14話
マルタは妹の見舞いに、ヨナスは実家の相続の件で、それぞれ数日城を空けることになった。
二人が同時に、というのは、この三年で一度もなかったことだ。おかしいとは思った。だが、どちらの用事も本物だった。マルタの妹は本当に伏せっていたし、ヨナスの父は本当に死んでいた。
嘘ではなく、本当の用事が重なる日を選んだようだ。そういうやり方で仕組んだらしい。
呼びに来たのは、見覚えのない従僕だった。
「ラインハルト殿下が、中庭でお待ちです。稽古のお相手を、と」
断る理由を探したが、見つからなかった。断ればあとで倍になって返ってくる。それは三年の生活でわかっていた。
中庭に出ると、いつもより人が少なかった。
見物人はいる。だが、十人ほどだ。いつもは倍はいる。しかも顔ぶれが違った。ラインハルトの取り巻きと、ケルナー卿の部下たち。それだけだった。
広間の祝宴で騒いでいた連中は、一人もいない。
「兄上」
弟が、剣を提げて立っていた。木剣ではない。鞘から抜き放たれた、刃引きもしていない真剣だった。
「お忙しいところ、申し訳ありません」
「……真剣か?」
「ええ。木剣ではもう、稽古になりませんので」
ラインハルトは事もなげに言った。
「本日は実戦形式で参りましょう。ご心配なく。危のうなればケルナー卿が止めてくださいます」
ケルナー卿が、うやうやしく頭を下げた。右目の下に古い傷のある、四十代くらいの男だ。伯爵で、副団長で、この三年、俺を打ち据えてきた張本人。
「殿下のお命に関わるようなことは、決してございません」
そう言いながら、この男が俺に差し出したのも、やはり真剣だった。
受け取った柄は、俺の手には太すぎた。片腕で扱うことを考えられていない、ただの標準品だ。重い。三年、部屋の中で振ってきた棒とはまるで違う。
逃げ道を探したが、見つからなかった。断れば、あとで倍になって返ってくる。ここで事故を装って殺されるかもしれない、という考えが頭をよぎったが、それでも、断るという選択肢は最初から存在しなかった。
実戦形式。その言葉の意味は、始まってすぐにわかった。
ラインハルトは、いつものように打ち込んでこなかった。間合いを取り、じりじりと回り、こちらの動きを見ている。剣術大会の優勝者の動きだ。以前の、勢いだけで振り回していた弟ではない。
俺は重い剣を右手に提げて、正面を向いて立っていた。
打たれ方は知っている。だが、今日のこれは打たれるでは済まない。倒れさせるためではなく、削るために来ている。
最初の一撃は、膝の外側を掠めた。
布が裂けて、熱い線が走った。浅い。だが浅いのは、浅く入れているからだ。二撃目は肘の上。三撃目は肩。どれも急所ではないが、血は出るし、動きは鈍る。的確だった。
止める、と言ったケルナー卿は、腕を組んで見ているだけだった。
「おや。兄上は、ずいぶん丈夫になられましたね」
ラインハルトが、間合いを取りながら言った。
「二年前なら、もう倒れていた」
答えなかった。
「稽古の成果でしょうか? それとも、城下で何か教わっておいでですか? ……ねえ、兄上」
背筋が、わずかに冷えた。出歩いていることは知られている。行き先までは、まだ調べられていないらしい。腕のない王子がどこで何をしていようと、わざわざ人を使って追うほどの値打ちはない——そう思われているうちが、幸いだった。
「供も連れずに、あんなところをうろついて。何を探しておられるのです?」
「散歩だ」
「散歩……散歩ね」
弟が笑った。取り巻きが追従して笑う。
「兄上。私はね、あなたが嫌いなんですよ」
急に、声の調子が変わった。
「ずっとそうでした。何もできぬくせに、長子というだけで上に置かれている。剣も握れず、魔力もなく、奉納すらできぬ。この国に何ひとつ返さぬまま、飯だけは食っている。腹が立って仕方がない」
刃が、俺の脇腹を薙いだ。
「それでも、まだ我慢できた。あなたが黙って踏まれているうちは。ですが近ごろのあなたは、目つきが違う。何か企んでおいでだ。それが不快でならないのですよ」
俺は、片膝をついた。呼吸を整える。腹の底で、あの冷たいものが揺れている。三年、押さえてきたやつだ。今日は、いつもより近い。
あと少しだ、と自分に言い聞かせた。あと少しで、この城と縁が切れる。
「そういえば」
弟の声が、頭上から降ってきた。
「母上が、実に面白いことを仰っていましたよ」
「……」
「あなたの母君の話です」
石畳を見つめたまま、俺は動かなかった。
「お前を産んだせいで責められて当然だった、と。あんな出来損ないを産んだのだから、王家の血を汚したのだから、責められるのは道理だと」
柄を握る手に、力がこもった。
「それだけではありません。母上は、こうも仰っていた」
やめろ。
「狂っていくあの女を見ているのは、滑稽だった、と」
弟が、笑った。
——ぷつり、と。何かが、切れた。
そこから先を、俺ははっきりとは覚えていない。
覚えているのは、腹の底で押さえつけていたものが、堰を破って一気に噴き上がったことだ。冷たい。熱ではない。氷の刃を喉から流し込まれたような、あの感覚。神界で神を斬っていたときと同じものが、三年の底から立ち上がってきた。
視界が、黒く滲んだ。立ち上がったのは覚えている。踏み込んだのも。手から剣が滑り落ちて、石畳で甲高い音を立てたのも。
手が刃になった。考えてやったのではない。あの白い場所でそうしたように、身体が勝手にそうした。俺の右手が、握るものもないまま、刃と同じ働きをした。
ラインハルトが何か叫んだ。
それから、赤いものが視界に飛んだと同時に、弟の左腕が肘から先を失っていた。
血が石畳に散っている。弟は自分の腕を見て、それから俺を見て、口を開けたまま声を出さなかった。理解が追いついていない顔だった。
「殿下——!」
ケルナー卿が抜刀して踏み込んできた。
俺は振り向いた。ただ、それだけだ。振り向いて、鬱陶しいものを払うように、右手を薙いだ。
ケルナー卿が振り下ろした剣が、抵抗なく断たれた。鋼を斬った手応えすらない。振り抜いた勢いのまま、そのまま男の顔へ届いた。
右半分が裂け、悲鳴が上がった。ケルナー卿が半分になった剣を取り落として、顔を押さえて崩れ落ちる。指の間、右目のあった場所から血が溢れていた。
見物人が逃げ出す音がした。
誰かが、衛兵、と叫んでいた。
俺は、その場に立っていた。
右手を上げて、自分の手のひらを見た。血はついていない。刃で斬ったのではないからだ。あれは肉を裂いたのではなく、そこにあるべき繋がりを断っただけだ。
うずくまって呻いている弟と、顔を押さえて転げ回っている男を、俺は見下ろしていた。
腹の底の火が、まだ燃えていた。
足りない、と言っていた。
まだ足りない。この程度では足りない。もっとだ。この城のすべてを、この国のすべてを——
そこで俺は、止まった。
止まったというより、身体が凍りついた。
知っている。
この感覚を、俺は知っている。
あの白い場所で、詫びる神を斬ったときだ。止めに入った天使を斬ったときだ。手当たり次第に、片端から屠っていたときだ。あのときも、俺は同じことを思っていた。足りない。この程度では足りない。もっとだ。
そして、屠り尽くして、何も残らなかった。
胸の穴は埋まらず、無関係の死だけが澱として沈んだ。世界の力の源が細り、百六十年後の司祭たちが命を削る羽目になった。
また、やった。
同じことを、また、やった。
母は戻らない。
弟の腕を断ったところで、この男の目を潰したところで、あの人が部屋の隅で震えていた時間は、一秒も返ってこない。
わかっていたはずだ。二度も学んだはずなのに、俺はまた同じことをした。
「——ぐ、ぁ」
足元で、弟が呻いた。俺は、その声で我に返った。
血が広がっている。このままでは死ぬ。
俺は膝をついて、弟の腕の断面に右手をかざした。神気を通す。血を止めるだけならすぐだ。ついでにケルナー卿のほうも、と思って顔を上げた。
そこで、動きが止まった。衛兵が走ってくる。回廊の向こうから、十人以上。
俺は、手を引いた。軽く血止めだけをして、立ち上がった。
痛みで歪んだ弟の顔が、こちらを見上げている。そこにあったのは憎悪でも怒りでもなく、ただの、剥き出しの恐怖だった。
年相応の……子供の顔だった。俺は背を向けて、走り出した。




