46話
嘘の候補が、いくつも頭に浮かぶ。
箱を置き忘れて取りに戻った。腹を下して厠を探していた。他にも浮かんでは消える。どれもこの場を切り抜けることはできそうだが——そんな言葉は、口から出てこなかった。
「堂の中にいました」
ハンネの眉が動いた。それだけだった。怒鳴りもしないし、驚きもしない。ただ、組んでいた指をほどいて、帳面の縁を撫でた。
「何をしに」
「陣を見に。……祖父が三十年、音と形のことを調べているんです。あの建物に、その答えがあります。中に入らないと見えないところだったので、残りました」
「石には触れたのかい?」
「触っていません。陣を見ただけです」
嘘ではなかった。触りたかったが、触らなかった。
ハンネはしばらく俺を見ていた。土間の外で荷馬車の車輪が鳴って、人足が誰かを呼んでいる。いつもの昼の音だ。それが遠くに聞こえた。
「盗ってないんだね」
「はい」
「壊してもいない」
「はい」
「……そうかい」
彼女は帳面を開いて、俺に見えるように向けた。儀式の日の欄に、出した人足の名が並んでいる。うちの受け入れ所からは、あの日ひとりも出していない。その下に、細い字で何か書き足されていた。
「三日前に、上へ出したよ。うちの者が堂から出てきたのを見て、黙っておくわけにはいかない。誰が出入りしたかを書き留めるのが私の仕事でね」
俺は帳面を見た。
この人が困ることを、俺は計算に入れていなかった。神官の目と、扉の閂と、窪みの暗さばかり数えていて、坂の下でこの帳面を書いている人間のことは考えていなかった。箱の中身が一つ足りないと言ったとき、彼女はそれを黙って受け止めてくれた。今度は逆だ。俺のやったことが、この人の帳面を狂わせている。
「申し訳ありません」
「謝られてもね。もう出しちまったんだから」
ハンネは帳面を閉じた。
「で、返事が来た」
身構えた。職を失う。国から追い出される。起こりうる様々なことが頭をよぎる。
「処分じゃないよ」
彼女は首を振った。
「あんたに会いたいそうだ」
「……誰がですか?」
「記録係のテオドール様。書庫を仕切ってる人だよ」
聞いたことのない役職だった。司祭でも司教でもない。儀式に出る人ではないのだろう。
「偉い人ですか?」
「位でいえば高いね。ただ、そういう偉さじゃないんだ、あの人は」
ハンネは言葉を探す顔をした。
「……変わった人だよ。三十年ここにいるけど、私はあの人が祈ってるところを見たことがない」
その日の帰り道は、坂を下るのに時間がかかった。
行くか、行かないか。逃げるなら今夜のうちだ。滞在札はひと月ぶんあるが、金は残り少ない。クラウスを連れて国境まで戻る路銀を考えれば、明日には出なければ間に合わない。
だが、逃げてどこへ行く。
王都へ帰っても、あの大聖堂は六つぶん応えていない盤だ。辺境の教会はもっと応えていない。答えがあるのは、いま俺が坂を下りてきた、あの丘の上だけだった。
部屋へ戻ると、クラウスは卓の上で紙を並べ替えていた。
俺が話し終えると、老人はしばらく黙ってから、十四枚のうちの一枚を指で押さえた。
「行くしかあるまい」
「捕まるかもしれない」
「捕まるのはお前で、私ではない」
クラウスは顔を上げた。
「私が行く。お前は宿にいろ」
「呼ばれているのは俺だ」
「向こうが知っているのは、堂から出てきた小僧がいた、それだけだろう。名前まで書かれておるのか」
俺は言い返せなかった。この男は、こういうときだけ回転が速い。
結局、二人で行くことになった。老人一人で坂を上らせるわけにはいかないし、俺一人で行けば、この老人は宿で待つあいだに寿命を縮める。
その晩、俺は器の中を整理した。
真鍮の板を三枚とも取り出して、卓に並べる。紙束も、砂の袋も出した。器に残したのは、着替えと、剣と、金だけだ。
見せるものと、隠すものを分けておく。
明日、俺は初めて、教会の内側の人間と向かい合って話すことになる。




