10話
魔方陣のことが、頭に残っていた。
図書室で調べてみたが、出てくるのは初歩的な話ばかりだった。決められた型を正確に写せば、決められた術が起きる。写し間違えれば起きない。以上。まるで料理の写本だ。なぜその型でその術が起きるのかを書いた本は、一冊もなかった。
聖堂そのものが魔方陣だ、と司祭は言った。
あれだけの規模の型を、誰がどうやって設計したのか。三百年前の職人には組めて、今の職人には組めないのはなぜか。そもそも、型と術のあいだに何があるのか。
知りたかった。
力を使うためではない。俺の力は音も型も要らないのだから、その意味では魔方陣など無用だ。ただ、この世界が何でできているのかを、俺はまだ何も知らないままだった。神を殺しておいて、殺した相手の仕事も知らないままでいるのは、どこか居心地が悪い。
ヨナスに聞いてみた。
「わかりかねます」
と、彼はいつもの調子で答えた。
「私は剣を振るしか能のない男です。術のことは術者に、陣のことは陣を組む者に」
「では、そういう者はどこにいる?」
ヨナスは少し黙った。それから、めずらしく言葉を選ぶような顔をした。
「……殿下。学者というものは、二種類おります」
「二種類?」
「教会や王立の学舎に籍を置く者と、そうでない者と。前者に会うには、それなりの手続きと後ろ盾が要ります。殿下のお立場では、難しいかと」
つまり、俺には無理だということだ。第一王子でありながら、この城で俺に手を貸してくれる後ろ盾など一人もいない。
「では、後者は」
「変わり者ばかりです」
ヨナスは正直に言った。
「ですが、会うだけなら容易いです」
クラウスという男の名を聞いたのは、そのときだった。
エルデンハルという都は、丘の上の王城から裾へ向かって広がっている。
城は白い石を積んだ塔の群れで、尖った屋根がいくつも空へ伸びていた。城下から見上げれば、雲の高さに突き刺さっているように見えるという。俺は生まれてからずっとその中にいたので、外からどう見えるのかを知らなかった。
丘を下れば、石造りの街並みが続く。灰色の壁と、赤茶けた屋根。石畳の道が緩やかに曲がりながら坂を下り、その両側に四階、五階の建物が肩を寄せ合って並んでいる。広場には噴水があり、朝には市が立つ。
王都の外れ、職人街のさらに端に、その男は住んでいた。
連れて行ってくれたのはヨナスだ。護衛の役目上、俺を城の外へ出すのは本来なら許されない。だが、俺を外へ出したところで誰も困らないし、誰も気にしない。それが「カス王子」の唯一の利点だった。
外套の頭巾を目深にかぶって、俺は初めて王都の路地を歩いた。
石畳が割れている。溝に水が溜まって、饐えた匂いがする。それでも、人は多かった。荷車が通り、物売りが声を上げ、子供が走り回っている。城の中の、あの静まり返った廊下とはまるで違う。
目的の家は、三階建ての一階部分だった。
扉を叩くと、しばらくして開いた。
出てきたのは、痩せた男だった。歳は五十くらいか。髪は白いものが混じって伸び放題で、頬に煤がついている。目だけがやたらと血走っていた。
「なんだ、うるさい! 今は忙しい」
「魔方陣のことを聞きたい」
言ったのは俺だった。ヨナスが口を開くより先に。
男の目が、初めて俺のほうへ動いた。頭巾の下の顔を見て、それから、左の袖に目を留めた。中身のない袖だ。
「……子供か」
「子供だ」
しっし、と手を振られた。犬でも追い払うような仕草だった。
「帰れ帰れ。玩具の話に付き合う暇はない」
扉が閉まりかけた。俺はその隙間へ、用意していた言葉を投げ込んだ。
「音は、形になるのか?」
扉が、止まった。
沈黙が、しばらく続いた。それから、扉がゆっくりと開いた。男は俺を見下ろしていた。血走った目が、さっきとは違う色をしていた。
「……なんと言った?」
「音は形になるのか、と聞いた。詠唱で術が起きるなら、音が何かをしているはずだ。魔方陣も形で術を起こす。両方が同じことをしているなら、音と形は同じものかもしれない」
言い終わってから、少し後悔した。喋りすぎだ。十三の子供が言うことじゃない。
だが男は、俺の年齢のことなど気にしていないようだった。片手で顎の無精髭を掻きむしって、それから、部屋の奥を親指で指した。
「入れ」
部屋の中は、ひどい有様だった。
床という床に紙が散らばっている。壁には図面が何十枚も貼りつけてあり、その上からさらに書き込みがされている。机の上には金属の器具と、砂を敷いた浅い盤。棚には本が縦横に突っ込まれ、一部は崩れて床に山を作っていた。
「そこの紙は踏むな! ……そっちは踏んでいい」
男——クラウスは、砂の盤を引き寄せた。それから、細い棒で盤の縁を撫でた。
高い音が鳴った。
砂が動いた。
平らに敷かれていた砂が、盤の上で震えて、ひとりでに寄り集まっていく。数を数えるほどの間に、そこには模様ができていた。線が交差し、規則的な形を作っている。
俺は、息を止めていた。
前世で見たことがある。理科の授業か、それとも動画か。板を鳴らすと砂が模様を作る、あれだ。名前は忘れた。だが、原理は覚えている。音が板を震わせて、震えない場所に砂が溜まる。だから形が出る。
「これが答えだ、小僧」
クラウスは、汚れた指で盤を示した。
「音は形になる。形は音の跡だ。逆もまた然り。ならば陣とは、鳴らさずとも鳴っている音の形ではないのか。——私は三十年、これを言い続けている。三十年だぞ。誰ひとり相手にせん」
「なぜ?」
「証明ができんからだ」
クラウスは、吐き捨てるように言った。
「この盤の模様は、術を起こさん。ただの砂の遊びだ。教会の陣は術を起こすが、なぜ起こるのかを教会は語らん。語れんのだ、あれは。写して使っているだけで、組み方を知る者はもうおらん。三百年前の職人は知っていた。今は誰も知らん。だから、私が音と形を繋ごうとしている。」
俺は、床に散らばった図面を見た。
どれも同じような幾何学の図だ。円。多角形。交差する線。その隙間に、細かい文字で音の高さらしきものが書き込まれている。
三十年。
この男は、誰にも相手にされないまま、三十年これをやっていた。
「それで」
クラウスが俺を見た。
「小僧は、なぜそんなことを聞きに来た?」
どう答えるべきか、少し迷った。
本当のことは言えない。神を殺したから、と言えるはずがない。
「知らないままでいるのが、嫌だったから」
結局、そう答えた。嘘ではなかった。
クラウスは、しばらく俺の顔を見ていた。それから、ふん、と鼻を鳴らして、砂の盤をまた引き寄せた。
「明日も来い。片づけを手伝え。話はそれからだ」




