43話
日が傾いてから、俺はもう一度坂を上った。
大扉は、まだ開いていた。夕方の片づけが続いていて、人足が空箱を担いで出てくる。俺は片づけを手伝いに来た人間の顔をして、その流れの脇をすり抜けた。誰も咎めない。朝に石を運び込んだ人間の顔を、覚えている者はいなかった。
回廊の途中で列を外れ、石を積んだ窪みへ身を沈める。
潜むのは得意だ。前の生では、それしかできることがなかった。
日が落ちて、扉が閉められる音がした。太い閂が下りる。錠を確かめる音、足音、話し声。それが遠のいて、それきり何も聞こえなくなった。
夜半まで、俺はそこにいた。
膝を抱えて、骨と腱だけを薄く強化したまま、時間を数える。街道の野営と同じだ。万が一にも見つからないように、眠らず、周りの気配を拾うことだけに集中する。
鐘が二度鳴ったあと、俺は窪みを出た。
回廊を抜け、幕をくぐる。堂の中は真っ暗で、祭壇の側に灯明が一つだけ残っていた。積み上げた箱の輪郭が、かろうじて見える。
柱の陰へ入った。
息を殺す必要はなかった。強化しておけば、心臓の音まで抑えられる。厄介だったのは腹の底のほうで、こういうときに限って熱を持ちたがる。見つかれば終わりだ、という状況が、あれには好物らしい。
俺はしゃがみ込んで、右手を握った。真鍮の円板と、革の小袋に入れた砂。それに、荷札に使う粗い紙と、炭の欠片。板を床へ置き、その横に紙を広げる。板の上に砂を薄く撒くと、指先が震えているのが自分でも分かった。
夜明け前に、扉が開いた。
聖職者が入ってきたのは、それからすぐだった。
司祭が十二人。祭壇を囲むように立つ。その後ろに聖歌隊が四十人ほど。さらに脇の扉から、白い衣ではない人間が二十人ばかり入ってきて、壁際に並んだ。奉納の者たちだろう。手首に布を巻いている。
準備に、ずいぶん時間をかけた。
位置を確かめ、石の箱を開け、中身を祭壇の受け皿へ移す。四十箱ぶんの石が、黒い山になった。八百個が一つの山になると、思ったより小さい。だが、鉛から出された瘴気は桁が違った。堂の空気が、端から重くなっていく。
歌が始まった。
低いところから入って、ゆっくりと上がっていく。王都で聞いたものと同じ調子だ。ただ、声の数が違う。四十人の声が石の壁に反射して、どこから鳴っているのか分からなくなる。
壁際の二十人が、手首の布を解いた。
空気が動く。
二十人ぶんの魔力が、一斉に流れ出していく。俺の身体は魔力を留めないが、通っていくものは分かる。それが柱に吸い込まれ、床の線を伝い、上へ昇っていった。
柱と柱のあいだが、埋まっていく。
物が現れたのではない。何もない空間に、張られたものがある、と感じただけだ。太鼓の皮を張るのに似ていた。骨組みは初めからそこにあって、そこへ膜が渡されていく。
張り終えたとき、堂の内側そのものが一枚の盤になっていた。
床の板の上で、砂が動いた。
声が壁で跳ね返って、どこから来ているのか分からない鳴り方をしている。その中で、板の上の砂だけが正直だった。震えの止まったところへ寄り集まって、形になる。
クラウスの家で見たものより、線が細い。密度が違う。同じ円板の上に、あのときより込み入った形が立っていた。
紙に炭を走らせた。
線が細くて、炭の先では潰れる。潰れたところは指の腹で削って、輪郭だけでも残した。一枚目。
節が変わった。砂が一度散って、また集まる。紙をめくる。二枚目。
暗い。柱の陰まで光が回ってこないので、細い線は目を近づけて追うしかない。紙をめくる手も、音を立てられないぶん遅くなる。三枚目を取り損ねた。
そこで、身体強化を目と手に回した。景色の動きが遅くなり、砂の集まる速さに指がついていく。四枚目からは、崩れる前に写しきれた。
五枚目のあたりで、気づいた。
一つの節で、砂が二度形を変えている。
最初に薄い形が立ち、崩れ、すぐに別の形が立つ。歌は同じ節を歌い続けているのに、盤が二度応えている。クラウスの円板では、こんな動きは一度も見なかった。
——盤が変われば形も変わる。
あの言葉の意味を、俺は取り違えていたのかもしれない。変わるのは形だけではない。数も変わる。この堂が鳴らしているものを、王都のあの建物は半分も返せていないということだ。
俺は数えるのをやめて、写せるだけ写すことに切り替えた。
書き写す傍ら、目だけは祭壇へ向けていた。
その祭壇の上で、光が集まりはじめた。
白い。
開いた瞬間、腹の底が跳ねた。あの色を知っている。百六十年前、俺が這いずり回り、片端から屠って歩いた場所の色だ。
だが、降りてはこなかった。
逆だった。石の山から、黒く濁ったものが薄く立ちのぼりはじめた。煙に似ているが、煙ではない。それが柱と梁の線に沿って昇っていき、祭壇の上の一点へ吸われて、消える。
抜けたあとの石は、端から灰色に変わっていった。
同時に、司祭たちの背が沈んだ。
十二人の内側から、生きるための力が一斉に搾り出されていく。二年前、王都の大聖堂で見たのと同じだ。だが人数も規模も違う。年配の一人が膝をつき、隣の男が肩を支えて、それでも歌は止まらない。止めれば穴が閉じるからだ。
俺は柱の陰から、それを見ていた。
手を伸ばせば届く距離に、八百個の石がある。触れれば、この山は歌なしで消える。誰の命も削らずに済む。それをやらない理由を、俺は三年かけて用意してきたはずだった。
歌が終わったのは、それからずいぶん経ってからだった。
穴が閉じて、光が消える。堂が急に暗くなった。
受け皿の上には、まだ石が残っていた。半分近くが、黒いままだ。四十箱を一度で処理しきれていない。誰も驚いていないところを見ると、いつものことなのだろう。
司祭たちが運び出されていく。膝をついた年配の一人は、自分では立てていなかった。
俺は、上を見た。
中央の柱から伸びた梁が、暗がりの中に沈んでいる。継ぎ目の粗い、黒っぽい材。
あれは周りの柱とは違う、あとから足されたものだ。
つまり、いつかの誰かが、あそこが切れていることに気づいた。気づいて、直そうとした。そして、直しきれなかった。
この建物は完成していない。そのことを知っている人間が、俺より前にいた。




