38話
宿場に着いたのは、翌日の昼だった。
ミュールバッハという、川沿いに水車が三つ並んでいるのが特徴の町だ。街道沿いに宿が二軒と、詰所が一つ。ゲルトが縄の端を引いて五人を降ろすと、詰所から出てきた衛兵は、顔を確かめもせずに帳面を開いた。
「どこでやられた?」
「谷あいの、両側が崖になっているところだ」
「今月三度目だ。またか、と言いたくもなる」
衛兵は面倒くさそうに人数を書き取った。死んだ二人は荷車の後ろに乗せてきて、顔を検められたあと、そのまま裏へ運ばれていった。街道で盗賊を捕らえた者には、頭数ぶんの銭が出る決まりらしい。生きているぶんも死んでいるぶんも合わせて七人で、銀貨が二枚。ゲルトはそれを護衛の頭数で割って、俺の掌にも銅貨を数えて置いた。
「こいつら、どうなりますか?」
「街道を直す人足に回される。二年か、三年か。その辺は取り調べをしてからだな」
若い衛兵は、それだけ言って中へ戻った。ゲルトは何も言わなかったが、俺のほうを一度も見なかったのは、そういうことなのだろう。二年で出てくる、と昨日この男は言った。言ったとおりの数字が、いま帳面に書き込まれただけだ。
半日休んで、隊はまた動き出した。
六日目、道が丘陵に入った。
牧草地が段になって続いているのに、羊がいない。柵が一箇所、内側へ倒れている。折れ方が、踏み抜かれた形だった。
畑の脇にいた農夫に、ゲルトが声をかけた。返ってきた話は短い。三日前から牛が二頭消えた。夜のうちに柵ごと押し倒されていた。それだけだ。
「猪だな」
ゲルトは戻ってくると、そう言った。
「石持ちだ」
「変異したものですか?」
「この辺りで柵を倒せるのは、それしかいない。腹が減れば街道にも出る」
その晩、火を大きく焚いた。翌日は誰も口をきかずに歩いた。
出たのは、七日目の夕方だった。
水場のそばで荷を降ろしはじめた頃、馬が一斉に嘶いた。それから、斜面の草が割れた。
牛ほどの大きさがあった。
背の毛が針金のように立って、走るたびに土を跳ね上げている。目は濁っていて、こちらを見ているのかどうかも分からない。額の上に、拳ほどの瘤が盛り上がっていた。皮の下から石が透けているのが、離れていても分かる。
「散れ!」
ゲルトの声と同時に、猪が二台目の荷馬車へ突っ込んだ。
車軸が折れる音がして、荷台が横倒しになった。反物が転がり出て、坂を落ちていく。馬が繋がれたまま暴れ、御者が縄を切ろうと転がり込んだ。ラルフが横から斬りつけたが、刃は毛の上を滑っただけだった。返す牙で腹を打たれて、二間ほど飛ばされる。
「目だ!」
ヨストが叫んだ。
「目を狙え!」
ゲルトが正面から入って、鼻先を裂いた。血が出た。それでも猪は速度を落とさない。痛みを感じていないのではなく、痛みで止まる作りになっていないのだと分かった。
俺は身体に力を通しながら、額の瘤を見ていた。
あそこを割れば終わる。だが、そこへ剣を届かせるには、こちらへ突っ込んでくる正面に立つしかない。走っている牛に、正面から刃を当てるようなものだ。一度止める必要があった。
人が見ている。それは分かっていた。
息を吸って、俺は右手を前に出した。
「——弾けて燃えろ!」
声を張ったのは、そのほうが都合がいいからだ。
猪の鼻先で、火が弾けた。
破裂の音は、乾いた枝を折ったときほどのものだった。拳ほどの炎が散って、あとには何も残らない。置きたかった場所より半歩ぶん手前に出たし、大きさも思ったほどではなかった。離れた場所に決めるのは、掌の上に決めるのとは別の作業らしい。
それでも、足りた。
鼻先で急に光って弾けたものに、猪が初めて驚いた。前脚が地面を掻いて、太い身体が半歩ぶん横を向く。突進の線が、そこで切れた。
俺は踏み込んだ。
剣を上から額へ叩きつけた。皮と毛の下で、硬いものに当たった手応えが返る。割れない。腕を引き戻して、同じ場所へもう一度落とした。二度目で、瘤の中の石が音を立てて割れた。
猪は前のめりに崩れて、そのまま動かなくなった。毛が針金からただの獣毛に戻っていく。
水場は静かになった。
ラルフは肋を二本やられていたが、命に別状はなかった。荷馬車は一台使えなくなり、反物を積み直すのに夜半までかかった。商人は帳面を開いて、また何かを書いていた。
ゲルトが俺の横に来たのは、荷を縛り終えてからだった。
「おい。あんた、火が出せるのか?」
「少しだけです」
「詠唱が短いな」
俺は答えを用意していなかった。用意していないことが顔に出る前に、荷台のほうから声がした。
「十二年かけて仕込んだ」
クラウスが毛布から顔だけ出して、こちらを見ていた。
「短いのは、無駄を削ったからだ。長く唱えるのは覚えの悪い者のやることだと、この子には三つのときから言うてある。安く見るな」
ゲルトは荷台のほうをしばらく見て、それから俺に視線を戻した。いまひとつ納得のいかない顔をしていたが、それ以上は訊いてこなかった。
「聖王国に入ったら、あんまり人前で出すな」
「なぜですか?」
「教会の膝元だ。術が使えると分かれば、奉納に引っ張られる。若けりゃなおさらだ。一度囲い込まれたら、そう簡単には出してもらえんぞ」
ゲルトは俺の肩を一度叩いて、火のほうへ戻っていった。
夜半、荷を縛り直した荷台の陰で、クラウスが小声で言った。
「さっきのは何だ! 咄嗟にああ言ったが、私は術など一つも使えんし、教えた覚えもないぞ」
「思わず使ったんだが、思ったとおりには出せなかった。半歩ぶん手前にずれた」
「ほう? ……まあいい、あとで詳しく聞かせてもらうぞ」
この男は、肋を折られた男が唸っている隣で、そういう顔をする。俺は焚き火の明かりを背にして、半歩ぶんの狂いがどこから出たのかを、朝までかけて考えた。




