36話
クラウスは、しばらく机の一点を見ていた。紙束のあった場所だ。木目の上には何も残っていない。埃の跡すらなかった。やがて右手を伸ばして、そこを撫でた。何度か撫でたのは、触れば戻るとでも思ったのかもしれない。
「戻せるのか?」
「もちろん戻せる」
俺は掌を上に向けて、指を開いた。紙束が落ちてきて、元の場所に音を立てた。クラウスは飛び上がりそうな顔をしてから、その紙を掴んでめくった。
「濡れてもおらんし、焦げとらん。折れてもおらん」
「入れたときのままだ。中では何も起きない。腐りも乾きもしない」
クラウスは椅子に座り直した。両手で顔を擦って、深く息を吐く。
「……いま、頭の中で三つほど、聞きたいことが暴れとるぞ」
「答えられるだけ答えるが、俺にも分かっていないことのほうが多い」
開けたのは三年前だ、と俺は言った。決めたのは一度きりで、それきり開きっぱなしになっている。出し入れの口は右の掌のあたりにあって、握るような仕草で足りる。中がどうなっているのかは知らない。手を突っ込んだこともない。底があるのかどうかも分からず、いまのところ、入れて溢れたことがない。
「どこに入っておる?」
「分からない。どこでもない場所だ」
答えになっていないのは分かっていた。だが、他に言いようがない。この世界にも、前の世界にも、あれを言い表す言葉はなかった。強いて言うなら、この部屋の隣でも下でもない場所に穴を開けて、そこへ置いている。それだけだ。
「入り口は一つか?」
「場所をずらせば、いくつでも開けられる。もう一つ開けてある」
「どこに?」
俺は自分の眉間を指した。
「神気を溜めているのは、そっちだ」
クラウスの手が、紙の上で止まった。
「寝ておるあいだに勝手に溜まるという、あれか?」
「垂れ流していたのを、受け止められるようにした。それだけの話だ」
「それだけの話ではないわい!」
クラウスはそう言ったきり、しばらく黙っていた。目を閉じて、指で机を叩いている。三つのうちのどれから訊くかを選んでいるのだと、俺には分かった。
やがて、目を開けずに訊いた。
「それは、術か?」
俺は少し考えた。術かと言われれば、術ではない。形を決めて出すものとは違う。詠唱も陣も要らなかったし、いまも何も唱えていない。そうあれと決めて、そうなった。それきり三年、ずっとそのままだ。
「たぶん、違う」
「たぶん、か?」
「俺にも分からない。だが、決めただけだ」
クラウスは目を開けて、天井を仰いだ。それきり、残りの二つは訊かなかった。
飲み込んだのは、たぶん俺のためではない。訊けば答えが返ってくると、いまのこの男には分かっている。そして返ってきてしまえば、三十年ぶんの前提を組み直す羽目になる。それは家を畳んでからでいい、と決めたのだろう。
家を畳むのに、三日かかった。
紙はいちばん早く片づいた。クラウスが順番を確かめて渡し、俺が束ごと掴んで器へ落とす。それだけの作業だ。俺の背丈を超えていた塔が、半日でなくなった。何もなくなった床を見て、クラウスは妙な顔をしていた。
砂の盤は、木のほうを焼いた。真鍮の三枚だけを持っていく。
厄介だったのは、紙でも盤でもないものだった。鍋を一つ手に取っては、しばらく考えて、また置く。それを何度も繰り返している。三十年住んだ家には、要るとも要らぬとも決められないものが多すぎた。
俺は途中から、迷ったものは全部入れることにした。
「入るのか?」
「入る」
「……際限がないな、お前は」
結局、鍋も、椅子も、割れた乳鉢まで器に入った。最後に残ったのは、埃の積もった家の形をした空箱だけだった。クラウスは大家に鍵を返しに行き、戻ってきたときには何も言わなかった。
出立は四日目の夜明けだった。
商隊は王都の南門の外に集まっていた。荷馬車が五台、馬が十頭、御者と人足を合わせて十二人。反物を積んだ三台は幌を二重にかけてある。護衛は四人で、俺のほかは三人とも大人だった。
頭はゲルトという六等級の男で、四十代くらい、右の眉から頬にかけて古い傷がある。あとの二人は七等級で、兄弟だと言った。俺の札を見て、ゲルトは俺の顔を見て、それから何も言わなかった。年で文句を言われるかと思ったが、この男が見ていたのは俺の腰の位置と足の置き方だった。
「後ろだ。荷崩れと、後ろから来るものを見ろ」
「はい」
いちばん若く、いちばん等級が下の人間が置かれる場所だ。順当だった。
クラウスは三台目の荷台の隅に、毛布を敷いて座った。膝の上に、真鍮の板を包んだ布を抱えている。器に入れておけばいいと言ったのに、これだけは自分で持つと譲らなかった。
空が白みはじめる頃、先頭の御者が声を上げて、車輪が回りはじめた。
街道が緩く曲がるところで、俺は一度だけ振り返った。朝靄の底に、王都の壁が沈んでいた。あの内側に、俺を数に入れなかった男がいて、片手をなくした弟がいる。マルタとヨナスも、どこかにいる。十五年いて、持っていくものは何もなかった。
それから、東を見た。
この道は西へ行く。東には森がある。百六十年前に俺が死んだのも、この間の受肉型が逃げ込んだのも、あの方角だ。いつか戻ることになる。根拠はなかったが、そう思った。
「置いていくものはないのか?」
荷台からクラウスの声がした。振り返らずに訊いてくる。
「ない」
「そうか」
クラウスも、それきり後ろを見なかった。




