16話
三日間、クラウスの家に潜んだ。
外の様子は、クラウスが仕入れてきた。第一王子が乱心して弟王子と騎士団副団長に重傷を負わせ、そのまま出奔した——というのが、城の出した話だった。人相書きが出回り、門という門に兵が立っているという。
「腕のないほうの絵だ」
クラウスは、市場でこっそり写してきた紙を広げてみせた。粗い線で描かれた顔。その左袖が、空になっている。
「よく描けているか?」
「似ていないな」
事実だった。目の位置も、輪郭も、俺の顔とは違う。似せて描く気がなかったのか、そもそも描いた人間が俺の顔をろくに見たことがなかったのか。おそらく後者だ。
十五年、誰にも見られずに生きてきたことが、こんな形で役に立つとは思わなかった。
四日目の朝、俺は職人街を出た。
探索者ギルドは、王都の南門近くにあった。
三階建ての、飾り気のない石造りだ。看板には剣と天秤の紋章。入り口の前に人が絶えず出入りしていて、革鎧の男や、杖を提げた女や、大きな荷を背負った一団がすれ違っていく。
中は騒がしかった。広間に長机が並び、討伐依頼の紙が壁一面に貼り出されている。血の匂いと、金属油と、汗の匂い。奥の帳場には行列ができていて、順番待ちの連中が魔石の入った袋を提げて立っていた。
誰も俺を見なかった。それが、妙な感じだった。城でも誰も俺を見なかったが、あれは見ないようにされていたのだ。ここでは違う。単に、俺が誰でもないから見られない。
当たり前の顔をして、当たり前に無視される。
こういうものかと思った。登録の窓口には、退屈そうな顔の女が座っていた。三十くらいだろうか。羽根ペンを指で回しながら、俺が近づくのを見ていた。
「新規?」
「はい」
「歳は」
「十五です」
女は俺を上から下まで眺めた。クラウスの擦り切れた麻の服を着ていて、荷も武器も持っていない。
「あのね、坊や。ここは食い詰めた子供が来るところじゃないの。魔物が出るのよ。死ぬのよ」
「知っています」
「知ってる子はそんな顔しないの」
それでも、女は帳面を引き寄せた。追い返す気はないらしい。この手のやり取りを、日に何度もやっているのだろう。
「まあいいわ。うちは誰でも入れる。死ぬのも本人の勝手。ただし最初は一番下の等級から。薬草採りと、街道の見回りと、下水の鼠退治」
「構いません」
「読み書きは」
「できます」
「あら」
女が、初めて少し顔を上げた。
「珍しいわね。じゃあ自分で書いて。名前と、出身と、得意なこと」
羽根ペンを差し出された。俺はそれを、右手で受け取った。
帳面が開かれている。等級、名前、出身、備考。同じ書式の行が、上へ上へと何百と続いている。俺の前にここへ来た人間たちの名前だ。掠れた字も、几帳面な字も、他人に代筆させたらしい行もある。
その一番下の、空いた行。ペン先を、そこへ置いて、手が止まった。
この字を書けば、俺はジークベルトではなくなる。
あの名を惜しいとは思わない。十五年、あれは俺を下にみる者たちが呼ぶための記号だった。母を殺した子供の名で、奉納すらできない出来損ないの名で、この国が持て余していた名だ。
だが、捨てるということは、母が俺につけた名を捨てるということでもある。
あの人は、俺が生まれたとき、どんな顔でこの名を選んだのだろう。
欠けた子だと知る前だったのか、知ったあとだったのか。それすら、俺は知らない。
——それでも。
俺は、ペンを動かした。
ヴァルド
短い綴りが、帳面の上に並んだ。
何も起きなかった。空は割れないし、床も揺れない。ただ、掠れたインクの跡が紙に残っただけだ。
それでも、俺は、しばらくその字を見ていた。
百六十年あまり前、あの森で、傷だらけの女が俺の目を見ながらこの音をくれた。あのときの俺には、それが何を意味するのかわからなかった。ただ、彼女が俺を指してその音を出すたび、腹の奥があたたかくなるのを感じていた。
名前というものを、俺はあの人から教わった。込められた意味も、今なら分かる。この国の古い言葉で「守る者」という意味だ。
あの人がどんな気持ちでこの音を選んだのかは、知らない。緑の化け物に名をつけてやろうと思った、その理由も。
だから、これでいい。俺の名前は、これだ。
「出身は」
窓口の女に促されて、俺は我に返った。
「……北の村です。もうありません」
魔物に潰された村なら、いくつもある。図書室で名前も見た。どれか一つを挙げてもよかったが、そこまで詳しく書く必要もないだろう。
「ふうん」
女はそれ以上聞かなかった。この街では、そういう出自の人間が珍しくないのだ。
「得意なことは」
少し考えた。剣、と書くのは正確ではない。三年、部屋の中で型をなぞっただけだ。実戦は、あの中庭での一度きり。
神気、とは書けない。
「隠れることです」
そう書いた。女が眉を上げて、それから、少し笑った。
「変わった子ね。まあ、悪くない。見つからなければ死なないから」
帳面が閉じられた。代わりに、木札を渡された。粗い彫りで、剣と天秤の紋章。裏に等級を示す刻みが一つ。それだけの、なんの飾りもない板きれだ。
「はい、これが身分証。なくしたら再発行に銀貨二枚。死んだら返しに来なくていいわ」
俺は、それを両手で受け取った。
両手で。揃った十本の指で、その札を持った。
「登録完了。ようこそ、探索者ヴァルド」
名を呼ばれた。
百六十年ぶりに、俺は、俺の名前で呼ばれた。
喉の奥が、変な具合に締まった。俺は「どうも」とだけ言って、窓口を離れた。
広間の喧騒の中を、掲示板のほうへ歩いていく。
誰も俺を見ない。カス王子でもなく、欠けた者でもなく、王家の恥でもない。ただの、新入りの探索者が一人、依頼の紙を眺めているだけだ。
それが、どうしようもなく、心地よかった。




