9話
十三の年の儀式は、俺にとって三度目の大聖堂だった。
王族の子は、十になった年から、年に一度、大聖堂の儀式に列席する決まりがある。俺のような扱いの王子でも、頭数には入るらしい。というより、この日ばかりは並べておかないと外聞が悪いのだろう。ヨナスが古びた礼服を引っぱり出してきて、マルタが必死に汚れを落としていた。
これまでの二度は、ただ立っているだけだった。何も見えず、何も聞こえなかった。記憶が戻る前の俺には、あそこで何が行われているのかを感じ取る術がなかったのだから。
馬車の中では、ラインハルトが向かいに座っていて、俺とは目も合わせなかった。俺も合わせなかった。窓の外を流れる王都の街並みを、ただ眺めていた。
大聖堂は、想像していたよりずっと大きかった。
石を積み上げた塔が二本、空へ伸びている。壁面には彫刻が隙間なく彫り込まれ、正面の扉には金の装飾。中へ入ると、天井が呆れるほど高い。色硝子から差し込む光が、床に色の模様を落としていた。
奥に、像が六つ並んでいた。
六本の柱が輪を描いて立ち、その一本ずつの前に、像が一体ずつ据えられている。六柱の神だ。名前は祭礼のたびに読み上げられるので覚えているが、顔と名前が結びついたことはない。
どれも古びている。像の割れを継いだ跡があちこちにあった。
六本に囲まれて、真ん中にもう一本、柱が立っている。
こちらには像も花もない。他より細く、そのぶん高い。てっぺんから何かが伸びていた形跡があるのに、そこで途切れていた。折れた断面が、剥き出しのままになっている。
直す気がないのか、直せないのか。
足元の石畳にも、線が刻まれていた。
円と、直線と、その組み合わせ。装飾にしては規則的すぎる気がして、俺はしばらくそれを目で追っていた。線は途中で柱の根本に消え、そこから先は追えなかった。
「見事なものでしょう」
隣に立っていた司祭が、俺の視線に気づいて微笑んだ。四十くらいの、痩せた男だ。俺のような立場の王子にまで愛想よくしてくれる人間は珍しい。
「三百年前に建てられたものです。今の職人にはもう組めぬと言われております」
「……この床の模様は、なんですか?」
「魔方陣ですよ」
司祭はあっさりと言った。
「もっとも、殿下がお考えのようなものとは違います。術者が地面に描くあれとは、規模も組み方も。この大聖堂そのものが、と申し上げればよろしいでしょうか」
よくわからなかった。
魔方陣というものは知っている。決まった型を紙や地面に写せば、音のわからぬ者でも決まった術を起こせる。ヨナスがそう教えてくれた。だが、それが建物とどう繋がるのか、そのときの俺には見当もつかなかった。
「難しゅうございますか?」
「……はい」
「よろしいのです。お恥ずかしい話、私どもとて組めるわけではありませんから」
司祭は困ったように笑って、それきり何も言わなかった。
儀式が始まった。
聖歌隊が入ってきて、祭壇の左右に並んだ。二十人ほどの、白い衣の男女。指揮を執る者が手を上げると、声が上がった。
——空気が、動いた。
比喩ではない。俺の腹の底が、はっきりと反応した。
歌が進むにつれて、大聖堂の中に満ちているものの流れが変わっていく。何かが集まっていく。低いところから高いところへ、ゆっくりと巻き上げられるように。そして、祭壇の真上の一点へ。
そこに、穴が開いた。
見えたわけではない。感じただけだ。だが、確かに開いた。この世界と、どこかとを繋ぐ穴が。
白い場所だ。
あの、俺が神を殺した場所。あそこと、ここが繋がった。
何か得体の知れない力があふれているのを感じた。
俺は思わず一歩下がりそうになって、それを堪えた。周りの人間は誰も気づいていない。神妙な顔で祈っている。ラインハルトなど、退屈そうに欠伸を噛み殺していた。
感じ取れているのは、俺だけだった。
祭壇の前で、司祭たちが何かを掲げていた。拳ほどの、黒い石。それを高く捧げ持ち、祈りの言葉を唱えている。
その石から溢れ出した黒いもやが、穴に向かって昇っていく。
石の中のものが少しずつほどけていき、色が灰色に変わった。
魔石の浄化だ。
ヨナスが教えてくれたとおりだった。魔物の中には核となる石があり、討伐した者はそれを教会へ納める。教会がそれを浄めることで、瘴気が世界から取り除かれる。子供でも知っている話だ。
だが、実際に見ると、話に聞くのとはまるで違った。
――遅い。
それが、最初に思ったことだった。
あれだけの人数で歌い、あれだけの図形を敷き詰めた建物を使って、開いた穴はあまりに細かった。そこへ立ち上っていくもやの量も少ない。拳ほどの石ひとつを浄めるのに、二十人が声を張り上げて、まだ足りていない。
そして、二つ目に気づいたことのほうが、悪かった。
石を掲げている司祭たちから、何かが抜けていく。
力ではない。もっと根の深いものだ。生きるための力そのものと言っていい。彼らの内側から、それが搾り出されるようにして、石の浄化へ注ぎ込まれている。
歌が終わり、石の中の澱みが消えたとき、祭壇の周りは静まり返っていた。
聖歌隊の何人かが膝に手をついて肩で息をしている。石を掲げていた司祭たちに至っては、まともに立っていられていない。汗が顎から滴り、白い衣に染みを作っていた。前世で見た、走り込みの果てに倒れ込む選手の顔、あの顔だった。
拳ほどの石ひとつで、これか。
そのうちの一人、年配の男が、そのまま膝をついた。周りが慌てて支える。顔色が紙のように白い。俺の隣にいた痩せた司祭が、小さくため息をついたのが聞こえた。
「……また、ですか?」
「大丈夫です、大丈夫。少し休めば戻ります」
痩せた司祭が、小さく首を振った。慰めを否定するというより、そうすることでしか受け止められないという振り方だった。
「戻るものですか」
俺に聞かせるつもりもなかったのだろう。ほとんど独り言だった。
「あの歳では戻りきらぬのです。若い者ならば一晩で済む。だが、あの方はもう、削った分がそのまま残る」
俺は、その横顔を見た。
よく見れば、この男もひどく痩せている。目の下が落ちくぼんで、頬の肉が削げていた。四十くらいと思ったが、もっと若いのかもしれない。
帰りの馬車で、俺は窓の外を見ながら考えていた。
あの人たちは、命を削って石を浄めている。
俺は、寝ているあいだにそれをやっている。しかも垂れ流しで、貯めるところにようやく手が届いたばかりだ。同じことをしているのに、片方は死にながらやり、片方は無駄に捨てている。
馬鹿げていると思った。
だが、同時に、腹の底が冷えるような感覚もあった。
三百年前に建てられた大聖堂。今の職人には組めないという魔方陣。二十人がかりで、拳ほどの石ひとつ。倒れ込む司祭たち。
——足りていない。
あの穴の細さは、そういうことだ。向こう側から来る力が減っている。だから、いくら立派な建物を使って、いくら大勢で歌っても、実りが少ない。
なぜ減っているのかを、俺は知っている。
百六十年前に、俺が殺したからだ。
馬車が揺れた。ラインハルトが何か言ったが、耳に入らなかった。
あの日、白い場所で、俺は数えきれないほど斬った。詫びていたやつも、鎮めようとしたやつも、片端から。そのときはただ、手の届くものを斬っていただけだった。
その結果が、これだ。
あの痩せた司祭の頬の削げ方が、俺のやったことの続きだった。
俺は膝の上で、右の拳を握った。
知っていたつもりだった。あのとき神界の力が薄くなるのを感じたとき、下界も同じことになるだろうと察していた。だが、察していたのと、目の前で人が膝をつくのを見るのとは、まるで別のことだった。
腕と目が戻ったら、どうする。
あの晩、答えの出なかった問いが、また頭に浮かんだ。
今度は、少しだけ形が違っていた。
——俺は、何を返せる?




