19話
宿に戻って、戸を閉めた。
右の手のひらを上に向けて、握るような形に指を曲げる。何もない場所から、革の袋が落ちてきた。
城を出るときに用意した金だ。離宮に転がっていた装身具を、城下の古物屋で叩き売った。母の遺品ではない。王子として形ばかり与えられて、誰も気に留めなかった品ばかりだ。
中身を寝台に空けて、数えた。銀貨が二十一枚と、銅貨が少し。
思ったより減っていた。宿代と、飯代と、その他もろもろ。稼ぎのほうは薬草と鼠で銅貨を積む程度だから、追いつくはずもない。
この金がなくなったとき、俺は本当に十等級の新人になる。
それでいい、とは思っていた。あの城から持ってきたものが手元から消えるのは、むしろ都合がいい。
ただ、使い道は選ばなければならない。
東の街道には魔物が出ていて、そこを二日ほど歩く。同行者はいない。借り物の短刀は魔石を掻き出すための道具で、獣とやり合う道具ではない。
犬型の一頭なら、素手で足りた。運がよかったのではない。三年なぞってきた型からすれば、あの獣の動きは直線的すぎただけだ。
だが、素手で魔物を捻じ伏せる子供は、見た者の記憶に残る。街道に出ているのが犬型だけとも限らない。
剣は、用意しておく必要がある。
袋の口を縛りながら、俺は自分の右手を見ていた。
ひと月余り前、この手は真剣を持っていた。弟に押しつけられた、刃引きもしていないやつだ。あれで何をしたかは覚えている。手首が落ちる感触も、その軽さも。
剣を持てば、またできてしまう。
だが持たなければ、エルベルクには行けない。教会に積まれているという石にも、届かない。
俺は袋を懐に入れて、宿を出た。
武具屋は南門の内側に何軒か並んでいた。一番端の、看板の字が剥げている店に入った。
薄暗い。壁一面に中古の刃物が吊ってある。手入れはされているが、どれも誰かが使い終えたものだ。持ち主が引退したか、死んだか、質に流したか。
「見るだけなら好きにしな」
奥から声がした。年寄りだ。台の向こうで何かを研いでいる。右手の指が、二本足りなかった。
俺は棚の前を端から歩いた。
両手剣は要らない。曲刀も違う。俺の型は、右手一本で振り抜くように組み直してある。
三本目に手を伸ばした。片手用の直剣で、装飾はない。鍔は簡素な十字。刃こぼれを打ち直した跡が、光の加減で薄く見えた。
握ってみると柄が少し太い気がする。だが指をかける位置を一つずらせば、力の乗る場所は変わらない。肘を落として、右の爪先を半分だけ内へ入れる。
腰から下が、勝手に据わった。三年、姿見の前でやってきた形だ。
狭い店の中では振れない。だから切っ先を胸の高さまで上げて、そこで止めた。半歩だけ踏み込んで、戻す。刃の重さが手首のどこに乗るのかを確かめる。素直な一本だった。
そこで、研ぐ音が止まった。
「お前、どこで習った?」
顔を上げると、年寄りがこちらを見ていた。
「……独学です」
「嘘をつくな」
布で刃を拭いながら、彼は言った。
「その構えは東のだ。ヴァルトハイムのあたりで、代々教えてる型だよ。真似ただけの手つきじゃない。誰かに直されてる」
背中を、熱が駆け上がった。
百六十年前の型だ。あの人が俺に教えて、それから領地へ帰って、子供らに教えて、それが今も残っている。図書室でそう読んだときには、ただ嬉しかった。
こんな形で言い当てられるとは思っていなかった。
「……昔、人に」
「そうかい」
年寄りは、それ以上聞かなかった。この街では、そういう答え方をする人間が珍しくないのだろう。
「銀貨八枚だ。研ぎ直しはしてある。鞘は付けてやる」
ほかに、革の胸当てと外套を一枚。水袋。火口箱。包帯を多めに。締めて銀貨十一枚と、銅貨が幾らか。袋の半分が消えた。
帰りにギルドへ寄って、借りていた短刀を買い取った。銅貨五枚。魔石を掻き出すには、あの粗末な刃のほうが具合がいい。
窓口を離れたところで、声をかけられた。
「おい、新入り」
広間の隅で、探索者が三人ばかり卓を囲んでいた。声をかけてきたのは、そのうちの一人だ。二十半ばくらいの、日に焼けた男。悪意のある顔ではなかった。
「その剣、今日買ったな。鞘の色でわかる」
「ええ」
「裏庭が空いてる。少し打ち合ってやろうか。振り方も知らずに街道へ出ると死ぬぞ」
親切だった。実際、そのとおりなのだろう。十等級の新人が、買ったばかりの剣を提げて東へ行こうとしている。止めはしないが、せめて一度振らせてやろうというのは、まともな大人の考え方だ。
「いえ、結構です」
「遠慮するなって。怪我はさせんよ」
「そうではなくて」
言いかけて、やめた。
説明のしようがない。加減の要る戦いはしないことにしている、と言ったところで、意味が通らないだろう。中庭で弟の手首を落としたときの話をするわけにもいかない。
あれは、本気を出したのではなかった。加減をしようとして、加減の効かないものが出てきたのだ。木剣なら止まる。真剣でも、普通なら止まる。俺の場合は、止まらない。
「やらないんです」
「はあ? なんだそりゃ」
「決闘なら、受けます」
男の笑いが、途中で止まった。
卓の空気が変わったのがわかった。冗談として流すには、俺の言い方が静かすぎたのだろう。
「……剣を抜くのは、殺し殺される覚悟があるときだけにしています」
俺は頭を下げて、ギルドを出た。
背中のほうで、誰かが「変な子供だ」と言うのが聞こえた。受付の女と、同じ言葉だった。
その夜、宿の部屋で鞘を払った。
狭い。まともに振れば壁を削る。だから振らない。握って、緩めて、握り直す。膝の角度を確かめる。三年やってきたのと同じことを、木の棒ではなく鉄でやっただけだ。
刃が、灯の色を鈍く返した。
「守る者」という意味の名を、俺は名乗っている。あの人がどういうつもりでその音を選んだのかは知らない。ただ、言葉としての意味は、あとから調べて分かった。
名前のほうが先に決まっていて、中身が追いついていない。
俺は鞘に納めて、寝台に転がった。
この剣で人を斬るつもりはない。斬るなら魔物だ。教会に積まれた石を減らすために、その手前にいるやつを片づける。そういう道具として使う。
決めておけば、あの黒い火が出てきたときに、一度は踏みとどまれる気がした。
翌朝、東門を出た。
腰に剣。背に外套と荷。木札の裏には、刻みが一つ。
器に放り込めば手ぶらで歩ける。だが荷を持たない旅人は、それだけで覚えられる。あの受付の女に眺められたときに、それは学んだ。
ちぐはぐな格好だと、自分でも思った。




