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神殺しの罪人は、三度目の生で壊した世界に償う  作者: 放浪猫
三度目の生

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25話

 窪地の底で、俺は足を止めた。

 黒い塊が、畑を踏み潰しながら降りてくる。雑草が黒い土に呑まれて、そのまま形をなくしていく。

 誰も見ていない。

 その事実を、腹の底の火が、すぐに拾い上げた。


 ——ここなら、何をしてもいい。


 その通りだった。町の壁は遠いし、荷車は北へ走っている。ここで俺が何を使おうと、誰にも見えない。三日かけて我慢してきたものを、いま解いたところで、誰にも知られない。

「知られないなら、やっていい」というのが、いちばん質の悪い理屈だ。

 あの白い場所で、俺はそれをやった。誰も見ていなかった。止める者もいなかった。だから、際限がなくなった。


 俺は息を吐いて、剣を構え直した。

 塊の全体を視界に入れたまま、隅から隅まで観察する。崩れて戻る輪郭の、どこがわずかに速いか。饐えた匂いが、どちらから濃く流れてくるか。目で見ながら、腹の底で聞く。三年、部屋の中でやってきたのと同じことだ。あの塊の中で、瘴気がどう流れているのかを探る。


 あった。塊の中に一つだけ、流れの向きが違う場所がある。渦の中心だ。周りのものが、そこへ吸い込まれ、同時に吐き出されている。

 魔石だ。犬型が腹に持っていたのと同じものだが、大きさが違う。あれは指の先ほどだった。これは、たぶん拳ほどある。

 その石が、この形を保っている。抜けば、あとは瘴気に戻る。散ったものは、放っておいてもいずれ薄まる。


 問題は、渦が動いていることだった。

 塊の中を、ゆっくりと回っている。胴の右側にあると思えば、次の呼吸では地面すれすれまで落ちている。規則性がない。外から当たりをつけられるものではない。槍が空を刺したのも当然だ。あの男たちは、狙うべきものが見えていなかった。

 俺には、見える。だが、見えるだけでは届かない。柔らかい泥の中を、刃は沈むだけだ。切っ先が渦に届くころには、渦のほうが逃げている。追いかけっこになれば、先に力尽きるのは俺だ。頭の奥は、もう焼けはじめている。


 ただ——と、そこで思った。

 神気は瘴気を浄化する。石に触れて意識を通せば溶けるのは、そういうことだ。ならば、刃のほうに纏わせたらどうなる。

 形のないものでも、通り抜けるのではなく、触れた端から浄めながら断てるのではないか。

 中で動く一点を捕らえられないのなら、動けなくなるまで細切れにしてしまえばいい。

 纏わせる方法なら、俺は知っている。


 剣を握り直した。

 あの森で、俺は硬い外皮を持つやつを斬った。見えない壁を刃の形に貼りつけて、薄く、細く、刃に沿わせて。掴むまでに何日もかかったし、一度斬るごとに割れて、纏わせ直す隙に抉られた。それでも、あれなら通った。

 中身は足りている。この町へ来てから吸った分に、教会で五十ばかり通した分が乗っている。器の底が見えるような状態ではない。


 分からないのは、二つだ。

 この身体で、あのころと同じように纏わせられるのか。それが一つ。

 もう一つは、断ったあとだ。槍でも穴は開く。刃も入る。問題はそこではなく、切り離した先がどうなるかだ。魔石は一つしかない。石のない側を断ち落とせば、そこは寄り戻れずに散るはずだ。散らせるなら、あれは削れる。石を抱えた胴だけが小さくなっていって、いつかは剣の届く大きさになる。

 ならなければ、断った端から繋がって、こちらの纏いだけが擦り減って終わる。


 だが、いま思いつく手段はこれしかない。

 右手の中の刃に、意識を這わせた。器の口を、細く開ける。

 流れ出したものが、鋼の面をなぞって薄く伸びていく。

 ——そこで、黒い塊が跳ねた。

 跳ねた、としか言いようがなかった。

 伸ばしかけていた腕を引き戻し、胴を縮めて、こちらに背を向ける。俺が踏み込むより先に、それは窪地の縁を這い上がっていた。


「待て!」


 声が出た。追おうとして、膝が笑った。

 黒いものは畑を突っ切り、街道を跨いで、東へ向かっていた。町とは逆の方角だ。街道の向こうには、放置された林があり、その先は樹海へ続いている。

 濃いほうへ帰っていく。

 考えるより先に、腹の底が理解していた。あれは瘴気が形を持ったものだ。俺が刃に纏わせようとしたものは、その対極にある。近づけば消える。だから離れた。


 知恵ではない。逃げるという判断ですらなかったのだろう。火に手を入れれば引っ込めるのと同じで、そういうふうにできているだけだ。

 俺は、器の口を閉じた。

 纏わせかけたものが、行き場をなくして刃の上で散った。斬るべきものは、もういない。

 膝が地面についた。

 息が上がっている。強化を切ると、左肩から背にかけて、堪えていた熱が一度に噴き出した。服が裂けて、血が滲んでいる。いつやられたのかも覚えていない。


 東の林の縁で、黒い影がひとつ、下生えの中へ沈んでいくのが見えた。

 それきり、動くものはなかった。

 俺は、そこへ倒れ込んだ。

 空が明るい。まだ朝だ。半日も経っていない。


 仰向けのまま、俺は自分の右手を見ていた。刃には何も残っていない。纏わせようとした痕跡すら、もうどこにもなかった。

 届いたのかどうかも、分からずじまいだ。

 あのまま踏み込めていれば、斬れたのか。それとも、纏わせた端から泥に呑まれて、俺のほうが潰されていたのか。

 確かめる機会は、逃げていった。


 町の人間は無事で、荷車は石を積んで北の道を走っている。エーリクは判を押した紙を持っている。当座のことは、それで片づいた。

 だが、あれは死んでいない。

 樹海へ帰って、また濃いところで膨れて、いつか戻ってくる。今度は、俺が引き付けても間に合わない場所に出るかもしれない。


 剣では、届かなかった。

 あの腹の声に従っていれば、斬れたのだろうか。中庭で弟の手首を落としたのは、あれだ。だが、あれは俺が振るったものではない。俺が保てなくなったときに、勝手に出てくる。

 狙って使えるものなら、とっくに使っている。

 神気を纏わせれば、近づいた端から逃げられる。


 ——別の手が、要る。

 それは、はっきりしていた。

 神気でも、あの火でもないもの。剣が通らない相手に、外から届くもの。

 考えかけて、そこで意識が途切れた。

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