安野美幸
その日の夕方。
安野美幸が自室で本を読んでいると、玄関のインターフォンが鳴った。
両親はまだ帰っていない。
誰だろうと思いながら画面を確認し、美幸は息を止める。
門の前に立っていたのは、レンジ。
制服ではなく、黒いパーカー姿で前髪を上げている。
学校で見るよりも、どこか大人びて見えた。
「……何か用?」
美幸はインターフォン越しに尋ねる。
『安野さん。今日のいじめについて話したいんだ』
レンジは、近所にも聞こえそうな声で話している。
美幸は慌てて玄関を開け、周囲を見回した。
「なんでうちに来るの?」
「少しだけでいいから、中に入れてよ」
「本当に困るから」
「じゃあ、ここでご両親が帰ってくるのを待つよ」
美幸の表情が固まる。
美幸の両親は二人とも中学校の教師。
生活態度に厳しく、いじめを何より嫌っている。
学校でいじめに加担したと知られれば、ただでは済まない。
「……ちょっと待って」
美幸は近所の目を気にしながら、レンジを家の中へ招き入れた。
そのまま急いで自分の部屋まで案内する。
扉を閉めるなり、美幸は下を向いた。
「私は言わされただけだから。」
「何もできないし、もう来ないでほしい」
レンジは返事をせず、ポケットに手を入れたまま部屋を見回す。
机の上には参考書。
棚には家族写真が飾られている。
「お父さんとお母さん、二人とも中学校の教師なんだってね」
美幸が顔を上げた。
「どうして知ってるの?」
「少し調べたから」
学校でのレンジなら、こんな言い方はしない。
声は震えず、目も泳いでいない。
まるで別人に見える。
「今日のこと、ご両親に話しちゃおうかな」
「お願い、やめて!」
美幸はすぐに答えた。
「私は関係ないし。ただ言わされただけだから」
「だから?」
「とにかく困るの」
「でも、いじめに加担したのは本当だよね」
そう言って、レンジは美幸の顔をのぞき込む。
美幸は横を向き、何も返せない。
レンジは穏やかな表情のまま、机の前へ移動した。
「黙っていてほしい?」
「……うん」
「じゃあ、少し協力してほしいんだ」
美幸の顔が強張る。
「何をさせるの?」
「詳しい話は明日するよ」
レンジの口元に笑みが浮かんだ。
「協力するのか、しないのか。それだけ答えて」
美幸は唇を噛む。
選べる答えなど、最初から一つしかない。
「……分かった」
そのとき、玄関の扉が開いた。
「ただいま」
母親の声。
美幸の顔から血の気が引く。
「早く帰って」
レンジは慌てる様子もなく、鞄を持って部屋を出た。
玄関では、美幸の母親と鉢合わせになる。
「あら、美幸のお友達?」
母親が笑顔を向ける。
「はい。同じクラスのレンジです」
レンジは深く頭を下げた。
「遅い時間にお邪魔して、すみませんでした」
「礼儀正しい子ね」
母親は穏やかに笑う。
「またいつでも来なさい」
レンジは美幸へ視線を向けた。
「それじゃあ、また学校で」
美幸は何も言えず、小さく頷いた。
◇
翌朝。
レンジの机には、飲みかけのジュースがこぼされていた。
「悪い、手が滑った」
ショウが笑う。
レンジは何も言わず、雑巾で机を拭き始める。
その背中を、ダイチたちが面白そうに眺めていた。
美幸は少し離れた席から、レンジを横目で見る。
昨夜の姿とは、まるで違う。
背中を丸め、目を伏せ、何をされても言い返さない。
あれが演技なのだとすれば、いったい何のためなのか。
美幸には分からなかった。
◇
放課後。
美幸は学校から離れたファミレスへ呼び出された。
店の奥では、黒い服を着たレンジが先に座っている。
「誰かに見られたら困るんだけど」
美幸は周囲を気にしながら、向かいの席へ腰を下ろす。
「学校から離れてるから大丈夫だよ」
レンジはにやりと笑った。
「あの、何をすればいいの?」
レンジはテーブルの上で指を組む。
「デブゴンが安野さんを好きなの、知ってる?」
美幸は露骨に顔をしかめた。
「なんとなくは」
「付き合いたいと思う?」
美幸は小さく首を振る。
「話すくらいなら平気だけど……」
そこで一度、言葉を止めた。
「太ってる人は……あんまり」
レンジは小さく頷く。
「デブゴンにさ、好意があるように見せてほしいんだ」
「どういうこと?」
美幸が眉を寄せる。
「大したことじゃないよ。安野さんから話しかけたり、毎日、簡単なメッセージを送ってくれればいい」
「それだけでいいの?」
「うん。デブゴンから告白してくるような度胸はないから」
「……分かった」
美幸は少し迷ったあと、レンジを見つめた。
「レンジくんは、担任に言ったりしないの?」
「何を?」
「ダイチくんたちに……いじめられてること」
レンジは顎に手を当て、少し考える。
「半年前に、一度言ったよ」
美幸が黙って続きを待つ。
「その結果が、今の僕だから」
レンジはそう言って笑った。
その顔を見て、美幸は初めて気づく。
学校で見せているレンジの表情は、すべて作られたものなのだと。
そして自分はもう、その仮面の裏側へ引きずり込まれていた。




