35話
十七枚を並べた翌朝、クラウスは机の前で腕を組んでいた。
「一つでは足りんのだ」
俺が戸を開けるなり、そう言った。挨拶はない。この男は、考えごとの続きから話しはじめる。
「盤が変われば形も変わる。私が三十年言い続けてきたことだ。この十七枚は、あの大聖堂という一枚の盤から出た形にすぎん。他所の陣が同じ十七枚を使っとるとは限らん」
男はそこで一度言葉を切って、また続けた。
「それに、分からんことが増えた。奉納だ。人から魔力を吸い出す仕組みが、どこかにあるはずだろう。溜めておけるのか、その場で使い切るのか。そのための陣が別にあるのか。……あの十七枚には、それらしいものが見当たらん」
「奉納が石板に触れてやるものだというのは分かっている。だが、他所の陣を確かめるとなると、別の領の教会を見ればいいのか?」
「国内の教会は、どれも王都の写しだ。写しを何枚見ても、同じ答えしか出てこん」
クラウスは紙の山から一枚を抜いて、机に広げた。地図だった。
「メリディア聖王国だ。ここに総本山がある」
西の隣国だ。樹海に面していない、ただ一つの国。
「この大陸で一番古く、一番大きな陣だ。あそこの陣が王都と同じ十七節なのか、別なのか。それが分かれば、形が土地ごとに違うのか、術ごとに決まっとるのかが、はっきりする」
クラウスは地図の上を指でなぞって、そこで手を止めた。
「行く」
「見に行くのか?」
「いや、この家を畳んで移住する」
そう言われて、俺は視線を紙の山に移した。塔のように積み上がったそれは、俺の背丈を超えている。三十年ぶんだ。
「本気で言っているのか?」
「三十年、ここで待っておった。待っておれば誰かが答えを持ってくると思っとったわけではない。ただ、動く理由がなかった」
クラウスは十七枚のほうへ顎をしゃくった。
「理由ができた」
俺にとっても、渡りに船ではあった。人相書きが出回っているのはこの国だ。国境を越えれば、俺の顔を探している人間はいなくなる。
それに、総本山には三百年ぶんの記録があるはずだ。
俺が斬ったあとで、この世界に何が起きたのか。教会がそれをどう書き残しているのか。あるいは、書き残してすらいないのか。あそこへ行けば、少しは分かるかもしれない。
問題は一つだけだった。
「金がない」
俺が言うと、クラウスは天井を仰いだ。
「……ないな」
三十年、盤を増やせなかった男と、稼いだ端から板に換えた子供だ。二人合わせても、国境まで持たない。
その日の午後、俺はギルドの掲示板の前に立った。
八等級になってから、剥がせる紙が増えている。護衛。同行。荷の見張り。西へ向かう商隊の依頼は、思ったより多かった。国境の向こうは巡礼の客が絶えないので、街道が生きているらしい。
その中に、一枚あった。メリディア聖王国、聖都パラティナまで。荷馬車五台。護衛四名。八等級以上。日当銀貨一枚。往復ではなく片道で、向こうで解散。
悪くない。片道でいいのが、とくにいい。俺は紙を剥がして窓口へ持っていった。
「ずいぶん遠くへ行くのね」
「しばらく戻りません」
あの退屈そうな顔の女は、帳面に書き込みながら、それ以上は訊かなかった。
「向こうのギルドでも、その札は通るわ。等級はどこでも同じよ。……死なないでね」
「気をつけます」
依頼主は、王都の南で織物を扱っている商人だった。年は五十代くらい。荷馬車五台のうち三台が反物で、残りは食料と飼葉だという。
俺は雇われる話をまとめたあと、一つ頼んだ。
「祖父を、荷馬車に乗せてもらえませんか」
「祖父さん?」
「聖王国で暮らすことになっています。歳なので、歩き通しは無理です。荷台の隅で構いません。飯は自前で用意します」
商人は俺の顔をしばらく見ていた。
「あんた、いくつだ?」
「十五です」
「十五で? 祖父さん連れて国を出るってのか?」
「他に身寄りがありません」
嘘は一つも言っていない。母は死んだ。父は俺を数に入れなかった。弟は俺の手を落とそうとしたし、俺は弟の手を落とした。マルタとヨナスには会いに行けない。この国で、俺を探しに来た人間は二人だけで、その二人にも顔を見せられない。
身寄りは、いない。
「……乗せてやる。荷崩れの見張りくらいはやってもらうがな」
「助かります」
家へ戻って、その話をした。クラウスは「祖父」と繰り返して、鼻を鳴らした。
「私に孫がおったとはな。まったく、初耳だ」
「他に言いようがなかった」
「構わん。歳の離れた学者の弟子より、そのほうが誰も気に留めん」
クラウスはそれから、紙の山を見た。
「これをどうやって運ぶ?」
荷馬車の隅を借りるだけでは、とても足りない。三十年ぶんの紙と、砂の盤と、真鍮の板。全部を積めば、それだけで一台になる。
俺は、しばらく黙っていた。この男には、まだ話していないことがある。器のことも、腹の底にいるものも。三年通って、一度も口に出さなかった。
だが、この男は訊かないでほしいと言えば訊かなかった。俺が血まみれで転がり込んだ夜も、左腕が生えた朝も、八百個の話をした日も。訊かずに、黙って紙を寄越した。
俺は右手を開いて、掌を上に向けた。
「これから見せるものを、誰にも言わないでほしい」
「言わん」
即答だった。理由も訊かなかった。
俺は机の上の紙束を一つ取って、掌の上で握るような形に指を曲げた。
束が、消えた。クラウスの目が、こぼれ落ちそうなほど見開かれた。




