15話
隠れて動くのは、得意だった。
ゴブリンだったころ、俺はそれで生きていた。言葉も力もない小さな身体で、大きなものに見つからずに餌を探す。足音を消し、影を選び、風下に回る。あれは技術ではなく、生き延びるための呼吸だった。
身体は変わっても、その呼吸は残っていた。
中庭を離れてすぐ、俺は走るのをやめた。走れば足音が響くし、視界に入る。回廊の柱の陰に入って、まず衛兵の動きを読んだ。中庭へ向かう連中と、門を固めに行く連中。城の造りは頭に入っている。十五年、他にやることのない子供として、この城のあらゆる隅を歩き回ってきたのだから。
厨房の裏手から使用人の通路へ。洗濯物の運び出し口を抜けて、外壁の内側へ。
そこまでは、誰にも見つからずに来られた。
最後の壁だけは、越えるしかなかった。
見えない足場を三段、宙に組んで、蹴って登った。使った分だけ器の中身が減る。惜しいと思ったが、仕方がない。壁の上から城下を見下ろすと、夕暮れの光の中に赤茶けた屋根が広がっていた。
俺は、そこから飛び降りた。
職人街の端に着いたときには、日が落ちかけていた。
目的地に着き扉を叩く前に、少し迷った。
この男を巻き込むことになる。それは間違いない。だが、他に行くあてがなかった。城下に知り合いは一人しかいないし、金はあっても、血まみれの子供を泊める宿はない。
扉が開いた。
クラウスは俺を見て、それから俺の服を見た。斬られた布と、乾きかけた血。
「入れ」
それだけ言って、俺を中に引き込んだ。
事情は、座ってから話した。
隠すつもりはなかった。ここまで来て隠せるものでもない。俺はラインハルトのことも、ケルナー卿のことも、自分がやったことをそのまま話した。腕を断ったこと。顔を裂いたこと。
クラウスは、黙って聞いていた。
「……そうか」
聞き終わって、その男はそう言った。驚いた様子はなかった。
「クラウス。あんた、驚かないのか?」
「何にだ?」
「俺が、王子だということに」
クラウスは、盛大に鼻を鳴らした。
「小僧。三年前、お前が最初にここへ来た日のことを覚えているか。十三の子供が、供に大人の男を連れて、質のいい外套を着て、片腕がなかった。おまけに読み書きができて、金に困っておらん。明らかに貴族階級だとわかる」
「……」
「この国で片腕のない子供といえば、王家の出来損ないだ。誰でも知っている。私は学者だぞ。目の前にある証拠を数えられん者は学者とは言わん」
「なぜ、黙っていた?」
「聞かないでほしいと言ったのは、お前だ」
それだけ言って、クラウスは湯を沸かしに立った。
傷を洗ってもらって、それから、俺は言った。
「見せたいものがある」
「なんだ?」
「驚かないでくれ、とは言わない。だが、逃げないでほしい」
クラウスが眉を上げた。俺は、左の袖をまくった。肘から先のない、その断面を晒す。
それから、目をつぶり意識を器へ向けた。
三年、貯めてきたものを引き出す。腹の底からではない。上に開いた、どこでもない場所から。溜め込んだそれを、自分の魂そのものへ流し込んでいく。
魂というのは、いわば設計図だ。
肉体はそれに従って組み上がる。図面に欠けがあれば、出来上がる身体も欠ける。俺の左腕と右目が生まれつきなかったのは、神界で抉られた魂の傷が、そのまま図面の欠落として持ち越されたからだ。
だから、腕を生やすのではない。
図面のほうを、書き直す。
熱くはなかった。だが、痛みはあった。魂を無理やり引き伸ばすような、内側から捻じ切られるような痛みだ。歯を食いしばった。息が詰まった。それでも流し続けた。
欠けた部分が、少しずつ埋まっていく。
あの白い場所で、俺はこれを途中でやめさせられた。天使どもが待ってくれなかった。あと少しだったのだ。あのとき塞ぎきれなかった続きを、俺は今、百六十年遅れて、ようやくやっている。
埋まった、と思った瞬間、俺は残りを一気に注ぎ込んだ。
図面を直しただけでは足りない。それに従って身体を組み直すには、また別の力が要る。器の底に残っていたものを、全部そこへ回した。
目をあければそこには左腕があった。
生えたのでも、伸びたのでもない。肘から先が、初めからそこにあったものとして、そこにあった。俺は、その手を握ってみたが、問題なく握れた。
ゴブリンだったころに断たれてから数えれば、百六十年あまりぶりに、俺の左手が、俺の意志で動いた。
目のほうは、意識するまでもなかった。腕が再生したと同時に、設計図通りにそちらも一緒に直っていたらしい。瞼を上げると、視界の右半分に光があった。
部屋の輪郭が、両目で見えた。
奥行きというものを、俺は忘れていた。
器の中身は、ほとんど空になっていた。三年ぶんが、腕一本と目玉一つで消えた。だが、惜しいとは思わなかった。
顔を上げると、クラウスが椅子から立ち上がっていた。
口を半分開けて、俺の左手を凝視している。三十年、音と形の対応表を作り続けてきた男が、たった今、自分の理屈の外にあるものを見た顔だった。
「……何をした?」
「神気だ」
「しん、き」
「神から溢れる力だ。俺が勝手にそう呼んでいるだけで、正しい名かどうかは知らない。俺の身体は、瘴気を吸ってそれに変えられる。生まれつきだ。三年かけて貯めて、それを今、腕と目に使った」
クラウスは、しばらく何も言わなかった。
それから、椅子に座り直して、両手で顔を擦った。
「……お前は、魔力がないのではなかったか?」
「留められないだけだ。生まれた端から、別のものに変えてしまう。だから測っても何も出ない」
「詠唱は?」
「要らない」
「陣は」
「要らない」
クラウスは天井を仰いだ。それから、笑い出した。腹を抱えて、涙を拭いながら笑った。
「三十年だ」
と、彼は言った。
「三十年、私は音と形の間を繋ごうとしてきた。どちらも要らん人間が、目の前でいらん板を運んでおったわけだ」
「あんたの研究が無駄だとは思わない」
「無駄などとは言っておらん」
クラウスは、目尻を拭って俺を見た。
「お前が例外なのだ。例外は、法則の外にある。だから法則の役には立たん。私が知りたいのは法則のほうだ」
そう言って、この男は、まじまじと俺の左手を見た。
「……だが、まったく面白い例外だな」
服は、クラウスが出してくれた。
若いころのものだという、擦り切れた麻の上下だ。丈は少し長かったが、袖を折れば着られた。血のついた王子の服は、竈で燃やした。
「小僧」
着替え終えた俺に、クラウスが言った。
「よく考えろ。お前はもう、片腕でも隻眼でもない」
「……ああ」
「この国で、片腕のない子供といえば王家の出来損ないだ。逆に言えば、両腕の揃った小僧は、王家の出来損ないではあり得ん。誰が何と言おうと、証拠が身体にない」
俺は、自分の左手を見た。
確かにそうだ。逃亡した第一王子を探す者は、まず欠損を探す。片腕と潰れた右目。それがない人間を、誰が疑うだろう。
顔を知っている人間はいる。だが、俺の顔をまともに見た者が、この国にどれだけいるのか。城の連中は俺を見ないようにしてきた。俺の顔を思い出せる人間は、思ったより少ないはずだ。
「別人になれ」
クラウスは、そう言った。
「それも、堂々とだ。隠れて生きようとするな。隠れる者は目立つ。人の多いところで、当たり前の顔をして暮らすほうがよほど見つからん」
「当てがあるのか?」
「探索者ギルドへ行け」
聞き慣れない言葉ではなかった。図書室で読んだことがある。魔物の討伐と魔石の回収を請け負う者たちの組合だ。国ではなく、教会と各領が共同で認可している。
「あそこは、素性を問わん」
クラウスは指を立てた。
「問えんのだ。食い詰め者も、逃げてきた奴隷も、貴族の三男坊もいる。名を名乗って登録すれば、それが身分証になる。この国では、あれが一番手軽に人になれる方法だ」
名を名乗って、登録する。
俺は、そこで初めて、自分に名前がないことに気づいた。
ジークベルト。あの名は、もう使えない。使えば探される。それに、あの名は俺にとって、打たれ続けた十五年そのものだった。捨てるのに、惜しくもない。
では、何と名乗る。
「決めておけ」
とクラウスは言った。
「登録のときに口ごもるな。名を迷う人間は、名を偽っているように見える」
「……ああ」
迷うつもりはなかった。




