31話
指先から、何かが板へ渡った。
音は鳴らなかった。撫でてもいないし、叩いてもいない。それなのに、掌に伝わる震えだけがある。耳では拾えない高さで鳴っているのだと、そのとき初めて思った。
砂が動いた。中心から外へ、渦を巻くように走る。木の盤で見たものとも、さっき真鍮で見たものとも違った。輪ではない。放射でもない。中心のあたりで密に絡んで、外へ向かうにつれてほどけていく。
クラウスが板を押さえたまま、身を乗り出した。
「止めるな……! そのままだ」
止めるつもりはなかった。難しいのは、放たないでいることのほうだ。腹で捕まえ、胸で変え、右手へ運ぶ。そこまでは三日で身体に入った。だが指先まで来たものは、形を与えれば出ていってしまう。石にも水にも火にもしないまま、押しとどめておく。
器の口を細く開けるのと似ていた。開ききらず、閉じきらず、その途中で保つ。
しばらくすると、腕が痺れてきた。肩から先が重い。押さえつけているぶんの負荷が、どこかにかかっているらしい。石を三十回撃ったときより、こちらのほうがずっと疲れる。
それでも、俺は続けた。砂の図は、そこにある。
「そのままだ。今から写し取る」
クラウスが紙を引き寄せた。押さえていた手を離せないので、顎で筆記具を指す。俺が空いている左手で渡してやった。
クラウスは片手で紙を押さえ、片手で描いた。線が歪む。それでも描いた。
「これは、なんの形だ……?」
俺に訊いたのではなく、自分に訊いた声だった。
答えは、どちらにもなかった。音を入れれば音の形が出る。それは分かる。音は震えで、震えが節を作って、砂がそこへ集まる。理屈は前世で聞いた覚えがあるし、この三年で何度も見た。
だが、いま入れたのは音ではない。俺の中から出た、まだ何にもなっていない力だ。それが板を震わせて、形になった。
——力にも、形があるということか。
試しに、注ぐ量を増やしてみた。図が、外へ広がった。中心の密なところはそのままで、ほどける先が板の縁まで届く。減らすと、また縮んだ。
量では、形そのものは変わらない。大きさが変わるだけだ。
次に、形を決めかけてみた。河原で石を出したときと同じ手順だ。硬いもの。詰まっているもの。そこまで思い描いて、出す寸前で止める。
砂が走り直した。渦が消えた。代わりに、六本の筋がまっすぐ外へ伸びて、そのあいだに短い線が並んだ。さっきまでの絡み合いはどこにもない。
「変わった」
クラウスの声が裏返っていた。
俺は形を解いて、また何にもしないところへ戻した。渦が戻ってくる。もう一度、石を思い描く。六本の筋が現れる。
三度やって、三度とも同じだった。
次は水だ。形を保たないもの。低いほうへ流れるもの。
今度は、細かい波のような線が板を埋めた。筋は伸びず、全体がさざめいている。
火では、中心が空いた。外側に太い環が二つ、そのあいだが何もない。
「……属性ごとに、違う」
声に出したのは俺だったが、クラウスはもう筆を動かしていた。四枚目の紙だ。歪んだ線が並んでいく。
思いつくままに続けた。同じ石でも、鏃の形まで細かく決めてやると、六本の筋のあいだに新しい短い線が加わった。粗く決めれば、その線は現れない。決め方が細かいほど、図も細かくなる。
クラウスの言った「形の精度」が、そのまま砂の上に出ていた。
言葉で言われていたことが、目の前で線になっている。
「音でも、同じことができるはずだ」
俺がそう言うと、クラウスは顔を上げた。
「同じこと?」
「詠唱は音で形を決めるんだろう。なら、術者が唱えた詠唱をこの板に入れてやれば、その音の図が出る。俺が力で出した図と、突き合わせられる」
クラウスの口が半分開いて、そのまま止まった。
「……音の形と、力の形を、並べて比べられる」
「そうだ」
「三十年」
クラウスはそれだけ言って、板の上を見た。それから紙の山を見て、また板を見た。
「三十年だ。私は音の形しか持っておらんかった。片方だけを集めて、繋ぐ相手のないまま表にしておった。……三十年だぞ」
俺は、指を離した。砂が崩れて、板の上にただの散らばりが残る。震えが引いていくのが、指先から伝わった。
「今日はここまでにしよう。また明日来る」
「必ず来いよ。いいな、必ずだ」
クラウスが言った。
「盤を、もっと作らせろ」
その金は誰が出すのか、という問いは飲み込んだ。




