21話
その夜、俺は教会の隅を借りて寝た。
神官はエーリクと名乗った。二十一だという。俺より六つ上だ。
「三年前に来ました。学舎を出たばかりで、ここが初めての任地です」
堂の隅で、薄い粥を分けてもらいながら、彼はそう言った。
「そのころは、司祭様が五人おられました。今は三人で、三人とも床です」
「二人は」
「一昨年と、去年に」
それ以上は言わなかった。
「明日、本当に一人でやるんですか?」
「やります」
エーリクは、粥の椀を両手で包んだまま言った。
「井戸の水が濁ったと言っていたでしょう。あれは石のせいです。この教会に溜めたぶんが、床から地面へ滲んでいる。私が浄めなければ、あの井戸は死にます。三軒先の井戸も、そのうち」
「あなたが倒れたら、次は誰が?」
「わかりません」
あっさりと、彼は続けた。
「わかりませんが、明日やらなければ、今日水を飲む子供が死にます。明後日のことは、明後日の誰かが考えるのでしょう」
俺は、その顔を見ていた。痩せこけて、目の下が落ちくぼんで、二十一には見えない。だが、その目は据わっていた。諦めているのではない。順番をつけているだけだ。
——似ている、と思った。
前世で——日本で、俺も同じことを考えていた。明日の薬代のことを考えて、来月の家賃のことは考えないようにしていた。考えると動けなくなるからだ。目の前の一日を回すために、その先を切り捨てる。
そういう人間の顔を、俺は知っている。
「エーリクさん」
「はい」
「もし、あの石を全部浄める方法があったら、どうしますか?」
エーリクは、きょとんとした顔をした。それから、少し笑った。
「聖者様でも来ていただかない限り、無理でしょう」
「もし、来たら」
「跪いて、足に口づけますとも」
冗談めかした言い方だった。だが、目は笑っていなかった。
俺は椀を置いて、言った。
「聖者は来ません。だから、別の手を考えました」
「別の手……ですか?」
「石を王都へ運びます」
エーリクが瞬きをした。
「……運ぶ?」
「王都の大聖堂なら、人も揃っています。ここで浄めきれないなら、浄められる場所へ持っていけばいい。石がこの堂からなくなれば、床から滲むものも止まります。井戸も、それ以上は悪くなりません。滲むもとがなくなれば、水はそのうち元に戻ります」
「東の町では駄目なのですか。ここより樹海に近いぶん、聖職者も多いのでは」
「逆でしょう。あちらは、いま何箱溜まっていますか?」
エーリクが黙った。
「どこも同じです。持っていけば、その町の司祭が代わりに潰れる。八百を捌けるのは、大聖堂のほかにありません」
「……ですが、運び出すまでのあいだは」
「汚れていない井戸は、いくつありますか?」
エーリクが顔を上げた。
「北側に、三つ。まだ濁ってはいません」
「なら、それまでは、そちらから汲ませてください。教会から遠い順に。桶を担いで歩くのは面倒でしょうが、面倒で済む話です」
彼は、しばらく黙っていた。それから、首を横に振った。
「王都から人を回すという話は、出ています」
「いつ来るかは、誰も知らないと聞きました」
「……ええ」
「待つのをやめて、こちらから持っていく話です。向きが逆なだけで、やることは同じでしょう」
「ですが、それは……」
「それに、俺がここへ来たのは、石を運ぶためです」
懐から、判の押された紙を出した。
「応援要請を受けてきました。魔力はないと、ギルドで言ってあります。それでも運ぶ手が足りないなら役に立つと言って、この紙をもらった。教会の中で運ぶのも、王都まで運ぶのも、運ぶことに変わりはありません」
エーリクは、椀を床に置いた。指が震えているのが、灯の下でも分かった。疲れのせいなのか、別のもののせいなのかは、分からない。
「無理です」
と、彼は言った。声に苛立ちが混じっていた。
「三つ、無理があります」
「聞かせてください」
「未浄化の石を教会の外へ出すには、司祭の許しが要ります。付き添いも。お三方とも床です」
「二つ目は」
「荷車と、人手です。この町に、もう男手が残っていません。畑も半分捨てられているのを、ご覧になったでしょう」
「三つ目」
「街道です」
エーリクは俺を見た。
「西へ二日。その手前に、討伐隊を二度潰した化け物がいます。石を積んだ荷車で、そこを通る」
もっともな話だった。だから俺は、順に潰していくことにした。
「三つ目からいきます。荷車は、いま西へ流れています」
「……逃げている荷馬車のことですか?」
「ここへ来る途中で、何台もすれ違いました。商いをやめて王都へ引き返す連中です。荷は積んでいません。空のまま帰る荷馬車に、石を載せてもらう」
エーリクが口を開けた。
「そんなことを、承知するでしょうか?」
「街道が死んだままなら、あの人たちの商いも死にます。石が減って、司祭が起きて、討伐が回りだせば街道が戻る。載せるのは帰り道のついでです。損はない」
「危ないのは、同じことでは?」
「危ないのは、いま逃げている連中も同じです。どうせ通る道なら、荷を載せて通ったほうが金になる」
彼は何か言いかけて、やめた。
「二つ目。人手は、俺が出ます。積み込みも、道中の護衛も」
「あなた一人で」
「探索者ギルドに、護衛の依頼を出してください。等級不問で構いません。王都へ戻る組は、いま掃いて捨てるほどいます。帰りがけに銅貨がもらえるなら、乗る者はいる」
嘘ではなかった。街道沿いの野営で、俺は現に何人か見ている。仕事を失って王都へ戻る探索者たちだ。
「一つ目。許しの話ですが」
俺は、そこで少し言葉を選んだ。
「あなたが書けばいい」
エーリクの顔が強張った。
「私は司祭ではありません」
「今この教会で立っているのは、あなただけです」
「規則です。破れば、私は……破門です。分かって言っておいでですか」
「罰を受けるんでしょうね。井戸の水を飲んだ子供が死ぬのと、あなたが罰を受けるのと、どちらが取り返しがつきますか?」
エーリクは、俺の顔を見たまま動かなかった。
薄い灯が、彼の頬の影を深くしていた。二十一の男が、そこで自分の首を数えているのが分かった。学舎を出てから三年、規則の内側だけで生きてきた人間だ。
やがて、彼は口を開いた。
「あなたは、何をしにここへ来たのですか?」
俺は、少し考えた。本当のことは言えない。百六十年前に神を殺したのは俺で、この町がこうなっているのは俺のせいで、だから返しに来た——などと言えるはずがない。
だが、嘘も言いたくなかった。
「借りを返しに来ました」
「借り、ですか?」
「昔、俺が壊したものがあります。直す方法はもうないんですが、同じ形のものを、別の場所に置くことならできるかもしれない」
我ながら、要領を得ない答えだった。
だがエーリクは、それを聞いて、ゆっくりとうなずいた。
「そうですか」
エーリクは薄く笑った。
「よくわかりませんが、嘘をついていないことは分かります。嘘をつく者は、もっとうまく喋りますから」
彼は立ち上がって、祭壇の脇の棚から紙を出した。
「書きます。判は、司祭様の枕元で押していただきます。起きられずとも、手は動きますから」




