第7話:ストレージの墓標、あるいはコインの奴隷(最終回)
西大島の夜は、相変わらず生ぬるい風が街灯の周りを回っている。18時のレイドアワーで乱数に敗北し、私たちは駅前のマクドナルドの灯りから少し離れたベンチに腰を下ろしていた。足元に広がるアスファルトは昼間の熱を完全に放出しきっておらず、座っているだけでズボンの生地を通して不快な熱が伝わってくる。だが、今の私にとって最大のストレスは、この夏の暑さではなかった。
「……クソ、まただ。もう一匹も捕まえられねえ」
私が画面を見つめたまま呟くと、隣で同じように画面をタップしていた友人が、あきれたようにこちらを見た。
「またボックス満杯かよ? お前、さっきのコミュニティ・デイの後に整理しなかったのか?」
「したよ。したに決まってるだろ」
私はスマホを友人の目の前に突き出した。画面の上部に表示されている数字は『3499 / 3500』。つまり、あと一匹しか捕まえる余裕がない。イベントが終わった帰り道、野生のコラッタをタップした瞬間、画面に非情にも表示された「ポケモンボックスがいっぱいです」というポップアップの文字が、まだ網膜の裏に焼き付いている。
今日の昼間、私たちはコミュニティ・デイに参加した。大量発生したお目当てのポケモンを追いかけ、西大島から亀戸の境界あたりまでを汗だくになりながら往復したのだ。その結果、手元には10匹もの色違いポケモンが残った。画面の中で怪しくも特別な光を放つその姿は、手に入れた瞬間こそ脳内に安っぽいドーパミンを分泌させてくれたが、イベントが終わって日常に戻った今、それは単なる「動かせない岩」へと変貌していた。
「色違い10匹は確かに豊作だけどさ、それがそのままボックスを圧迫してるんだよな」
友人が自分のスマホをポケットにしまいながら言った。
「普通のポケモンなら、一括選択してボタン一つで博士に送れる。個体値をチェックして、攻撃・防御・HPのメーターが最大に達していないゴミクズどもを容赦なく全選択してな。システムもそこは親切にできてる。色違いやイベント限定の背景付きみたいな特別なポケモンは、一括送信の対象外になる。誤操作で貴重な個体を失わないための、ありがたい安全弁だよ」
「そう、その安全弁のせいで、こいつらはボックスの底に沈殿していくんだ」
私はため息をつきながら、ボックスのスクロールバーを一番下まで引き下げた。そこには、数年前に捕まえた、個体値も低く、バトルでも使い道のない古いポケモンたちがずらりと並んでいる。2021年、2022年……日付を見るだけで、その当時の記憶が微かに蘇る。だが、ゲーム上の性能としては完全に死んでいるデータだ。
「捨てればいいだろ、そんな大昔のトサキントやコラッタなんて」
「それができないから困ってんだよ。古いポケモンほど、交換に出すと『キラポケモン』になる確率が上がる仕様があるだろ。いつか誰かと大型トレードをする時のために、人質としてキープしておかなきゃならない。それに、色違いだってそうだ。いくら個体値が最悪でも、コミュニティ・デイで10匹集まったからって、その場で博士に送るなんて勿体なくてできるかよ。いつか誰かが欲しがるかもしれない、いつか価値が出るかもしれない……そう思って残した『特別なポケモン』が、今や数百匹単位でボックスの肥やしになってる」
これこそが、このゲームがプレイヤーに課す、もう一つの巧妙な罠だった。
一括送信の対象外になる「特別」という名の称号。それはプレイヤーを保護するための機能であると同時に、彼らの貧乏性を刺激し、データを「捨てられない呪い」にかけるためのシステムだ。結果として、自由に動かせるストレージの空き容量は日を追うごとに激減していく。かつては500匹分の空きがあったはずのボックスは、今やレイド一回、あるいは野生のポケモンを数匹捕まえるたびに、毎回個体値を確認しては1匹ずつ手動で送るという、信じられないほど非効率な作業を要求する。
「なあ、もう限界だ。一匹捕まえるたびにボックスを開いて、博士に送る作業なんてやってられるか。俺たちはゲームの冒険をしてるんじゃない、ただの在庫管理の倉庫番だ」
「じゃあ、拡張するしかねえな。お前、ポケコインいくら持ってる?」
友人の言葉に、私はショップを開いた。ボックスを50枠拡張するために必要な代償は、200ポケコインだ。
「……180コイン。あと20コイン足りない」
私は天を仰いだ。このゲームにおいて、無課金でコインを手に入れる方法はただ一つ。街の各所に配置されたジムに自分のポケモンを配置し、防衛時間を稼ぐことだ。10分防衛するごとに1コイン。一日に獲得できる上限は、どれだけ多くのジムをどれだけ長い時間防衛しようとも、一律50コインと決められている。
「最悪だ。今朝目が覚めたら、西大島駅裏のジムに置いておいたハピナスが、とっくに戻ってきてやがった。通知には『ハピナスが戻ってきた!』としか表示されてねえ。アプリを開いて確認したら、回収できたのはたったの15コイン。顔も名前も知らないどこの誰とも知れない奴のせいで、あと20コインが届かないんだよ」
「顔が見えないからこそ、余計にムカつくよな。じゃあ、今からそこのジム、落としにいくか?」
友人が駅前のロータリーにあるマクドナルドの看板を指差した。そこは現在、青チームの強固なタワーになっている。防衛開始からの経過時間を見れば、すでに全員が50コインの権利を満たしている時間帯だ。しかし、そこにポケモンを置いたところで、今夜中に落とされたら明日の分の枠を消費してしまう。あるいは、誰も攻めてこなければ、明日になってもコインは1枚も手に入らない。
全ては、他人の動向と、システムが定めた上限という名の檻の中にあった。
「効率よくゲームを進めるために、ボックスを広げたい。そのボックスを広げるためのコインを得るために、俺たちは夜の西大島を徘徊して、見ず知らずの他人が守るデジタルな砦を崩さなきゃならない。そして、首尾よく200コインを貯めたとしても、拡張できるのはたったの50枠だ。次のコミュニティ・デイが来れば、また一瞬で埋まる程度の、微々たる猶予に過ぎない」
私はスマホの電源ボタンを押し、画面を暗転させた。黒いガラスの中に、街灯の光に照らされた自分の冴えない顔が映る。
仕事帰りの貴重な時間を使って、私たちは一体何を管理しているのだろうか。実体のないポケットの中のモンスターたちのために、リアルな小銭の計算をし、限られた容量をやりくりするために神経をすり減らしている。システムは、私たちの「収集癖」と「執着心」を正確に見抜き、ストレージという名の見えない檻のサイズを絶妙にコントロールしているのだ。コインを支払って檻を少しだけ広げ、またすぐに窒息しそうになりながら、次のコインを渇望する。
「行くぞ、マックのジム。あと20コインで200だ。やっと50匹分の呼吸ができる」
友人は何も言わず、ただ自分のスマホを再び起動した。私たちはベンチから立ち上がり、湿った夜気の中、青く輝くマクドナルドのジムへと足を進めた。手のひらの中のデバイスは、明日もまた、私たちの欲望の容量を冷酷に測定し続けるのだろう。
私たちは黙って歩き続ける。
ポケモンを集めるために歩き、コインを得るために歩き、レイドの時間に合わせて歩き、ルートに従って歩き、ボックスの空きを作るために歩き、届かないポケストップを眺めながら歩く。
最初は、「現実の街を歩くゲーム」だと思っていた。
だが、気づけば違っていた。
私たちが歩いていたのは、西大島の街ではない。
時間、場所、行動、感情、そのすべてをシステムによって最適化された、目には見えない巨大な迷路だった。
レイドでは乱数に振り回され、
ジムでは負けることを待ち、
ポケストップは場所によって与えられる者と与えられない者が決まり、
ボックスは「捨てられない」という心理を利用され、
足りない容量はコインで埋める。
どの出来事も別々の問題ではない。
すべて一本の糸で繋がっている。
私たちはポケモンを集めているつもりで、実際にはシステムが用意したルールの上を歩かされ、選ばされ、悩まされ、時には怒らされていた。
それでも明日になれば、またスマホを手に取る。
画面の向こうには、新しいレイドが現れ、新しいイベントが始まり、新しい色違いが追加される。
「今度こそ」という期待だけは、決して尽きない。
だから私たちは、また歩く。
西大島の湿った夜風の中を。
画面に映る地図を信じて。
その地図が、誰かの作った見えない檻だと知りながら。
『ポケモンGOの謎』
それは、ポケモンの謎ではない。
私たちが、なぜこれほど理不尽なシステムに振り回されながらも、今日もなお歩き続けてしまうのか――その謎なのである。




