26話
肩を揺すられて、目が覚めた。
空の色が変わっていた。朝だったはずが、日はもう真上を過ぎている。半日近く、そこに転がっていたことになる。
「生きてる……生きてます! ああ、よかった……!」
エーリクの声だった。神官服の裾を泥だらけにして、俺の顔を覗き込んでいる。
その後ろに、王都へ戻る組の頭が立っていた。剣を抜いたまま、窪地の底をゆっくりと見回している。
「……石は」
起き上がろうとして、左肩が言うことを聞かなかった。
「動かないでください!」
エーリクが俺を押さえた。細い腕のくせに、力が強い。
「荷車は三台とも街道へ出ました。北へ迂回して、いまごろは半日ぶんは進んでいます。町の人も、一人も欠けていません」
「一人飛ばされた人がいましたけど、彼は?」
「肋が折れていますが、生きています。生きていますよ」
それを聞いて、身体の力が抜けた。倒れ込んだまま、俺は空を見上げた。
誰も死なず、石は運ばれた。それだけ確かめられれば、いまはよかった。
「おい」
男が、剣を納めながら戻ってきた。
「あれは、どっちへ行った?」
「東です」
俺は、街道の向こうの林を指した。
「そのまま樹海のほうへ。追う気にはなれませんでした」
「当たり前だ」
男は、俺が転がっている周りの地面を見ていた。潰れた雑草の輪と、砕けた土。黒いものの跡は、もうほとんど残っていない。
「お前、分かってるか? 二度、討伐隊が出たんだ。一度目は八人で出て、四人帰った。二度目は十二人で出て、六人だ。俺は二度目にいた」
「……」
「どっちも、あれを町から離すことすらできなかった。押されて、逃げて、追われて、また逃げた。町の壁の内側で戦ったのは、今日が初めてだ」
男は俺を見下ろした。
「お前は、あれを町の外へ出した。石も出した。人も出した。俺の見たかぎり、今日死んだ人間は一人もいない」
「倒せていません」
「はあ? 倒せなんて、誰が頼んだよ」
言い方が、ぶっきらぼうだった。だが、その顔は怒っていなかった。
「十八人が二度やって、どっちも人を減らしただけだ。あんたは一人でやって、誰も減らさなかった。それを『倒せていません』で片づけられると、こっちの立つ瀬がない」
俺は、何も言えなかった。
褒められることに慣れていない、という話ではない。剣が届かなかった事実は変わらないし、あれは樹海で膨れて、いつかまた出てくる。今日助かった人たちの、その次があるとは限らない。
だが、それを言ったところで、この男に返せるものは何もなかった。
「……ありがとうございます」
「礼を言うのはこっちだ」
男は屈んで、俺の右腕を肩に回した。
「ハインツだ」
「え?」
「名前だ。二日も一緒に歩くんだ、頭だの何だのと呼ばれるのは気色が悪い」
「……ヴァルドです」
「知ってる。町中が言ってた」
ハインツは、俺を引き上げながら鼻を鳴らした。
「立てるか。無理なら担ぐ」
「歩けます」
歩けなかった。結局、半分ほど担がれて、俺は畑を横切った。
北門から、人が戻りはじめていた。荷を担いだ列が街道を引き返してきて、門のところで足を止めては、南の壁のほうを窺っている。柵が倒れたままなのを見て、それでようやく中へ入っていく。子供の泣き声と、名前を呼ぶ声が、あちこちで上がっていた。
肩は、町の婆さんに手当てしてもらった。橋の手前の家に住んでいると聞いたが、その婆さんも避難していた口で、俺が着いたころには戻ってきていた。傷口を洗って、薬草を貼って、その上から布を重ねる。
「しっかり縛るからね。痛むよ」
と言って、実際、締め上げられたときは息が止まりかけた。
二日間宿で休んで、三日目の朝、俺たちは町を出た。
王都まで二日かかる。荷車には追いつかない。あちらは先に出ているし、こちらは俺という怪我人を抱えている。
街道を歩きながら、エーリクが何度も後ろを振り返っていた。
「三年いた町ですから」
訊いてもいないのに、彼はそう言った。
「石が減れば、司祭様たちも起きられます。起きられたら、また回りはじめます。そうしたら、戻ってきます」
「戻るんですか?」
「私の任地ですから」
当たり前のことを言う顔だった。
王都に着いたのは、二日後の夕方だった。
東門をくぐって、まっすぐ探索者ギルドへ向かった。
広間は相変わらず騒がしい。壁一面の依頼書も、長机も、あの日のままだ。半月ばかり離れていただけなのに、ずいぶん経った気がした。
窓口には、あの退屈そうな顔の女が座っていた。
「エルベルク教会、浄化の応援」
俺は木札と、判を押された紙を出した。
女は紙を検分して、それから俺の顔を見て、次に俺の左肩を見た。服の下で包帯が膨らんでいるのが分かるらしい。
「日当二十日ぶん。銀貨六枚」
「二十日? 行っていたのは、その半分ほどです。掲示の報酬より多すぎませんか?」
「教会側の申請よ。文句があるなら教会に言って」
女は銀貨を数えて、袋に入れて、こちらへ滑らせた。
「達成の記録は入れておくわ。……それから」
彼女は帳面に何か書き込む手を止めた。
「受肉型の件、こっちにも報告が来てる」
背筋が固くなった。
「討伐隊が二度潰れた案件が、宙に浮いてるの。誰も受けないまま、化け物のほうが消えたって。町の連中は、通りすがりの探索者が追い出したって言ってるらしいけど」
「……そうですか」
「等級不問の応援に行った人が、二等級の依頼に手を出すはずないものね」
女は帳面を閉じた。
「そういうことにしておくわ」
俺は頭を下げて、窓口を離れた。
外へ出ると、探索者たちが荷車の脇に集まっていた。三台とも無事に着いている。だが荷は積んだままで、御者たちは手綱を握ったまま待っていた。
引き渡しには、判の押された書付が要る。それを持っているのはエーリクだ。俺たちが着くまで、二日、待たせていたことになる。
そのエーリクが、荷台の脇で御者に何か詫びていた。ここから大聖堂までは、あと少しだ。
「あんたは、もういい」
ハインツが、そう言った。
「教会まで運ぶだけだ。人手は足りてる。二日も歩かせちまったんだ、あとは休め」
「最後まで行きます」
「馬鹿を言え。その肩で二日歩いてきたばっかりだろうが」
体力はともかく、押し問答をする気力がなかった。
実のところ、助かった。大聖堂の前で荷を降ろす場に立てば、誰かに顔を覚えられる。あそこには、俺が王子だったころに見た司祭が何人もいる。
エーリクが、こちらへ歩いてきた。
「ヴァルドさん」
「はい」
彼は何か言いかけて、少し黙った。
「……いえ。町を出るとき、井戸の水を汲んできました。まだ濁っていますが、戻ったころに澄んでいたら、それはあなたのおかげです」
「俺は、運んだだけです」
「ええ。私もそう書きます」
彼は少し笑って、それから頭を下げて、荷車のほうへ戻っていった。
俺は、三台が通りの角を曲がって見えなくなるまで、そこに立っていた。
それから、西の裏通りへ足を向けた。
クラウスの家は、そちらにある。




