ほどける日(1)
八月最後の夜、家族に会いに行った。
小松原さんの決意を知ったときから、考えていたことだった。
両親の思いと向き合うと決め、絵本の最後のページをめくった彼女のように、僕も自分の家族と、真正面からぶつかっていこう。
五か月ぶりに足を踏み入れた家は、出て行った頃とさほど変わっていなかった。
「お父さん、もうすぐ帰って来るって」
キッチンでは祥子さんが酢飯を冷ましている。
「うん」
僕はダイニングテーブルにつきながら、きょろきょろと視線を彷徨わせた。
「兄ちゃん、ごはんまだみたいだから、こっちでゲームしてようよ」
蒼介に手招きされ、ソファに移動する。
「あれ? コントローラー、一つしかないじゃん」
「あ、本当だ」
「どこやった?」
「わかんない。掃除のとき、お母さんが片づけちゃったのかな」
蒼介は立ち上がり、リビングの隅の物入れへと向かった。
「お母さーん、もう一個のコントローラーって、この中ー?」
「え、やだ待って待って」
祥子さんはなぜだか焦った顔で、キッチンから飛び出て来た。
「待って蒼介、そこ開けないで」
「えー? 何ー?」
蒼介は祥子さんが駆け寄るより早く、物入れを開けた。瞬間、中から信じられない量の荷物がこぼれ落ちた。
通販雑誌、お菓子の空き缶、畳んだ紙袋、掃除道具、洗剤の詰め替え容器、手芸用品、テニスのラケット、フラフープ、その他運動に使うらしい器具などが、リビングの床に広がった。
「うわー」蒼介が言い、「ああ、もう……」と祥子さんは膝から崩れ落ちた。
「だから開けないでって言ったのに」
僕はびっくりして、広がった荷物と祥子さんとを見比べた。
祥子さんは僕の視線に気づき、照れくさそうに眉のあたりを掻いた。
「やっぱり普段から片づけしとかないとだめだねえ……」
祥子さんは立ち上がり、てきぱきとその場を片づけはじめた。僕も手伝うため、傍に寄った。散らばった雑誌を拾い集め、重ねていく。
「もうこれを見られちゃったから、隠す必要もないよね。本当はわたし、掃除とか片づけとか大の苦手なの」
細々とした手芸用品をかき集めながら、祥子さんは観念したように言った。
「今日も綾人くんが帰って来るから、リビング片づけようとしたのよ。でもうまくいかなくて、結局なんでもかんでもここに押しこんで、片づけできてるように見せかけたってわけ」
「え? でも前は――」
掃除や片づけに限らず、祥子さんは家事を完璧にこなしていたはずだ。苦手なようにはまったく見えなかった。
「前はね、わたしなりに頑張ってたのよ」
祥子さんが肩をすくめる。
「今日は片づいてるけど、いつもは家中ごちゃごちゃしてるんだよ。お母さん忙しいから」
蒼介が茶化すように言った。
「忙しいって?」
「ああ、うん、色々とね。パートとか習い事とかボランティアとか」
一緒に暮らしていた頃と今の祥子さんでは、まったく印象が違う。古本まつりで再会したときにも感じたことだった。以前の祥子さんは、家に閉じこもってばかりいた。
外に出るようになって、文字どおり世界が開けたのだろうか。
あのね、と言いかけて、祥子さんは思い出したように蒼介へ顔を向けた。
「お父さんそろそろ駅着く頃だと思うから、お迎え行ってあげて。それで帰りに二人でアイス買って来てくれる?」
「アイス? やったあ」
蒼介は飛び上がり、ばたばたと家を出て行った。
二人きりになると、
「ちょっと話そうか」
祥子さんはダイニングテーブルを示した。きっと蒼介がいるとできない話なのだろう。僕は身構えた。
「綾人くんに言ってないことがあるの」
テーブルに着くと、祥子さんはそう切り出した。
「お父さん――正路さんには、わたしのほうから交際を迫ったんだ」
祥子さんは静かに語った。
「正路さんは最初、全然わたしのことを相手にしてくれなかった。奥さん――綾人くんのお母さんを忘れられないんだって。それでも粘り続けたら、はっきり言われたの。例え君と交際したとしても、結婚まではできない。息子を動揺させるかもしれないから、自分はこれから先、誰とも再婚しないつもりだってね。それから正路さん、わたしに説教したの。結婚の約束もできないような不誠実な男のことなんか忘れて、もっといい人を見つけなさいって」
とても信じられない話だった。
まず、父さんが女性から迫られている場面を想像できない。
こんな話、息子の僕が聞いていいのだろうか。
夫婦間の秘密の話なんじゃないだろうか。
後ろめたさを感じながら、僕は祥子さんの話に耳を傾け続けた。
「それでもわたし、どうしても正路さんを諦めきれなくて、もし結婚してくれたら、家のこと全部やってあげるよって言ったの。そうしたら正路さん、あっさり結婚を承諾してくれたわ。本当、びっくりしちゃった。今まで頑として首を縦に振らなかったくせにね、目の色変えて言うのよ。結婚後は家にいてくれるね? 本当に家事を全部任せていいんだね? って。もちろんわたしはすぐにうなずいた。それで結婚が決まったの」
「そんな、祥子さんはそれで良かったの?」
話を聞いた印象では、父さんは労働力が欲しくて祥子さんと結婚したみたいだ。
「いいも何も、わたしから提案したことだし。あの瞬間、正路さんの真剣な顔を見て心に決めたの。この人と家族になれるなら、苦手な家事も克服してみせようって」
「家事、苦手だったの?」
「今もそうよ。苦手だし、大嫌い。特に掃除と片づけね。わたし本当は家にいるより、外に出たいタイプなのよ」
「そう、だったんだ……」
祥子さんの変化に納得がいった。
今まで僕が見ていたのは、父さんとの約束を守るため、自分を抑え続けた祥子さんだった。外出を控え、苦手な家事を粛々とこなしていた。
きっと今目の前にいるのが、本当の祥子さんなのだろう。活動的でよく笑いよく喋り、家事が苦手でちらかし上手の祥子さん。
「わたしのこと、うまいことやってお父さんに取り入った、とか思ってる?」
「いいえ」
「幻滅した?」
「全然」
僕は正直に言った。
「今の祥子さんのほうが、なんだか話しやすい」
「そっか、ありがとう」
祥子さんは微笑んだ。
「祥子さんに無理をさせた原因は、僕だね。父さんは僕が家のことをするのを良く思っていないみたいだから」
僕が余計なことをしないように、父さんは祥子さんとの結婚を決めた。祥子さんがすべての家事を引き受け、家を守ると言ったから。祥子さんがいれば、僕が家事をしなくなると考えたのだ。
そして祥子さんは苦手な家事をこなし続けた。好きな外出も控え、家にこもり、僕の嫌がらせにも耐え忍んだ。
要求したのは父さん。父さんにそれを要求させてしまったのは、僕。
突き詰めて考えれば、祥子さんが本来の自分を押し殺した原因は、僕にあった。
「僕さえいなければ、父さんは最初から祥子さんを家に縛りつけたりなんかしなかった」
「ええ? 別にわたし家に縛りつけられてるなんて思ってないよ」
「家にこもりっきりでいることが、縛られていないと?」
「さっき言ったじゃない。わたしから正路さんに提案したのよ。わたしはただ自分がしたいようにしていただけ。正路さんは一度だってわたしに無理強いなんかしてない」
「それでも、僕のせいだ」
「違うの綾人くん。あなたのお父さんは――」
「ただいまー!」
祥子さんが言い終えぬうちに、玄関で蒼介の声がした。
「アイス買って来たよー!」
「続きは後でね」
祥子さんは僕に耳打ちすると、スリッパをパタパタいわせて玄関まで駆けていく。
「おかえりー」
父さんと祥子さんのやりとりが、小さく聞こえてきた。「綾人は?」「リビングにいるわよ」「あれ、用意してやったか?」「西瓜でしょ? もちろんよ。綾人くん好きだもんね、西瓜」
あなたのお父さんは――
祥子さんは、一体どんな言葉を続けるつもりだったのだろう。




