37話
王都を出て二日で、景色から森が減った。
街道は西へゆるく下っていく。畑と牧草地が交互に続いて、道の脇には石を積んだだけの祠がぽつぽつと立っていた。巡礼の客が置いていくものらしく、どれも供え物の跡がある。東の街道とは、道の幅からして違った。轍が深く、車輪の音が乾いている。それだけ人が通っているということだ。
三日目の夕方、俺は焚き火の番でゲルトと並んだ。
「魔物は出ないんですか?」
「出るには出る。ただ、こっちは数が知れてる」
ゲルトは薪の位置を直しながら言った。
「あんた、東から来たんだろう。あっちは森が近いぶん、湧きが違う。この道は森から離れる一方だ。西へ行くほど減る。聖王国に入れば、ひと月見ずに済むこともあるらしい」
「では、この道で怖いのは?」
「人だ」
薪が崩れて、火の粉が上がった。
「巡礼の客が絶えん道は、金も絶えん。荷を積んだ馬車が毎日通る。……そういう場所には、そういう連中が集まる。探索者くずれ、町を追われた者、食い詰めた小作。だいたい十人前後で組んでいる」
「十人ですか?」
「それより少ないと商隊に勝てん。多いと分け前が減るし、隠れきれん。あいつらなりに算盤を弾いた数だ」
俺は膝を抱えて、火を見ていた。魔物は数と質で語れる。討った石は教会へ持っていける。だが人間には核がない。
「捕まえたら、どうするんですか?」
「縛って、次の宿場の衛兵に渡す。それが決まりだ」
ゲルトは俺のほうを見ずに言った。
「決まりどおりにならんこともある」
旅の日課は、三日で身体に入った。
夜明け前に起きて、湯を沸かし、馬に飼葉をやる。日が昇るころに動き出して、昼は歩きながら固いパンをかじる。日が傾いたら水場のそばで止まり、荷を締め直して、火を焚く。見張りは二人ずつで二交代。俺は夜半から明けまでの、いちばん眠い側を割り当てられたが、文句はなかった。身体を強化したままにしておけば、一晩眠らなくてもさほど堪えない。
護衛の兄弟は、兄がヨスト、弟がラルフといった。二人とも七等級で、五年目だという。最初の晩は俺に何も聞かなかったが、二晩目に弟のほうが焚き火越しに顔を寄せてきた。
「あんた、いくつだ?」
「十五です」
「俺が始めたのは十七だ。それでも早いって言われた」
ラルフはそれきり何も言わず、干し肉を火で炙りはじめた。責めているのでも、感心しているのでもなかった。ただ、覚えておくだけの話として聞いたらしい。この道で若いというのは、それくらいの意味しかない。
クラウスは三台目の荷台で、ずっと不機嫌だった。
揺れる荷台では紙を広げられない。書けば線が跳ねる。読めば酔う。三十年ぶん抱えて出てきた男が、道中はただ座っているしかない。二日目には俺を捕まえて、十七枚の話を最初からやり直しはじめた。荷台の縁に指で形を描きながら、口だけで研究を進めている。
「動けん時間というのは、まったく腹が立つな」
「歩くか?」
「少しは祖父をいたわる気持ちを持たんか」
四日目の昼過ぎ、道が切通しに入った。
両脇の斜面がせり上がって、空が細く見える。そのあたりで、うなじの毛が立った。
覚えのある感じだった。森の茂みを這っていたころ、これに何度も助けられている。見られている。それも、こちらを獲物として数えている目だ。あのころの俺にできたのは、穴に潜るか、木の陰で息を殺すかのどちらかしかなかった。いま同じものを感じても、逃げ込む穴は要らない。
斜面の緑が、静かすぎた。鳥が一羽もいない。
俺は歩調を変えずに前へ出て、ゲルトの横に並んだ。
「上に、いますね」
「気づいたか」
ゲルトは前を向いたまま言った。
「顔に出すな。まだ出てこられると面倒だ」
そのすぐあとで、列が止まった。
前方に木が倒れていた。太い幹が道を斜めに塞いでいる。折れ口が白い。
「ヨスト、ラルフ、前だ。小僧は後ろ」
ゲルトの声は、驚くほど普通だった。俺が振り返るのと、斜面の藪が動くのは同じ拍だった。
後ろから五人。土手を滑り降りてくる。革の胴当てと、鉈と、短い槍。先頭の男の剣だけが探索者の持ち物だった。ゲルトの言ったとおり、前と合わせて十人ほどだ。
俺は息を吐きながら、そっと身体を強化した。骨へ、腱へ、筋へ。傍からは、剣の柄に手をかけただけに見えるはずだ。
景色が遅くなる。人の動きは、魔物と違って読みやすい。踏み込む前に肩が下がるし、振る前に息を吸う。犬型のほうがよほど速かった。
最初の男の鉈を、剣の腹で外へ流した。返す動きで柄頭を顎に入れる。二人目は槍を突き出してきたので、穂先の下をくぐって肘を掴み、逆に折った。骨の折れる音は、乾いた枝を踏んだときの音に似ている。男が悲鳴を上げて転がった。
三人目が俺を見て、足を止めた。
止まった相手をどうするかで、俺は一瞬迷った。その迷いの底で、腹の奥が動いた。
熱い。
三年前から知っている熱だ。ラインハルトの左手を落としたとき、これに乗った。あのとき、腕を落としてやめられたのは運がよかっただけで、俺が止められたわけではない。いま目の前にいるのは魔物ではなく、息をして、怯えて、後ずさる人間だった。だからこそ、腹の底のものは喜んでいる。
——斬るなら魔物だ。
宿の寝台で決めたことを、俺は口の中で繰り返した。
男の膝を蹴って、崩れたところを柄で殴った。それで済んだ。
悲鳴が聞こえて振り返ると、四人目が三台目の荷台に取りついていた。幌の隙間から腕を突っ込んで、中の何かを掴み出そうとしている。荷台の隅で、クラウスが真鍮の包みを抱えたまま動けずにいた。
男が短刀を抜いた。
そこから先は、決めて動いたのではない。
距離は十歩ほどあったはずだが、気がついたときには荷台の横に立っていて、拳がもう男の胴へ向かっていた。強化した身体は、こういうとき考えるより先に動く。
腹の底が首をもたげている。喉のあたりまで熱が上がってきていた。このまま叩き込めば胴は保たない。骨も臓腑もまとめて潰れる。それでいいと、腹の底のものが言っていた。
拳が触れる寸前、クラウスと目が合った。
荷台の隅で、真鍮の包みを抱えたまま、俺を見ていた。刃を向けられた側なのに、怯えた顔ではない。ただ、見ていた。
俺は腕から力を抜いた。
拳は浅く鳩尾に入った。男の身体が少し浮き上がり、同時に短刀が地面に落ちた。声も出せずに崩れたのを引き倒して後ろ手にねじ上げ、それだけにした。
前方の音が止んだのは、それからすぐだった。
戻ってみると、倒木のそばに三人が転がっていた。二人は動いていない。ヨストが刃を布で拭っていて、ラルフは肩を押さえていた。切られたらしいが、浅い。ゲルトは剣を鞘に納めながら、逃げていく背中を数えていた。
「二人は逃げた。ヴァルドそっちは?」
「五人。全員生きています」
ゲルトは俺の足元を見た。転がっている男たちは、腕が折れているか、顎が外れているか、伸びているかのどれかだった。血は出ていない。
「殺しておいたほうが楽だぞ、小僧」
「そうですか」
「顔を見られてる。縛って渡しても、二年で出てくる。出てきたら、また同じことをやる。次に殺されるのは、あんたじゃなくて次の隊の誰かだ」
ゲルトは縄を投げて寄越した。
「それでも決まりは決まりだ。俺は文句を言わん。ただ、知っておけ」
俺は縄を受け取って、男たちの手首を縛った。
知っている。あの白い場所で、俺が最初に斬ったのは、詫びてきた相手だった。二人目からは、もう考えなかった。鎮めようとした者も、ただそこに在っただけの者も、片っ端から屠った。そうやって全部終わらせて、残ったのは、憎んでいた相手ははじめからそこにいなかったという事実だけだ。だから殺さないのではない。殺せば自分がどこまで行くかを知っているから、殺さない。正直に言えば、そういうことだった。
その晩は、いつもより火を大きく焚いた。
縛った五人は荷馬車の車輪に繋いで、二人ずつ見張りをつけた。次の宿場は明日の昼だという。商人は帳面を開いて、失われた荷を数えていた。反物が一反、切り裂かれていた。
俺は火から少し離れたところに座っていた。腹の底の熱が、まだ完全には引いていない。
「殺さなかったな」
荷台の縁から、クラウスの声がした。
「斬るのは魔物だけと決めてある」
「決めた、か」
クラウスは鼻を鳴らした。
「お前は、決めればそのとおりになるらしい」
「これは、そういうものじゃない」
「同じだろう」
同じであってほしい、と思った。器の口は、三年開きっぱなしで一度も閉じたことがない。腹の底のほうは、今日も一度、こちらを見た。




