11話
それから、俺の午後は図書室からクラウスの家に移った。
最初の1月は、本当に片づけだけをやらされた。
床の紙を種類ごとに分け、棚の本を並べ直し、机の器具を磨く。片腕しかないから、時間はかかった。クラウスはそのあいだ何も教えなかった。ただ、俺が紙を仕分ける手つきを、ときどき横目で見ていた。
2ヶ月目に、盤を触らせてもらえた。
「棒はこう持て。縁を撫でるように、だ。力を入れると鳴らん」
言われたとおりにやってみたが、鳴らなかった。何度やっても、擦れる音がするだけだ。クラウスはそれを笑いもせず、ただ「また明日だ」と言った。
鳴らせるようになったのは、十日ほど経ってからだった。
砂が震えて、模様を作る。単純な形だ。だが、自分の手で音を出して、それが形になるのを見たとき、腹の底が妙にざわついた。俺の力とは何の関係もない。ただの物理だ。それなのに、この世界の理の一端に指を触れたような気がした。
「同じ音なら、同じ形になるのか?」
「なる」
クラウスは即答した。
「盤が同じならな。盤の大きさ、厚み、材質、支える場所。どれかが変われば形も変わる。だから陣は、描く場所ごとに違う」
「教会の陣は、写して使うと言っていた」
「そこだ!」
クラウスが指を突き出した。鼻先に届きそうな勢いだった。
「写して使える。ということは、あれは盤の条件を含めて完成しているということだ。どこに描いても同じ術が起きるように、逆算されている。三百年前の連中は、そこまで解いていた。今の教会は写経をしているだけだ」
三百年前。
俺が死んでから百六十年。その百四十年ほど前になる。俺がまだゴブリンにもなっていない時代だ。
「なぜ、途絶えた?」
「知らん」
クラウスは肩をすくめた。
「戦か、疫病か、単に伝える相手を間違えたか。技というのは、そういうもので消える。誰も悪意など持たずに、ただ、消える」
俺は、その言葉を頭の隅に置いた。
消えたものは、もう戻らない。だが、同じ場所に別のものを立てることはできるのかもしれない。
通いはじめて半年ほどで、俺はクラウスの研究の全体像を掴んでいた。
この男がやっているのは、音と形の対応表を作ることだ。ある音を鳴らせばある形が出る。その対応を片端から記録して、逆に、術に必要な形から必要な音を割り出そうとしている。
膨大な作業だった。しかも、ほとんど進んでいなかった。
「盤が足りんのだ!」
ある日、クラウスは紙を放り出して唸った。
「私の盤は円だ。円しか試せん。だが陣には四角も六角もある。板を切るには金が要る。金がないから盤が増えん。盤が増えんから表が埋まらん。三十年だぞ、三十年。ずっとこれだ」
俺は、散らかった机の上を見た。
確かに、盤は二枚しかなかった。あとは紙と、書きかけの図と、乾いたインク壺。
翌週、俺は木の板を三枚持って行った。
離宮の物置に転がっていた棚板を、ヨナスに切ってもらったものだ。四角、六角、それから細長い矩形。表面はやすりで均した。素人の仕事だが、砂を載せるくらいはできる。
クラウスは、それをしばらく無言で見ていた。
「……おい。どこから持ってきた、これは」
「家にあった。誰も使っていない」
「お前の家というのは?」
「聞かないでほしい」
クラウスは、それ以上何も聞かなかった。板を受け取って、その日のうちに四角の盤を鳴らした。砂が動いて、円のときとはまるで違う模様を作った。格子のような、きっちりとした形だ。
クラウスは、その模様を見て、しばらく身動きしなかった。
それから、震える手で紙を引き寄せて、書き写しはじめた。
俺は、その背中を見ていた。
三十年、円しか試せなかった男が、初めて四角を見た。それだけのことだ。俺がやったのは、いらない板を切って持ってきただけだ。神気も権能も何ひとつ使っていない。
それでも、何かを渡した。
胸の奥で、変な感じがした。
言葉にすると陳腐になる。ただ、あの神界で数えきれないほど斬っていたときの、あの底の抜けた感覚とは、まるで逆のところに立っている気がした。
あのときは、屠るたびに穴が深くなった。
今は、板三枚で、少しだけ埋まった。
馬鹿げている。釣り合いがまるで取れていない。神を何柱斬っても埋まらなかったものが、棚板三枚で埋まるはずがない。
それでも、確かに、少し埋まった。
「小僧」
クラウスが、紙から顔を上げずに言った。
「明日、もっと薄い板を持ってこられるか」
「探してみる」
「厚みで形が変わるのだ。二枚あれば比べられる。三枚あれば傾きが出る。……頼む」
「わかった」
帰り道、王都の路地を歩きながら、俺はさっきの感覚のことを考えていた。
腕と目が戻ったら、どうする。俺は、何を返せる。
あの問いには、まだ答えが出ていない。世界に対して何を返すべきかなんて、十三の子供に見当がつくはずもない。
だが、板三枚なら、俺にも渡せた。
それが答えの一部なのかどうかは、わからなかった。ただ、覚えておこうと思った。




