12 ー世間ー (鬼乃平柊子)
柊子は6年生になっていた。
今はもう言葉も話せるようになっていたし、学校にこそ行かなかったが、この「家」で勉強はしていた。
教科書は6年生の最後の部分まで読破してしまっており、週に一度、学校に行けない子どものために派遣されてくる塾講師が目を丸くするほどテストの成績も良かった。
ただ、そうは言っても、柊子の話す言葉はまだカタコトみたいな単語が多かったが、雪野原先生は柊子の将来に希望を持ち始めていた。
これだけ頭が良ければ、一般的な「世間」での対応力に問題があっても、大学に行って研究員としてやっていくようなことならできるかもしれない。
奨学金を得られるような準備を進めておいてもいいかもね。——あるいは、家庭に引き取らない「養い親」を募集してみるのもいいかも・・・。
「『普通』じゃなくても、幸せな人生は有るものよ。」
いちばん上の「お姉さん」が施設を卒業するとき、雪野原先生がかけた言葉は、そのまま他の子にも当てはまりそうだった。
もちろん、柊子にも——。
柊子がこの施設に来てから最初に発したカタコトの言葉が、雪野原先生を呼んだ「おかあさん」という言葉だった。
それからすぐに、このコテージの他の3人の小学生もそれを使うようになった。
いちばん上の「お姉さん」だけが恥ずかしがってずっと「先生」と呼んでいたが、卒業する日になって、はにかみながらも目を潤ませて「おかあさん」と呼んだとき、雪野原先生も顔をくしゃくしゃにして涙をこぼしていた。
この人だけは、信頼していいんだ———。
そうして6年生の夏を迎えたある雨上がりの日、柊子は珍しく雪野原先生のお使いにくっついて来て、一緒に外を歩いていた。
このところ調子のいい柊子を、世の中に慣れさせるいい機会だと雪野原先生も思っていたし、柊子も雨上がりの濡れた風景がきらきらと輝くようでなんだか気分がよかったのだ。
「あ、虹。」
と柊子が、東の空にかすかに見えるそれを見つけた。
「本当だ。よく見つけたね。」
その虹は本当に淡い断片だったが、雪野原先生には、何かこの不幸を一人で背負ったような子どもに神様が架け渡してくれた未来への橋のようにも見えた。
「晩ご飯、何が食べたい?」
災いは突然やって来た。
2人の傍を水たまりの水を跳ね飛ばしながら走り抜けたバンが、すぐ先でブレーキランプを片方だけ光らせて停まったのだ。
ガラッとスライドドアが開き、4人の若い男たちが降りてきた。全員が目出し帽をかぶっている。
1人がスマホを胸の高さに持ってくると、他の3人もそれを覗き込んだ。
「な? 言った通りだろ?」
男たちはスマホと柊子をかわるがわる見比べているようだった。
「NETに有った画像をアプリで3年分『成長』させてみたんだヨぉ。」
「間違いない。あの『鬼乃平柊子』だぜぇ!」
「実物の方がカワイイじゃんよ。」
「でも、もう使用済み——。中古品だよ?」
「しかも、犯罪者♡」
「遠慮なくいこうぜ——。」
男たちが下卑た笑い声を立てる。
「あなたたち・・・」と雪野原先生が言いかけた時、1人がふっと先生に近寄ってスタンガンを押し付けた。
先生は、どっとその場に崩れ落ちた。
男の1人が柊子を羽交い締めにして、車の中に連れ込もうとした。もう1人が足を持って手伝おうとする。
柊子は手足をばたつかせたが、小学生の力では如何ともしがたい。
ただ、柊子は悲鳴をあげてはいない。悲鳴とは、救済者を期待する時の行動だ。
この男たちが何をしようとしているのか、柊子には十分過ぎるほど分かっていた。
柊子の脳裏に、あの地獄の日々と「父親」の下卑た顔がくっきりと立ち上がってきた。4つの目出し帽の頭が、全部「父親」の顔に変わった。
抜け出せないんだ——。わたしは・・・、この地獄道から———。
そういう想念が、柊子の胸を押しつぶすように立ち現れたとき、すうっと表情の消えた柊子の目が赤黒く光った。
柊子の頭の周りに、赤黒い蛇のような光が現れた。それが、ぐにっ、とうねったと思うと次の瞬間、ギュン、と回転した。
目出し帽をかぶった首が4つ、スローモーションのようにしてアスファルトの上に転がった。
首を無くした胴体が4つ、間欠泉のように真っ赤な血を吹き上げている。
柊子は頭から血をかぶって真っ赤に染まった。
路上に倒れこんだまま、かろうじて上体を片腕で支えているだけの雪野原先生がそれを見ていた。
その目の中にあったのは———
恐怖と拒絶だった。
あの時、振り返った「父親」の目の中にあったものと同じ・・・・。
だから言ったろ。
こっちに来いって——。
柊子の耳にはっきりと、あの声が聞こえた。
雪野原先生が何かを言う前に、柊子の姿は煙のようにその場からかき消えた。




