鳴の日
日付が変わる瞬間を、じっと待った。心の中でカウントダウンする。
(五、四、三、二、一……)
『ヒナちゃんのいと』の配信日を迎えた。
小松原さんとうなずき合う。
「いい? 開くよ」
顔を寄せ合い、僕たちはスマホを覗きこんだ。アプリを起動させ、追加作品の中からタイトルを探した。
蒼介の話から、小松原さんがずっと探し求めていた絵本に辿り着いた。絶版作品が読めるというブックアプリの、配信予定作品のページにタイトルが並んでいたのだ。
『ヒナちゃんのいと』の作者は、亡くなった小松原さんの両親だ。彼女の所有する絵本は最後のページが抜けているため、結末がわからない。生前は諍いが多く、ちっとも幸せそうに見えなかったという両親が、どんな考えで物語を残したのか。
結末まで読めば、物語にこめられた両親の思いを理解できると、小松原さんは信じていた。
配信日までの一週間は、互いにそわそわと過ごした。小松原さんはもちろんだが、僕のほうにも落ち着かない理由があった。
物語の結末を知れたときには、僕も一歩踏み出してみようと密かに決めていた。
「一緒に読んでほしい」
小松原さんからそう頼まれたのは、昨日のことだった。
「いいの? 僕が一緒で。ひとりでじっくり読みたいんじゃ……」
僕の問いかけに、小松原さんは思いつめた顔で答えた。
「ううん、的場くんに傍にいてほしい。ひとりで読むのは、ちょっと心細いから」
『ヒナちゃんのいと』では、やるせない出来事が描かれている。小松原さんは物語がこのまま希望のない結末を迎えると想像し、胸を痛めていた。例え救いようのない物語だったとしても、それを描くに至った両親の思いと向き合う。そう覚悟しても尚、結末を知るのを恐れていた。
更新日を迎える瞬間、僕たちはともにいることを約束した。前日の夜に、小松原さんは僕の部屋を訪ねてきた。零時を迎えるまで、お互い言葉少なに過ごした。
タイトルを発見し、タップする。実物より若干色味が明るくなった表紙が、画面に出てくる。
深呼吸してから、最初のページを開いた。
知りたいのは結末だ。だから一気にページを飛ばすこともできた。だけど僕たちは、最初から物語を辿った。心の準備をするみたいに、ゆっくりと、そこに描かれた少女の物語を読んだ。
いよいよ、最後のページまで来た。
自分の指先から伸びる糸。糸の先は何とつながっているのか。それを確かめるため旅に出たヒナちゃんは、糸の先で出会った人々を手助けし、自分の持ち物を分け与える。
そうして色々なものを失っていったヒナちゃんは、最後にひとり寂しく、路上に倒れる。
僕と小松原さんが読んでいたのは、ここまでだ。果たしてヒナちゃんはどうなってしまうのか。
ついに、最後のページを開く。
画面に、鮮やかな色が広がった。陰鬱な場面から一転、ヒナちゃんにはやわらかな光が降り注ぎ、ページいっぱいに色とりどりの花びらが散っている。
倒れたヒナちゃんの元には、以前に彼女から親切を受けた人々が大勢駆け寄っていた。ヒナちゃんと同じく糸を辿り、彼女を助けるためにやって来たのだ。
寒さに震えていたところ、ヒナちゃんから上着を譲られた老人は、血色をおびた手でヒナちゃんの手をさすってやる。
土砂に埋まっていたところをヒナちゃんに助けられた若者は、たくましく鍛えあげられた腕でヒナちゃんを抱き起こす。
空腹に倒れ、衰弱していた子どもは、陽気な声でヒナちゃんに呼びかける。
ある女性はヒナちゃんの体に毛布をかけ、ある男性はヒナちゃんの口に温かいスープを運ぶ。
こうして多くの人に助けられ、ヒナちゃんは自分がひとりぼっちでないことを知る。ヒナちゃんの糸の先は、彼女を思う人々へとつながっていたのだった。
「ううっ……」
小松原さんが息を洩らした。
「ふぅっ……」
その目から、ぽたりと涙がこぼれ落ちた。
「ハッピーエンドだった」
僕は「うん」と答え、すぐに「いい結末だったね」と続けようとしたけれど、息がつまって声が出なかった。
僕たちはしばらくの間互いに沈黙し、鼻をすすっていた。
深く息を吐いた後で、小松原さんが口を開いた。
「思い出したの」
どうして今まで忘れていたんだろう。小松原さんは囁くように続けた。
「人と人は、見えない糸でつながっているって」
聞いた瞬間、ピンときた。絵本のあとがきとして、小松原さんの両親が残した言葉だ。
「わたし、お父さんとお母さんから繰り返しこの言葉を聞いてたんだ。想乃、忘れないでねって。糸の先は、あなたのことを大切に思う人とつながっているんだよ。あなたはこれからたくさんの人と出会う。その中に必ず、見えない糸でつながっている人がいる。あなたを大切に思う人がいるって」
そう言って、小松原さんは両手で顔を覆った。
僕は思った。きっと彼女の両親は、娘の人生に幸せな出会いが多く訪れることを願って、この物語を描いたんじゃないか。
小松原さんは両親から、深い愛情を注がれていたのだ。
「たぶん、ご両親は幸せだったと思うよ」
僕の頭の中に、あるイメージが浮かぶ。
わがままを言った娘に呆れながらも、揃って幼稚園まで迎えに行く夫婦。家を出たときは無言だったが、途中から少しずつ言葉を交わすようになり、気が付くとまた以前のように打ち解けている。次の休みには家族揃って出かけるもいいだろうと、二人は笑い会う。おっと話はこれくらいにして、先を急がなければ。可愛い娘が迎えを待っている。夫婦の心は幸福に満たされている。
「でなければ、こんなハッピーエンドは描けないよ」
僕は言った。
小松原さんは静かに瞼を閉じ、うなずいた。
「お茶でも淹れようか」
立ち上がり、キッチンに向かった。背中から、小さく嗚咽が聞こえた。
午前一時を過ぎて、小松原さんは僕の敷いた布団にもぐりこんだ。
「ごめんね、迷惑かけて。朝になったらすぐ帰るね」
「気にしないで。こんな時間に外を出歩くほうが危ないし」
部屋の電気を消した後で、やはり思い直して言った。
「僕、ダイニングで寝るよ」
「どうして?」
「だって同じ部屋でなんて、小松原さんゆっくり寝られないだろう」
僕の部屋は狭い。布団を敷くとなると、どうしてもベッドの真横になってしまう。
「的場くんこそ、ダイニングで眠れるの?」
「授業中居眠りするの、得意なんだよね」
「ダイニングでも座ったまま眠るってことでしょ? いいよ気を遣わないで。わたし、的場くんが隣で寝てても熟睡できる自信あるよ」
「だけど……」
「それじゃあわたしがダイニングで寝るよ」
「いや、だめだよそんな」
「じゃあ的場くんもだめ。ちゃんと横になって寝ないと、怖い夢を見るよ」
それとも、二人してダイニングで寝る? そう言われて、僕はしぶしぶベッドに横になった。目を閉じ、眠ろうとした。だけどどうしても小松原さんの気配に引かれ、寝つけない。
「ねえ」
しばらくすると、小松原さんの囁き声が聞こえた。
「的場くん、寝ちゃった?」
「起きてる」
「もしかして、眠れない?」
「大丈夫、もうすぐ寝るよ」
「そう」
小松原さんの動く気配がした。
「今度ね、叔父さんのところに行ってみようと思うの」
僕は寝返りを打って、小松原さんのほうへ体を向けた。
「どうして?」
叔父の家には、美南さんがいる。小松原さんにとって居心地のいい場所ではないはずだ。
「両親が亡くなって、わたしを引き取ることになったときから、たぶん絵本に関する権利とか難しいことは全部、叔父さんが引き継いだと思うから。今回アプリで読めるようになったのも、叔父さんが関わってるのかなって」
「そうか」
「どうして今になって、『ヒナちゃんのいと』を世間に出してくれたのか。叔父さんから話を聞いてみたいの」
僕はもう一度寝返りを打ち、天井を見上げた。
「途中まで一緒に行こうか? 叔父さんち」
「ううん、平気。ひとりで行けるよ」
「そっか」
「うん」
そこで会話は途切れた。長い沈黙が続き、小松原さんはもう眠ってしまったのだろうと思った。僕もそろそろ寝よう。瞼を閉じかけたとき、小松原さんの声が聞こえた。
「的場くん」
「ん?」
「手、つないで寝てもいい?」
彼女の息遣いが、薄暗い室内に濃く漂う。僕はわずかな逡巡の末、布団から片手を出した。
ありがと。小松原さんは小さく言い、遠慮がちの僕の指先に触れた。ベッドと床、高さが違うぶん、僕の手は下に引っ張られるかたちとなる。それを、心地いい重みだと思った。僕は今度こそ瞼を閉じた。
眠りに落ちる寸前、思い出した。いつだったか、聞いたことがある。手をつないで眠ると、相手と夢を共有できるという。今夜、僕と小松原さんは同じ夢を見るのだろうか。
その夜見た夢の中で、小松原さんは苦しそうに吐いていた。体を折り、苦痛に喘ぎながら、何度も何度も口から黒いものを吐きだしていた。




