地ごと補強して、雨が入りそうな隙間を塞ぐよ」
「火の本じゃ駄目なのかい? あれは暖かくて好きなんだけどねえ」
「家の修理で火を使ってどうすんの。燃えたら雨漏りどころじゃないだろ」
「じゃあ夕方に風呂を沸かしておくれよ。昨日は少しぬるかったからね」
いつの間にか仕事が一つ増えている。俺は反論しようとしてから、嬉しそうなマーサ婆ちゃんの顔を見て諦めた。
「分かったよ。ただし夕方だからな。昼から俺も畑やりたいんだから」
「はいはい。それでいいよ」
本棚から茶色い革表紙の魔導書を抜き取ると、手にした瞬間、表紙に刻まれた紋様が淡く輝いた。ページを開けば複雑な魔法陣が浮かび上がり、頭の中へ術式の構造が自然と流れ込んでくる。
屋根の状態を改めて確認し、必要な場所だけへ魔力を絞る。
「《土成形》」
術式を発動すると、足元の地面から砂と細かな石が静かに浮かび上がった。それらは細い流れとなって屋根へ向かい、古くなった屋根材の下へ入り込んでいく。
家そのものは木造なので、土を大量に載せるような乱暴な真似はしない。傷んだ下地を薄く補強しながら隙間を塞ぎ、雨水が溜まりにくくなるよう傾斜も僅かに調整する。
十秒ほどで作業は終わった。
「これで大丈夫。次に雨が降った時に一応確認するけど、たぶん漏れないと思う」
「相変わらず早いねえ。だったら最初からあんたを起こせばよかったかね」
「だからそうしてくれって言ってるんだよ。俺を起こすのが悪いと思ったなら、せめて屋根以外のことしてて」
「畑はいいのかい?」
「畑はいいよ。転びそうな場所じゃなければ好きにやって」
「薪割りはどうだい?」
「座って安全にできる範囲ならいいけど、重いのは無理しないで」
「木登りは?」
「駄目に決まってるだろ。なんで八十一歳になって木へ登ろうとするんだよ」
「川へ魚を捕りに行くのは?」
「一人じゃなければいいよ。ガルド爺さんと一緒に行って」
突然名前を出されたガルド爺さんが、「俺まで見張られる側なのか」と不満そうな顔をする。俺からすれば、七十四歳で山へ薪を取りに行こうとする爺さんも十分に見張りたい側だった。
「ユウは本当に細かいのう。まだ二十七だというのに、俺たちより年寄りみたいな顔をする時があるぞ」
「細かくなる仕事だったんだよ。何か起きてからじゃ遅いって、何年も身体に叩き込まれたから」
肩を竦めながら魔導書を閉じると、マーサ婆ちゃんが突然俺の腹を指先で軽く突いた。何をしているのかと視線を落とせば、婆ちゃんは疑うように俺の顔を覗き込んでいる。
「ユウ、朝飯は食べたのかい?」
「まだだけど……なんで分かった?」
「顔を見れば分かるよ。どうせ昼まで寝るつもりで、何も用意してなかったんだろう」
「年寄りって、そういうのまで分かるようになるの?」
「年寄り扱いするんじゃないよ」
ついさっき年齢の話をしていたはずなのに、都合が悪くなるとこれである。マーサ婆ちゃんは俺の返事を待たず、自分の家へ向かって歩き始めた。
「昨日焼いたパンが余ってるから、食っていきな。豆の煮込みも残ってるよ」
「いや、家にも食べ物くらいあるから大丈夫だよ」
「一人で食うより三人で食った方がうまいだろ。それとも私の飯が嫌なのかい?」
「そういう聞き方ずるくない?」
結局、断れるわけがなかった。ガルド爺さんも当然のようについてくるが、それを見たマーサ婆ちゃんがすぐに振り返る。
「ガルド、あんたは自分の家で食べな」
「なんでユウだけなんだ。俺にも食わせてくれたっていいだろう」
「昨日、うちの干し肉を勝手に食っただろ」
「一本だけだ!」
「三本なくなってたよ。私が数え間違えたとでも言うのかい?」
二人の言い合いが始まり、俺はその後ろを歩きながら思わず笑った。
朝の村には畑の湿った土の匂いが漂い、家々の煙突から立ち上った煙が薄い青空へ溶けていく。道端の草は風に揺れ、遠くからは家畜の鳴き声が聞こえていた。
誰かが転倒していないか気にしながら廊下を歩く必要はなく、今日の勤務人数を数える必要もない。欠勤の電話が入らないことを祈る必要もなければ、出勤した瞬間から帰りたいと思うこともない。
マーサ婆ちゃんの家へ入ると、古い木の机と四脚の椅子が並んでいた。そのうち一脚だけは座面が少し高く、左右には簡単な肘掛けが取り付けられている。
以前、マーサ婆ちゃんが椅子から立ち上がる時に何度も身体を前後へ揺らしているのを見て、俺が高さを調整したものだった。最初は「こんなの年寄りみたいじゃないか」と散々文句を言われたのに、今ではその椅子以外へ座ろうとしない。
「ユウ、茶を頼むよ」
「俺がやるの? ここ婆ちゃんの家だろ」
「若いんだから働きな。朝飯を食わせてもらうんだから、それくらいやったって罰は当たらないよ」
「さっきまで年寄り扱いするなって怒ってたじゃん。こういう時だけ若者と老人を使い分けるのやめてくれない?」
「それとこれは別だよ」
あまりにも堂々と言われると、反論する気も失せる。俺は苦笑しながら台所へ向かい、竈の中へ残っていた薪を組み直した。
本来なら火打ち石を使えばいいのだが、そこまで準備したところで面倒になった。まだ消していなかった《魔導書庫》へ意識を向けると、棚に収まっていた赤い魔導書が僅かに光る。
「《微熱》」
指先から小さな火が生まれ、竈の薪へ燃え移る。かつて町の魔術師が目を剥いていた炎系統の魔導書も、この村ではすっかり湯沸かし道具になっていた。
「もう少し火を強くしとくれ。茶が冷めるじゃないか」
「分かってるよ。世界でも珍しいらしい魔法をこんな使い方してるの、たぶん俺くらいだからな」
「便利ならいいじゃないか。使わない方がもったいないよ」
あまりにも単純な答えだったが、俺は案外その考え方が気に入っている。世界にどれほど珍しい力であろうと、使う本人が何のために使うかまで他人に決められる理由はない。
鍋へ水を入れ、湯が沸くまでの間にパンを切る。マーサ婆ちゃんが昨日作ったという豆の煮込みも温め直し、三人分の器を机へ並べた。
結局ガルド爺さんも追い出されることなく席へ着き、三人で朝食を囲むことになった。
「これ、うまいな。何入ってるの?」
「豆と玉ねぎだよ。見れば分かるだろう」
「それ以外を聞いてるんだけど」
「秘密に決まってるじゃないか。全部教えたら、あんたが自分で作れるようになって食べに来なくなるだろ」
マーサ婆ちゃんは何でもないことのように言いながら、ガルド爺さんの器へ煮込みを追加している。その横顔を見ていた俺は、パンを持ったまま僅かに手を止めた。
自分で作れるようになったら来なくなるから、全部は教えない。
冗談なのだろう。それでも、その言葉が妙に胸へ残った。
前の世界では、夜勤中の休憩でコンビニのおにぎりを五分もかけずに食べたことが何度もあった。食べ始めた瞬間にコールが鳴り、半分残したままフロアへ戻って、その後は朝まで口にできなかったこともある。
誰かと一緒に椅子へ座り、くだらない話をしながら朝飯を食べる。
ただそれだけの時間が、あの頃の自分にはずいぶん遠かった。
「ユウ、どうしたんだい? 味が変だったか?」
マーサ婆ちゃんの声で我に返り、俺は首を横へ振った。心配そうにこちらを見る顔へ笑ってみせ、煮込みをもう一口食べる。
「逆だよ。うまいなって思ってた」
「それはさっきも聞いたよ」
「二回言いたくなるくらいうまいんだよ。だから、また作って」
「だったらもっと食べな。若いんだから遠慮するんじゃないよ」
返事をする前に器へ煮込みが追加され、思っていたよりずっと多い量になった。さすがに多いと言いかけたものの、嬉しそうなマーサ婆ちゃんを見ていると断る気にはなれなかった。
温かい食事を、誰かと一緒にゆっくり食べる。
この村で暮らすようになってから、それが特別なことではなくなりつつある。それでも時折、こうして胸の奥が妙に静かになる瞬間があった。
◇
朝食を終えて自宅へ戻る頃には、さすがに眠気も完全に消えていた。昼まで寝るという壮大な計画は開始前に潰れてしまったが、腹も満たされたので、それほど悪い気分ではない。
家の裏へ回ると、借りている小さな畑が朝日に照らされていた。この世界へ来るまで農作業などほとんど経験したことがなく、土の耕し方も、種を蒔く時期も、水の量も、間引きの方法も、全部この村の人たちから教えてもらったものだった。
もちろん、魔法を使えば大部分を一瞬で済ませることはできる。
実際、最初の頃には土魔法で一気に耕し、水魔法で畑全体へ水を撒いたことがある。自分では便利でいいと思っていたのだが、それを見ていたガルド爺さんから「そんなことをして何が面白い」と怒られた。
当時は何を言っているのか分からなかった。
今なら少しだけ分かる気がする。
鍬を持って土へ刃を入れ、自分の手で起こしていく。腰だけを曲げ続けないよう膝も使いながら身体を動かしていると、土の匂いや風の温度が自然と意識へ入ってくる。
十五分ほど作業したところで腰を伸ばすと、額には薄く汗が浮かんでいた。まだ続けられるとは思ったが、続けなければならない理由もない。
「疲れたし、ちょっと休むか」
木陰へ移動して腰を下ろし、水筒から水を飲む。前の世界では休憩時間になっても休憩できないことが珍しくなかったが、ここでは畑が俺を急かすことも、誰かが時計を見ながら仕事の続きを催促することもない。
今日終わらなければ、明日やればいい。
明日雨なら、その次の日でも構わない。
そんな単純なことを考えながら木の幹へ背中を預けると、枝葉の隙間から青い空が見えた。白い雲がゆっくり流れていくのを眺めているうちに、身体の力まで少しずつ抜けていく。
「こういう暇なら、いくらでも欲しいな」
何もする必要がない時間を、以前の俺はほとんど持っていなかった。
休みの日でも、次の勤務のことを考えていた。夜勤前なら夕方からの仕事を考え、夜勤明けなら眠って起きた後の身体の重さにうんざりし、連休があっても終わりが近づけば気持ちが沈んだ。
今は明日の予定すら曖昧だ。
それがこんなに心地いいとは知らなかった。
しばらく本当に何もせず空を眺めていると、村の向こうから小さな足音が聞こえてきた。顔だけをそちらへ向ければ、十歳にもならない男の子が土煙を上げながらこちらへ走ってくる。
「ユウ兄ちゃん! じいちゃんが呼んでる!」
「そんなに走ったら転ぶぞ。というか、どこの爺ちゃん?」
「うちのじいちゃん!」
「この村で『うちの爺ちゃん』だけで分かると思うなよ。爺ちゃんが多すぎるんだから」
俺が笑いながら言うと、男の子はようやく足を止め、膝へ両手をついて息を整えた。そこまで急いで来るくらいだから何かあったのかと少し心配したものの、怪我人が出たような顔ではない。
「ベル爺ちゃんだよ! 棚が動かないんだって!」
「……棚?」
「うん。でっかいやつ!」
どうやら命に関わる話ではないらしい。肩から余計な力が抜け、俺はもう一度空を見上げた。
今日は何もしない予定だったはずなのに、朝から屋根を直して朝飯を作り、今度は棚を動かすことになったらしい。
「分かったよ。行くから、先に戻って爺ちゃんに無理して動かさないよう言っといて」
「早く来てよ!」
「走らないって。俺、朝飯食いすぎて腹いっぱいなんだよ」
男の子は元気よく返事をすると、来た時と同じ勢いで走っていった。俺はその背中が転ばずに村へ戻るところまで見届けてから立ち上がり、鍬を家の壁へ立てかける。
畑は途中だが、別に問題はない。
家の前を通るついでに《魔導書庫》を呼び出しておく。棚くらいなら人力で動かせるとは思うものの、ベル爺さんのことだから「壁ごと向こうへ移したい」くらいのことを平然と言い出す可能性がある。
「俺が想像してたスローライフって、もっと何もしない生活だった気がするんだけどな」
誰に聞かせるでもなくぼやきながら村の道を歩いていると、畑仕事をしていた老婆がこちらに気づいて手を振った。
「ユウ! あとでうちにも寄っとくれ!」
「今度は何!?」
「井戸の桶が変なんだよ。引っ掛かって上がってこないんだ!」
「分かった、ベル爺さんのところが終わったら見るよ! 急ぎじゃないなら昼過ぎになるかもしれないけど!」
「いつでもいいよ。忘れなきゃそれでいい!」
了承して歩き出したところで、今度は別の家の前から老人に呼び止められた。どうやら薪が足りないらしいが、昨日から腰が痛くて斧を振るうのが辛いという。
「だったら今日は自分で割らないでよ。腰の具合もあとで見るから」
「悪いなあ。急がんから、暇な時でいいぞ」
「じゃあ夕方までには寄るよ。無理して薪割り始めたら、その斧没収するからな」
「お前は俺の母ちゃんか」
老人が笑い、俺もつられて笑った。
気がつけば、予定がどんどん増えている。
ベル爺さんの棚を見て、井戸の桶を確認して、腰の痛い爺さんのところへ寄る。夕方にはマーサ婆ちゃんの風呂を沸かす約束までしているので、自分の畑へ戻れるのはいつになるのか分からない。
それなのに、不思議と嫌ではなかった。
前の世界なら、予定外の仕事が一つ増えるだけで腹の底が重くなっていた。また仕事が増えた、なんで俺がやらなければならない、今日は何時に帰れるのだろうと、そんなことばかり考えていた気がする。
ここでは違う。
急がなくていいと言われる。
無理なら明日でいいと言われる。
疲れていれば休めと言われる。
助けた次の日には、畑で採れた野菜が玄関へ置かれていることもある。パンを多く焼いたから食べろと言われたり、一人では食べ切れないからと肉を分けてもらったりすることもあった。
誰かを助けることそのものが、嫌だったわけではないのだろう。
その考えが浮かんだところで、俺は歩みを少し緩めた。
介護の仕事が嫌いだったのかと聞かれれば、以前の俺ならすぐには答えられなかったと思う。辞めたいと思った日は何度もあったし、出勤したくないと思いながら車を走らせた朝も数え切れない。
それでも、利用者と話している時間まで全部嫌いだったわけではない。
できなかったことができるようになった人を見て嬉しかった気持ちは、嘘ではなかった。
たぶん俺が嫌だったのは、人を助けることではない。
誰かを支えるためなら、自分はいくら削れても構わないという働き方だったのかもしれない。
そこまで考えたところで、俺は小さく息を吐いた。
「……まあ、今すぐ答えを出さなくてもいいか」
ここでは、何もかも急いで結論を出す必要はない。
少なくとも、この村では。
再び歩き出して村の向こうへ目を向けると、その先には深い森が広がっていた。森を越えれば街道があり、そのさらに向こうには町や王都があるらしい。
王侯貴族がいて、冒険者がいて、魔物もいる。国同士の争いや権力争いだって、この世界のどこかでは起きているのだろう。
けれど今の俺には、そんなものよりベル爺さんの棚の方が近い。
今日やることは、棚を動かして、井戸の桶を見て、腰を痛めた爺さんの薪を少しだけ割ること。夕方にはマーサ婆ちゃんの風呂を沸かし、時間が余れば自分の畑へ戻ればいい。
それくらいで十分だった。
二十七歳で異世界へ転移し、国家級どころではないとまで言われた十冊の魔導書を手に入れた。それなのにやっていることは、辺境村で老人たちの家を回って生活の手伝いをすることばかりだった。
それでも、俺はこの暮らしが気に入っている。
英雄にならなくてもいいし、誰かから与えられた期待へ応え続ける必要もない。世界中の人間を助けるなんて大それたことを考えず、自分の手が届くところで、自分にできることをすればいい。
疲れたら休んで、腹が減ったら飯を食う。眠ければ寝ればいいし、今日できなかったことが明日でも構わないなら、明日に回せばいい。
そんな当たり前の生活を、俺は二十七歳になってようやく手に入れた。
「ユウ兄ちゃん! まだー!?」
遠くから男の子の声が響き、俺は思わず苦笑した。どうやら、のんびり歩きすぎたらしい。
「今行くから、爺ちゃんに棚触らせんなよ!」
「もう触ってる!」
「だから止めといてって言っただろ!」
返事をしながら少しだけ歩調を速めると、春の風が村の中を通り抜け、畑の土と草の匂いを運んできた。頭上では朝から鳴いていた鳥がまだ忙しそうに声を響かせ、どこかの家からは昼飯の支度でも始めたのか、薪の燃える匂いが漂ってくる。
今日もきっと、この村では世界を揺るがすような出来事など起こらない。
棚を動かし、誰かと飯を食い、畑を少し触って、頼まれた風呂を沸かす。夜になれば家へ帰り、眠くなったところで布団へ入る。
今の俺が欲しいのは、それくらいの毎日だった。
王都から遠く離れたこの小さな村で、明日も同じような朝を迎えられれば、それで十分だと思っていた。
その頃、俺の知らない場所では、まだ顔も名前も知らない一人の少女が、長い時間をかけて積み上げてきた人生を少しずつ失い始めていた。
やがて彼女がすべてを奪われ、この辺境まで追いやられることも、その出会いによって俺の静かな暮らしが少しずつ変わっていくことも、この日の俺が知るはずはなかった。




