ダイチから柚希を奪う
数か月前に話は戻る。
レンジは駅前にある居酒屋へ、アルバイトの面接に来ていた。
店内では開店前の準備が進み、厨房から食器のぶつかる音が聞こえている。
レンジは履歴書を膝の上に置き、呼ばれるのを待っていた。
金を稼ぎたいわけではない。
ダイチの彼女である柚希が、この店で働いている。
それを事前に調べていたからだ。
「お待たせ」
店長に呼ばれ、レンジは愛想のいい笑顔を作った。
数日後、採用の連絡が届いく。
レンジはすぐに店へ希望シフトを提出する。
柚希が働いている曜日と時間を選び、できる限り同じ時間帯へ名前を書いた。
偶然を装いながら、少しずつ近づくために。
柚希には、レンジがダイチと同じ学校に通っていることを伏せていた。
もし柚希がダイチに漏らせば、すべて水の泡になる。
◇
アルバイトを始めて数日後。
閉店後の店内で、二人はテーブルを拭いていた。
ほかの店員は先に上がり、厨房から片づけの音だけが聞こえている。
「あの、柚希さん」
「なに?」
レンジは手を止め、真っすぐ柚希を見た。
「僕、柚希さんのことがめっちゃタイプなんです」
あまりに突然で、柚希は目を丸くする。
「えっ?」
「付き合ってる人とかいるんですか?」
柚希は困ったように眉を寄せた。
「うん。彼氏いるから」
「そうなんだ」
「てか、悪いけど彼氏いなくても、あんたじゃ無理だから」
期待を持たせるような言い方はしなかった。
レンジは少しだけ目を伏せる。
それでも、すぐに笑顔を作った。
「分かった。気持ちを伝えたかっただけだから」
「あっそ、オッケー」
柚希は軽く流す。
「友達だったらいいかな?」
「まあ、それくらいならいいよ」
そのときは、レンジの告白を特に気に留めていなかった。
少し変な男の子に好かれた。
ただ、それだけのこと。
◇
それから、レンジは少しずつ変わっていった。
おかっぱのような前髪を上げ、髪を整える。
服装にも気を遣い、眼鏡をやめてコンタクトレンズに変えた。
「なんかさ、最近ちょっと雰囲気変わったよね」
休憩中、柚希が何気なく声をかける。
「本当に?」
「うん。前より全然いいと思う」
「柚希さんに振られたから、少しは頑張ろうと思って」
冗談めかして言うレンジに、柚希は苦笑した。
変わったのは見た目だけではない。
皆が嫌がるゴミ出しや油まみれの床掃除も、自分から引き受ける。
急に欠員が出れば、予定を変えて店へ入った。
酔った客に絡まれた店員がいれば、すぐにかけつける。
店長やほかの従業員からの評判も、日に日に良くなっていった。
最初はまったく好みではなかったはずなのに。
柚希は、気づけばレンジの姿を目で追うようになっていた。
◇
柚希の誕生日から数日後。
仕事を終えた二人は、駅まで並んで歩いていた。
レンジが鞄から小さな紙袋を取り出す。
「これ、受け取ってほしいんだ」
「何?」
「誕生日プレゼント」
柚希が中を確認する。
小さな箱には、細いネックレスが入っていた。
派手ではないが、ひと目で安物ではないと分かる。
「おお、これブランドもんじゃん」
「喜んでもらえた?」
「うん。こんなのもらうの初めて」
ダイチからも誕生日プレゼントはもらっていた。
金色のラインが入った、ヒョウ柄のジャージ。
嬉しくなかったわけではない。
ただ、目の前のネックレスとは比べるまでもなかった。
「ごめん。やっぱり受け取れないよ」
「どうして?」
「私には彼氏がいるし、レンジと付き合う気もないから」
柚希は、はっきり伝えた。
レンジは傷ついた顔を見せず、穏やかに笑う。
「付き合ってほしくて買ったんじゃないよ」
「じゃあ、なんで?」
「僕が変われたのは、柚希さんのおかげだから」
「私、何もしてないけど」
「振られたから、もっとかっこいい男になろうと思えた」
レンジはネックレスの箱を閉じ、柚希の手へ戻す。
「いつか、柚希さんみたいな子と付き合えるかもしれないから」
「お礼だと思って受け取って」
それ以上、何も求めてこない。
柚希はネックレスを握りしめたまま、レンジの横顔を見つめる。
胸の奥が、わずかに熱くなった。
そのとき初めて、自分がレンジに惹かれ始めていることに気づいた。
◇
柚希がダイチを好きになったのは、中学で目立つ存在だったからだ。
クラスの中心にいて、いつも周囲に人が集まる。
男子たちはダイチの顔色をうかがい、女子たちも楽しそうに話しかけていた。
そんな男に選ばれたことが、当時の柚希には誇らしかった。
しかし、年齢を重ねるにつれ、その姿が違って見えるようになる。
声が大きいだけ。
周りを従わせているだけ。
少しでも気に入らないことがあると、すぐに怒る。
以前なら頼もしく見えた部分が、子どもっぽく感じられた。
一方のレンジは、誰にも見られていないところで努力を続ける。
柚希の話を遮らず、最後まで聞いてくれる。
何かをしても、恩着せがましい態度を取らない。
比べるつもりがなくても、二人の違いは次第に大きくなっていった。
「またさ、彼氏と喧嘩したんだよ」
休憩時間になると、柚希はレンジへ相談するようになる。
「今日は何があったの?」
「私がメッセージ返さないだけで怒られた。自分は全然返さないくせに」
「それはきついね」
「しかも、私が謝るまでずっと無視するんだよ」
レンジはダイチを悪く言わない。
ただ柚希の話に頷き、静かに聞いた。
だからこそ、柚希はますますレンジへ頼るようになる。
レンジは柚希の好みを聞き出し、それに合わせて髪型や服装まで変えていった。
学校では相変わらず、伸びた前髪と地味な姿のまま。
しかし、バイトへ向かう前だけは髪を整え、服も着替える。
柚希の前にいるレンジは、学校にいるときとは別人のように垢抜けていた。
◇
ある日の夜。
柚希から短いメッセージが届いた。
『今、会える?』
指定された公園へ行くと、柚希はベンチに座っていた。
「またダイチくん?」
レンジが隣へ座る。
柚希の顔には、明らかに泣いていた跡があった。
「私が男友達と話しただけで、ずっとキレられた。昔はそういうのも嬉しいと思ってたんだけどね」
呆れたように笑う。
「最近はもう、ガキにしか見えない」
レンジは何も言わず、その話を聞いていた。
「私、あいつの機嫌を取るために付き合ってるのかな」
レンジがそっと柚希の肩を抱いた。
柚希は一瞬だけ驚いたように目を見開く。
それでも離れようとはせず、そのままレンジへ体を預けた。
「レンジ……」
柚希が顔を上げる。
レンジは何も言わず、ゆっくりと顔を近づけた。
唇が重なる。
ほんの短いキスだった。
離れたあとも、柚希はしばらく目を閉じたまま動かなかった。
やがて頬を赤くし、レンジの胸へもたれかかる。
「もう、あいつのことで泣くなよ。俺が守るから」
◇
その日から、柚希はダイチに隠れてレンジと会うようになった。
レンジは別れを急かさず、不満を聞きながら、柚希の気持ちが完全に離れるのを待つ。
そして頃合いを見て、静かに告げた。
「ダイチとは終わりにしたら?」
柚希はしばらく黙ったあと、静かに頷いた。




