50話
領境を越えたのは、それから三日後だった。
石を積んだだけの標が道の脇に立っていて、そこから先がヴァルトハイム領のようだ。標の文字は風で削れて、半分ほどしか読めなかった。
景色は、越える前から変わりはじめていた。
畑そのものは、よく育っている。麦の丈も実の付きも、王都の近郊で見たものと変わらない。土が痩せているわけではないらしい。
違うのは、畑の周りだった。
どの区画にも柵が回してあり、その角に物見の櫓が立っている。人が上がっているものもあった。道沿いには詰所が置かれ、革鎧の男が二人ずつ詰めている。畑へ出ている者の何人かは、腰に鉈より長いものを提げていた。
そして、腹の底が動いていた。
瘴気の濃さが、皮膚を撫でていく。メリディアの薄さに慣れた身体には、はっきりと分かる差だった。歩いているだけで、勝手に流れ込んでくる。勝手に浄める身体が、知らないうちに器へ溜め込んでいる。二日で、底のほうが目に見えて厚くなっていた。
樹海が近い。
この土地の人間は、生まれてからずっとこの濃さの中で暮らしている。そして、その濃さのぶんだけ魔物が湧き、石が溜まり、司祭が潰れる。
領都に着いたのは、翌日の昼だった。
都と呼ぶには小さい。それでも城壁だけは高かった。
石を積み上げた壁が、町の規模には不釣り合いなほど立ち上がっている。下の三分の一と、その上とで石の色が違った。積み増したのだ。それも、かなり昔に。
門は、北以外の三方にあった。北には、門があった跡だけが残っている。塞いだ部分の石は、周りより新しかった。
扉はどれも分厚く、閂を受ける金具が二重についている。
この壁を高くしなければならなかった日が、いつかあったのだろう。
俺は、そこを一度だけ見上げて、門をくぐった。
城というより、大きめの館が丘の上に建っている。装飾らしいものが何もない。柱も窓も、必要な数だけが必要な場所に置かれている。守るための造りだ。
石を積んだ道は中央の一本だけで、あとは土のままだ。
教会は、その道の突き当たりにあった。
王都の大聖堂を三分の一にして、彫刻を全部削ぎ落としたような建物だった。塔は一本。扉は開いていて、誰でも入れるらしい。
中は薄暗かった。
柱が並んでいる。六本。輪を描いて立っていて、その一本ずつの前に像がある。ただし、二体は台座だけになっていた。倒れたまま片づけられたのか、直す金がなかったのか。残っている四体も、傷の継ぎ目が粗い。王都のものより、はるかに雑な仕事だった。
俺は、輪の真ん中を見た。
柱が立っている。
他より細く、そのぶん高い。てっぺんは折れて、断面が剥き出しのままだった。
王都と同じだ。総本山だけに継がれていて、あとはどこも、折れたまま置かれている。
足元の敷石には、線が入っていた。目で追うと柱の根元で消える。組み方は同じ。ただ寸法が違う。王都より小さく、総本山よりはるかに小さい。
ここでは、盤はいくつ応えるのか。
十七より少ないだろう。もっと少ないかもしれない。ここで歌を通せば分かるが、盤を出す場所ではなかった。
祭壇の脇に、木箱が積まれている。
鉛は張っていない。ただの木箱だ。蓋の隙間から、腹の底に触れてくるものがある。中身は数えるまでもなかった。
箱の数を数えて、中身の数を見当づけた。
千に届くかどうか、というところだ。
「見学ですか?」
声がした。振り返ると、白い衣の男が立っていた。六十近い。痩せているというより、削れている。二年前に王都の大聖堂で膝をついた司祭と、同じ顔貌をしていた。
「はい」
「珍しい。ここへ入る若い方は、めったにいません」
司祭は箱のほうを見て、それから俺を見た。何かを言い訳するような顔だった。
「散らかっていて、申し訳ありません。今年は、まだ運び出せていないのです」
「浄めきれないんですか?」
「浄めてはいます。町の魔力持ちが交代で奉納に来てくれますから、日に十ほどは片づきます」
日に十。奉納あってのその数だ。それでも足りていない。この土地の湧き方なら、討たれる石はその倍は出る。
「残ったぶんは、どうされているんですか?」
「年に一度、王都へ送っていました。……去年から、それが止まっています」
「止まった?」
「あちらも手一杯だそうです。今は受けられないと」
司祭は木箱の山を見た。責めるでも嘆くでもない、ただ困っている目だった。
「司祭は、何人いらっしゃるんですか?」
「二人です。もう一人は、いま休んでおります」
それきり、その人は何も言わなかった。俺も訊かなかった。
礼を言って外へ出ると、日が傾きかけていた。
探索者ギルドは、教会の手前の角にあった。
掲示板は札で埋まっていた。討伐、討伐、討伐。犬型、猪型、鳥型。数が多いのではなく、同じ札が何日も残っている。受ける人間が足りていない。
俺は八等級の札を出して、いくつか受けた。財布はもう空に近い。稼がなければならない。
受付の若い女が札を書き写しながら、独り言のように言った。
「西から来られたんですか?」
「はい」
「街道で何か見ませんでした? ……お嬢様の一行が、まだ戻らないんです」
「お嬢様? どちらの方ですか」
そう訊きながら、頭には先日の一行が浮かんでいた。
「ご領主のお嬢様です。石を運んでいかれました、聖王国まで。ご自分で行くと言って聞かなくて」
「そんな方が行くようなことですか?」
「代理を立てれば済む話なんですけど。あの方は自分で見てくるとおっしゃって、旦那様を説き伏せて、視察も兼ねるという形にして、押し切られたそうです」
女は筆を置いて、少し笑った。呆れているというより、自慢しているような顔だった。
「うちは毎年、王都へ送ってきました。それが去年、今年と断られて。あちらも手一杯だそうで。……それで今年から、聖王国まで運ぶことになったんです。距離が三倍ですよ。納める金も、道中の費えも、比べものになりません」
「それでも、送るんですね」
「送らなければ溜まる一方ですから。うちは魔物が多いので、討つ金と、奉納の日当と、送る金と、出ていくばかりで」
女は帳面を閉じた。
「聖王国への道は、石運びでは通ったことがないんです。だからあの方は、責任をもって自分が届けると。石も金も大事だからと」
俺は札を受け取って、外へ出た。
あの荷馬車三台は、この土地が初めて通る道を行くところだった。
そして街道で盗賊に出くわして、あんなことになっていた。




