49話
テオドールは、三十二年前の話をした。
当時、彼はまだ記録係の下働きだった。書庫の奥から出てきた古い束を整理するよう命じられ、中身を読んだ。読んで、上へ報告した。
束は、百二十年ほど前の研究記録だったという。
「中央の柱を継いだ人物のものだ。名は残っていない。記録から消されている」
「なぜ消すんですか」
「あの人物が、何をしようとしていたかによる」
テオドールは指を組んだ。
「いまの儀式で、石はどうなる」
「浄まりません。石から黒いものが出て、上へ吸われていくだけです」
「そうだ。よそへ送っているだけだ」
テオドールは棚の奥から一冊を抜いてきた。古い綴じ本だった。開いて、指で行を追う。
「四百年前の書き付けには、こうある。歌が満ちるとき、白きものが柱を伝って昇り、天へ捧げられた、と」
俺は、その一行を二度読んだ。
白いもの。黒いものではない。
「石のことは、どこにも書いておらん」
テオドールは本を閉じた。
「当時、この堂で石を浄めてはいなかった。門を開いて、人が納めたものを捧げていた。返ってくるのが、実りであり、災いの少なさだった」
捧げていたのだ。あちらは、差し出していた。
いまは黒いまま、押しつけているだけだ。同じ門を使って、同じ歌を歌って、送っているものが逆になっている。
「石を浄めるようになったのは、いつからですか?」
「百六十年ほど前だ。急に石が増えた。瘴気の害も表に出はじめた。教会が引き受けるしかなくなって、それが日々の仕事になった」
「……あの柱が壊れたのは?」
テオドールは、少しだけ間を置いた。
「それも百六十年ほど前からだ、と記録にある」
俺は膝の上で手を組んだ。組まないと、指が動きそうだった。
同じ年だ。柱が壊れ、石が増え、教会の仕事が変わった。三つとも同じ年から始まっている。
その年に何があったのかを、この部屋で知っているのは俺だけだった。
「柱を継いだ人物は、これを戻そうとした。捧げるほうへ、堂の中で終わらせる形に。……それが、消された理由だ」
「戻そうとしただけで、ですか?」
「送り届けるという行為が、いまの信仰の形そのものだからだ。頼らずに済む方法を探すのは、頼る必要がないと言うのに等しい」
「上は、束を焼けと言った」
「焼かなかったのですか?」
「焼いたことにした。屑籠へ入れて、屑屋に持っていかせた」
テオドールは自分の手を見た。
「若かった。焼くのが惜しかっただけだ。誰かが拾うとも、拾った人間が三十年追うとも思っていなかった」
クラウスは、擦り切れた紙を手元へ引き寄せた。
「では、この一枚は?」
「束の一部だ。私はその束を、一度しか読んでいない。三十二年前に一度きりだ」
「覚えて、おられますか?」
「記録係だぞ、私は」
その一言で、クラウスの背筋が伸びた。
俺は、二人のやりとりを黙って聞いていた。
三十二年前に紙を捨てた男と、それを拾った男が、いま同じ卓についている。どちらも自分のやったことの意味を知らないまま、三十年を使ってきた。
「一つ、条件がある」
テオドールが言った。
「あなたには、ここに残ってもらいたい」
クラウスの手が止まった。
「書庫の整理を任せる、という名目にする。住まいは奥の小部屋を使えばいい。食事も出る。位はやれんが、位が要る仕事でもない」
「……閲覧は?」
「記録係の許しがあれば、誰でも読める。私が許せば、あなたも読める」
三十年、紙の上でだけ追いかけてきたものが、いま棚一つぶんの距離にある。
俺は、クラウスの顔を見なかった。見なくても分かる。
「待て。小僧はどうなる?」
クラウスが訊いたのは、それだった。
テオドールは俺のほうを向いた。
「君については、何も記録しない。受け入れ所から上がった話は、書き間違いということにしておく。……ただし、この街にいるあいだは、それが保つとは限らん」
「奉納に引っ張られる、ということですか?」
「魔力を持たない者は引っ張られん。持っているかどうかは、関所の司祭が見れば分かる」
テオドールは俺の胸のあたりを見た。
「君は、何も見えなかったのだろう」
息を詰めた。この人は関所の記録まで読んでいる。
「何も見えない人間が、堂に残って、四百年ぶりに数字を確かめた。……興味はある。だが、興味は書き留めれば済む。私は記録係だ。捕まえて調べる役ではない」
その晩、宿へ戻ってから、俺たちは何も話さなかった。
クラウスは卓に向かって、十四枚をまた並べ替えていた。並べては戻し、戻しては並べる。手だけが動いていて、目が紙を見ていない。
俺は寝台に腰を下ろして、天井を見ていた。
言うべきことは決まっていた。決まっているのに、口を開くと嘘になりそうで、しばらく待った。
「残ってくれ」
先に言ったのは、俺のほうだった。
クラウスの手が止まる。
「あんたが三十年やってきたことの続きが、あの棚の中にある。俺が連れ歩いても、あれは読めない」
「お前はどうする?」
「東へ戻る。もう一度、あの大聖堂を見たい。今度は十四枚を持って」
嘘ではない。だが、全部でもない。
俺が本当に行きたいのは、もっと東だ。樹海に接した辺境で、司祭が三人倒れた町があり、その先に森がある。百六十年前に俺が死んだ場所と、この間の受肉型が逃げ込んだ方角。
あそこで何かが起きている。帳面に名前のない領のことを、俺は五日かけて考えていた。
クラウスは、長いこと黙っていた。
「……路銀は?」
「稼ぐ」
「稼げるのか?」
「石を運ぶ商会がある。ノルドグレンから十日ごとに来ている連中だ。帳面で名前は覚えた。護衛が要るはずだ」
クラウスは鼻を鳴らした。それから、卓の上の紙を一枚取って、俺のほうへ滑らせた。
三十二年前の、擦り切れた一枚だった。
「持っていけ」
「待て、それはあんたの——」
「私は残りの束を読める。お前は読めん。持っていない者が持つべきだろうが」
俺は、その紙を受け取った。




