49話
商会の荷に付いて国境まで戻るのに、十二日かかった。
ノルドグレンから石を運んでくる商会は、帰りの荷が軽い。空の箱と、代価の受取証と、聖都で仕入れた蝋燭や布。護衛は形ばかりで、日当も安かった。それでも聖都で足止めされているよりはましだったし、何より東へ向かう足になった。
国境の橋で商会と別れて、そこからは一人で歩いた。
街道を東へ。行きに通った道を、逆にたどっていく。ミュールバッハの水車を過ぎ、丘陵を越え、切通しを抜けた。盗賊は出なかった。同じ場所で二度は出ないのだろう。
王都へは寄らないつもりだった。あそこの堂はもう見た。折れた柱も、十七枚も、俺の頭の中にある。
行き先は東だ。
樹海に接した辺境。帳面に名前のなかった領。受肉型が逃げ込んだ方角。
その手前で、煙を見た。
街道の先、林の切れ目のあたりから、細い煙が上がっている。炊事の煙にしては、色も量も違う。俺は歩調を変えずに近づいた。
荷馬車が三台、道を塞ぐ形で止まっていた。
一台は横倒しになって、車輪が空を向いている。積み荷が散らばっていた。鉛を張った箱。見覚えのある形だ。聖都の受け入れ所で、俺が何百と数えたのと同じ箱だった。
人が二十人ばかり、道の上で向かい合っている。
半分は革鎧に短い槍。もう半分は、まともな装備の護衛だった。ただし、そのうち三人が倒れている。生きているかどうかは、ここからでは分からない。
盗賊のほうが多い。二十人近くいる。切通しで出た連中の倍だ。
俺は道の脇の木立に入って、状況を見た。
金がある荷だと分かって襲ったのだろう。石を納めに行く一行なら、代価の金貨を持っている。石そのものは売れないが、金は手に入る。
護衛の頭らしい男が、剣を下ろしていた。
その視線の先で、若い娘が一人、腕を後ろにねじり上げられている。喉元に刃が当たっていた。
旅装だが、布が違う。仕立ても違う。この一行の主なのだろう。
「金貨を出せ!」
刃を当てている男が言った。
「箱の中身は要らん。売れんからな。荷の中に、納める分の金があるはずだ。出せば、この娘は返す」
護衛の頭は動かない。動けないのだろう。人質を取られた側に、選べる手はない。
俺は木立を出て、街道へ足を踏み出した。
二十人と、その反対側の十数人が、一斉にこちらを向いた。
「なんだ、小僧?」
刃を持った男が、俺を見て言った。値踏みする目だった。十五の子供が一人。数に入れる必要のない何かとして、そいつは俺を見ている。
「近づくな! 近づけば、この娘が死ぬぞ」
「人質が死んでもいいのか、と訊いているのか?」
俺は歩みを止めずに言った。
「その人が殺されたとして、依頼を受けたわけでもない俺に、何の関係がある?」
男の顔が、わずかに動いた。
道の空気が変わったのが分かった。護衛も、盗賊も、俺の言葉を聞いている。娘の目が、こちらを向いた。
「一つ訊いておきたいんだが」
俺は足を止めた。刃までは、まだ二十歩ある。
「殺せるのか?」
「……なに?」
「その人が死んだら、お前たちの盾はなくなる。人質がいるから、そこの護衛は動けない。いなくなれば動く。……その人が死んだ瞬間に、お前たちはそのまま死ぬ。それでも、殺せるのか?」
「ガキのくせに、脅しのつもりか?」
「脅し? さっきも言ったろう。俺は構わない」
声を張らずに言った。張るより、そのほうが通ることを知っている。
「俺には関係がない。困るのはお前たちだ」
刃が、一度浮いた。
迷ったのだ。人質というのは、殺した瞬間に価値がなくなる。そんなことは分かりきっているのに、押しつけられて考えると手が止まる。
「……ふざけるな」
男の腕に力が入った。
刃が喉へ寄る。押し切るつもりだ。頭に血が上った人間は、勘定を捨てる。そこは読み違えていた。
俺は右手を上げた。
刃と喉のあいだ。指先ほどの幅で、そこに一枚を置く。
久しぶりだった。百六十年ぶりだ。
刃が、見えないものに当たって止まった。
押し込もうとした腕が、そこから先へ行かない。骨に当たったような手応えだったはずだ。刃先は娘の喉に触れる寸前で、宙に引っかかったまま動かなかった。
男が、驚愕を含んだ表情で手元を見た。
その一瞬で足りた。
骨から神経まで力を通して、二十歩を潰す。刃を持った腕を掴んで外へ捻り、肘を極めて落とした。悲鳴が上がるより先に、娘の襟を掴んで後ろへ引く。転びかけたのを支えて、そのまま護衛の側へ押しやった。
「動け!」
護衛の頭に、それだけ言った。
あとは早かった。人質が抜けた瞬間、十数人の護衛が前へ出る。数では負けていても、装備と訓練が違う。盗賊は三十を数えるほどで崩れて、逃げる者は逃げ、残った者は地面に伏せられた。
俺は道の端に寄って、それを眺めていた。
混ざる理由がない。頼まれてもいないし、金ももらっていない。
護衛の頭が、盗賊を縛り終えてから、大股でこちらへ歩いてきた。
「貴様、何のつもりだ!」
胸倉を掴まれた。
「お嬢様に何かあったらどうするつもりだった! あんな挑発をして、あの場で首を掻かれていたら——」
言葉が途切れた。俺が抵抗も弁解もしなかったからだろう。
傷つけさせるつもりは、一切なかった。刃が動けば止められる自信もあった。
だが、この人はそれを知らない。俺に何ができるかなど、知りようがない。この人の目には、通りすがりの子供が人質の前で挑発をして、運よく助かったようにしか映っていないはずだ。
「……すみません」
「すみませんで済むか。もし——」
「やめなさい」
声がした。
護衛の頭の手が止まる。振り返ると、娘が立っていた。震える手を胸元に抱えている。血の気が引いているのに、背筋だけは伸びていた。
「その方は、わたくしを助けてくださったのです」
「ですが、お嬢様——」
「ヨアヒム」
名を呼ばれただけで、掴んでいた手が離れた。
俺は襟を直して、街道へ戻ろうとした。
「お待ちください」
「命を救っていただき、ありがとうございます。わたくしは——」
名乗りはじめるのが分かった。
名乗られれば、こちらも名乗ることになる。
「いえ、急ぎますので。これで」
「ヒルデガルト・フォン・ヴァルトハイムと申します」
風の音が、遠くなった。
ヴァルトハイム。
帳面に名前のなかった領。樹海に接した辺境。いまの目的地。そして、百六十年前に俺の首を落とした人の家。
俺は、その顔を見た。
似ていない。目の色も、輪郭も、背丈も違う。あの人はもっと大きくて、もっと荒い手をしていた。この娘は十六か十七で、指が細く、育ちの良さが立ち方に出ている。
似ていないのに、初めて会った気がしなかった。
「……お名前を、伺っても?」
「通りすがりです」
俺はそう言って、背を向けた。
止められなかった。ヒルデガルトは何か言いかけて、それきり黙ったらしい。足音は追ってこなかった。
街道を東へ歩きながら、俺は自分の右手を見た。
指先ほどの盾。あんな小さなものを、あんなに正確に置けたことは、百六十年前には一度もなかった。あのころよりも、扱えるようになっている。
ただ、そんなことよりも。
ヒルデガルト、という名が、頭の中で繰り返し響いていた。




