24話
問題は、どうやって振り向かせるかだった。
あれは瘴気が形になったものだ。だとすれば、寄っていく先も瘴気のはずだ。三日のあいだ、俺は教会の箱を開けては閉め、詰め替えては打ち直していた。そのたびに、溜まっていた匂いが外へ流れていたことになる。
——俺が呼んだのか?
考えるのは後にした。
俺は息を深く吸った。腹の底で捕まえ、胸で変える。いつもより大きく、速く。城にいたころは、一晩かけても杯一杯にもならなかった。あそこが薄かっただけだ。ここには、いくらでもある。
周りのものが、俺のほうへ流れ出した。
黒い塊が、止まった。
前側の膨らみが、ぐるりとこちらへ向く。目に当たるものはないままだ。それでも、見られたのが分かった。
あれから見れば、俺は歩く穴だ。瘴気が吸い込まれて出てこない場所が、ひとつ、目の前にある。
「こっちだ!」
言葉が通じるとは思っていない。届いたのは声ではなく、腹の底にあるものだろう。
黒いものが伸びてきた。
身体を強化する。骨、腱、筋、神経の順。三年やり続けて、いまは息をするのと変わらない。今日は神経に厚く配る。避け続けるのに要るのは力ではなく、反応の速さだ。神気は使わない。使えば、腹の火に薪をくべる。
半歩、右へ踏み込む。体の軸を、攻撃の線から外す。
黒い先端が左肩の横を通り過ぎた。風が生臭い。速いが、直線だ。犬型のときと同じで、こいつはフェイントを使わない。虚を混ぜてこないなら、見えた攻撃をそのまま避ければいい。
躱しざま、先端の動きが締まるのが見えた。しなっていた鞭が、当たる直前でこん棒に変わる。斬られるときは泥、殴るときは鞭からこん棒。都合のいい身体をしている。
もう半歩、今度は後ろへステップを踏む。
二撃目は横の薙ぎ払い。かがんで、頭の上を通す。土と一緒に、柵の残りが吹き飛んだ。
三撃目は、三方向から同時に来た。脚と呼んでいたものが、そのまま腕にもなるらしい。正面から袈裟に、右から薙ぎ、遅れて左からも。
囲まれる形だ。過去あの森で、俺は何度もこれで削られた。速く動けても、行く先を塞がれれば同じだ。前、後ろ、左、右。四つ潰されたら、そこで終わる。
覚えたのは、逃げ場を探すことではない。囲みが閉じきる前に、いちばん近い隙間へ自分から入り込む。振り上げた腕の内懐は、いつでも空いている。
右足で地を噛んで、正面へ入った。
袈裟に落ちてくる腕の、根元寄りをくぐる。すれ違いざま、右と左の二本が俺のいた場所で噛み合った。こん棒とこん棒だ。鈍い音がして、二本ともそこで止まる。
神経をより強化したぶんが、ここで効いてきた。
視界が、妙に静かになる。あれの動きが、水の中を進んでいるように見えた。遅くなったわけではない。俺の方が速いだけだ。頭の奥が熱を持ちはじめている。この感じは、あまり良くない。
四撃目が、真上から打ち下ろされる。
跳んでも間に合わない。だから、避けるのをやめた。
剣を立て、逸らせる。刃を向ければ食い込んで持っていかれるだけだ。鎬を斜めに寝かせて、当たる面を作った。柔らかいうちに触れれば沈むが、打つ一瞬だけ、あれは硬いこん棒になる。
衝撃が、柄から肩まで抜けた。
歯を食いしばって、角度をつけ、受け流す。斬るのでも、止めるのでもない。滑らせて、線をずらす。硬いままの先端が俺の右を通り過ぎ、地面を砕き、土がはねた。
——弾ける。
それが分かってからは、少し楽になった。
伸びる。鎬で受ける。流す。あれの先端は、自分の勢いのまま明後日へ落ちていく。柔らかい胴に刃は立たないが、殴りにきた腕だけは、こちらの都合で動かせる。
二本まとめて来たときは、片方を内へ流しつつ、体ごと下を潜り抜けた。流された腕が、もう片方に噛み合う。こん棒同士が衝撃で止まる、その一拍で、また半歩下がる。
当たれば死ぬ。それは分かった。
だから、当たらない場所に立ち続けるしかない。塊が伸びきったところで半歩詰め、引き戻されるのに合わせてまた退がりながら、一撃ごとに南へ寄っていく。近づきすぎれば潰されるし、離れすぎれば興味を失って町へ引き返すだろうから、その幅を探りながら躱していく。
視界の隅で、荷車の車輪が動き始めた。
目は向けない。向ければ、あれの目——目はないが——が、そちらへ向く。
「北へ! 止まらないで!」
エーリクの声だ。悲鳴に混じって、それだけがはっきり通っていた。誰かが泣いている。子供の声。老人を担いでいるらしい足音。
じりじりと下がって、倒れた柵のところまで来た。そこを越えれば、放置された畑だ。雑草が腰まで伸びている。走りにくいが、それはあちらも同じだろう。
もう一撃を、今度は真後ろへ跳んで避けた。着地で膝がきしむ。強化を切らさないように息を整えて、また一歩。
黒い塊が、柵を踏み越えてきた。
町から出て、畑を抜け、街道の脇の窪地まで来たとき、俺は初めて後ろを見た。
石壁の向こうで、荷車が三台、北の道を走っていた。人の列がそれに続いている。誰も、こちらを見ていない。見ている余裕がない。
息が上がっていた。汗が顎から落ちる。俺は剣を握り直した。




