39話
予約を忘れていました
国境は、八日目の昼に見えた。
街道が丘を一つ越えると、下り坂の途中に柵と小屋が並んでいた。こちら側がグランフェルドの詰所で、川を挟んだ向こう側がメリディアの関所になる。橋は石造りで、幅は荷馬車が二台すれ違えるほどあった。橋の上にも、橋の手前にも、人が並んでいる。
半分は巡礼の客だった。杖を持って、同じ形の布を肩にかけている。
「歩いて来るのか?」
クラウスが荷台から身を乗り出した。
「歩いて行くほうが徳が高いと言われとるらしい。……足を悪くして担がれとる者までいるな。徳とは何だという話だ」
列の進みは遅かった。荷を検められ、書付を検められ、一台ずつ通される。ゲルトが商人の書付を持って前へ出ていき、俺たちは順番を待った。
俺の番になったとき、詰所の男が札を見て、それから顔を上げた。
「エルデンハルのギルドか?」
「はい」
「十五で八等級。早いな」
男が俺の顔を見ている時間が、他の者より少しだけ長かった。人相書きが回っていないとは思わない。半年前に出奔した第一王子の顔を、国境の詰所が覚えていてもおかしくはない。それでも、腕の数が違う。人相書きが探すのは片腕と潰れた右目で、いまの俺にはどちらもある。それでも、指の先が冷えた。
男は札を返した。
「行け」
橋を渡りきったところで、俺は一度だけ息を吐いた。
メリディア側の関所は、造りからして違った。
石を積んだ建物に、屋根の上まで彫刻が入っている。門の脇には教会の紋が掲げられ、その下に司祭が二人立っていた。関所の役人と並んで、通る者を見ている。役人は荷を検め、司祭は人を見ていた。
「あれは何を見ているんですか?」
「表向きは病人だ」
ゲルトが小声で言った。
「辺境から流れてくる連中には、瘴気に当てられて身体を壊してるのがいる。そういうのを入れると厄介だからな」
「表向きは、ということは」
「本当に探してるのは、使えるほうだ。魔力を持ってる人間は、あの目に引っかかる。引っかかったら、教会の人間が話をしに来る。断れんわけじゃないが、断りにくい形で来るぞ」
列が進んで、俺たちの番になった。
司祭の一人が、俺の顔から胸のあたりへ視線を落とした。何かを探す目だった。三つ数えるほどそうしていたが、やがて興味をなくして、隣の巡礼の客のほうへ移っていった。
測れないものは、いないのと同じらしい。
クラウスは荷台の毛布の下で、真鍮の包みを抱え込んでいた。もう一人の司祭が荷台を覗いたが、老人が一人寝ているのを見て、それだけで離れていった。
国境を越えて半日で、景色が変わった。
道が石畳になる。畑の畝がまっすぐで、区画の境に石が置かれている。村と村の間隔が短く、そのどれにも尖った屋根の教会があった。鐘が鳴ると、畑にいる者が手を止めて、そちらを向く。荷馬車の上からでも、それが見えた。
物乞いはいた。だが、教会の前に並んでいて、順に椀を渡されていた。
「豊かだな」
クラウスの言い方は、褒めているようには聞こえなかった。
俺が気づいたのは、もう少しくだらないことだった。
腹の底が静かだ。
この二日、瘴気の入りが目に見えて細っている。東の街道では歩いているだけで勝手に流れ込んできたものが、ここではほとんど来ない。空気が薄い土地で息をしているのに近い。神気の溜まりも、それに合わせて鈍っていた。
樹海に面していない国とは、そういうことか。
考えてみれば当たり前の話だが、身体で分かるのは初めてだった。この国の人間は、生まれてからずっとこの薄さの中にいる。それでいて、大陸で一番古く、一番大きな陣を持っている。
九日目の夕方、聖都パラティナが見えた。
丘の上に白い壁があって、その内側から塔が何本も突き出ている。中でも一本が飛び抜けて高かった。夕日を受けて、こちらの側だけが赤い。
鐘が鳴りはじめた。
街道を歩いていた巡礼の客が、その場で足を止めた。杖を置き、跪き、額を地面につける。荷馬車の御者も手綱を引いて、帽子を取った。人足たちも、ヨストもラルフも、荷の脇で頭を垂れている。
街道全体が、一つの動きで静かになった。
俺は立っていた。跪くべきなのは分かっていたが、膝が動かなかった。あの塔の下でやっていることの正体を、俺はもう見てしまっている。
クラウスも荷台に座ったままだった。この男の場合は、たぶん膝が痛いだけだ。
鐘が止むと、街道はまた歩きはじめた。
門の外の広場で、商隊は解散になった。
商人は帳面を開いて、日当を数えた。九日ぶんで銀貨が九枚。荷を一台失い、反物を一反切り裂かれた隊にしては、値切られなかったほうだと思う。ゲルトは受け取った袋をそのまま懐に入れて、俺のほうを向いた。
「猪の分は、あんたのだ」
銀貨がもう二枚、上に乗せられた。
「石は割れちまったから、討伐の証にはならん。商人が礼として出したぶんだ。取っとけ」
「ありがとうございます」
「教会には近づきすぎるな。……いや」
ゲルトは言い直した。
「近づくのはいい。長居するな」
ヨストが手を上げ、ラルフは肋を押さえたまま片手で振った。三人は北の宿へ歩いていった。次の隊を待って、また東へ戻るのだという。
広場に残ったのは、俺と、荷台から降りたクラウスだけだった。
クラウスは杖代わりの棒に体重を預けて、しばらく塔を見上げていた。三十年、紙の上でだけ追いかけてきたものが、いま目の前に立っている。
「思ったより、高いな」
「登れないぞ」
「登る必要はない。中に入れればいい」
言うだけなら簡単だ、と思った。
白い壁の内側に、この大陸で一番古い陣がある。それを敷いた者たちは、俺が斬った相手のことも、あの穴の向こうがどうなっているのかも知らないまま、歌い続けてきた。誰が組んだのかを知る者は、もうどこにもいない。
俺は、その歌を止めに来たわけではない。
止めずに済ませる方法を探しに来た。




