3話
流れ込んできた。
最初は、ただの奔流だった。色。音。匂い。手触り。名も形もない感覚の塊が、一度に、俺の中へなだれ込んでくる。魂だけの俺は、その勢いに押し流されそうになった。
だが、その流れが胸を満たしていくにつれて、塊は少しずつほどけ、ひとつひとつが形を取りはじめた。そして、そのひとつひとつに、名前が戻ってきた。
言葉だ。言葉が、戻ってきたのだ。
思い出す。あの森で、剣を教えてくれた彼女に、水、木、空、ってたどたどしく真似た、あの言葉。——でも、いま俺の中によみがえってくる言葉は、彼女が教えてくれたのとは、別のものだった。彼女の言葉は、彼女の世界のもの。俺が思い出しかけてるのは、それとは全然ちがう——日本語。人間だったころの、俺自身の言葉だ。指すものは同じでも、その名前を呼ぶ音は、まるでちがう。俺は「水」を、自分の言葉でちゃんと知ってた。彼女に教わるより、ずっと前から。ただ、そもそも言葉ってものを持ってたこと自体を、まるごと忘れてただけなんだ。
そうだ。俺は、人間だったんだ。
いや、正確には、人間だったころの記憶が戻ってきた、って言うべきか。あの森で緑の化け物として目を覚ますより、ずっと前。俺は、どこにでもいる、ふつうの現代人だった。言葉を喋って、字を読んで、いろんなことを知ってる、そのへんにいる高校生だったんだ。
だから、今になって思うと、笑えるくらい皮肉な話だ。俺は「ゴブリン」なんて言葉、とっくに知ってた。前世で観た映画や、やりこんだゲーム、読んだ小説に、それこそ腐るほど出てくる、あの緑の小鬼。醜くて、弱っちくて、群れることしか能のない、かませ役のモンスター。——森で目を覚ました俺がなってたのは、まさに、あれだったんだ。この世界の誰かが「ゴブリン」って呼ぶより前から、俺は、それを「ゴブリン」って呼ぶ言葉を、ちゃんと持ってた。
記憶は、そこで止まらなかった。堰が切れたみたいに、俺が人間だったころのことが、まるごと押し寄せてきた。
狭いアパートの一室。畳の匂い。台所に立つ母の背中。仕事から帰ってくる父の、少し疲れた笑顔。そして、妹。俺の、たった一人の妹。いつも俺の後ろをついて回った、小さなあいつ。
特別なものなんて何もない。でも、確かにあったかい毎日だった。
それが、ある日、壊れた。
両親が、死んだ。事故だった。ほんとに突然で、あっけなくて、昨日まで笑ってた二人が、次の日にはもういなかった。あとに残ったのは、まだ高校生の俺と、身体の弱い妹と、ほんのちょっとの保険金だけ。
妹は、生まれつき身体が弱かった。免疫がうまく働かない病気だった。ちょっとしたことですぐ熱を出して、入院を繰り返す。両親が生きてたころは、それでも、なんとか家は回ってた。でも、二人が死んで、その何もかもが、俺ひとりの肩にのしかかってきた。
とにかく、金がいった。妹の治療には、とんでもない額の金がかかった。保険金なんて、あっという間に溶けて消えた。高校生が稼げる金なんて、たかが知れてる。学校に通いながら、夜もバイトして、必死で働いた。それでも、全然足りない。妹の薬代にも、二人が食っていくにも、どうしたって届かなかった。
結局、俺たちは、生活保護を受けることになった。
恥ずかしいなんて、思わなかった。妹を生かせるなら、なりふりなんてかまってられない。でも、周りはそう見てくれなかった。若いくせに。働けるだろうに。そういう目と、わざと聞こえるように言われる陰口。俺たち兄妹は、いつのまにか、あの町で、そっとのけ者にされてた。
それでも——妹さえ生きていてくれれば、それでよかったんだ。
でも、妹の病気は、少しずつ、俺の手の届かないところへ進んでいった。金が足りなくて、できることには限りがあった。夜通し働いて帰ると、げっそり痩せた妹が、それでも俺に笑いかける。ごめんね、お兄ちゃん、って。——謝らなきゃいけないのは、どう考えたって、俺のほうなのに。
妹は、死んだ。
守れなかった。金がなくて、力がなくて、結局、俺は何ひとつしてやれないまま、たった一人の妹を、死なせてしまった。
そこから先のことは、正直、あんまり覚えてない。
妹を見送ったあと、俺は完全に抜け殻になった。守るべきものが、もう何も残ってなかった。あてもなく、何日も町をさまよった。眠りもせず、食いもせず、ただ、歩いた。そして、ある夜。暗い階段で、俺の足は、もう俺の身体を支えてくれなかった。落ちていく感覚だけを、うっすら覚えてる。——それが、俺の人間としての生の、最期だった。
気づいたら、俺は、自分のかたちを取り戻してた。
輪郭すらなかったはずの魂が、いつのまにか、ひとつの姿にまとまってる。見下ろすと、両手があった。二本とも、ちゃんと揃ってる。細くて、でも傷ひとつない、人間の手。腕があって、脚があって、胸があった。あのごつごつした緑のゴブリンの身体じゃない。人間だったころの——まだ高校生だった、あの頃の俺の姿だ。
あんなに疼いてた左腕も、右目も、いまは痛まなかった。人の姿には、失くしたものが、ひとつもない。
当然か、と思った。俺は、思い出したんだ。自分が本当は何者だったのかを。だから魂は、その記憶のかたち——人間の姿に、戻ってた。
言葉が戻れば、知識も戻る。いまの俺には、もう、はっきりわかってた。この白い場所が、なんなのか。目の前にそびえてるあのでかい存在が、人間が「神」って呼んで崇めてるやつなんだ、ってことも。——そして、俺の人生の一部始終を、その神とはまったく別の何かが、ずっと上から見物してたんだ、ってことも。
あの、暗くて粘っこい気配。俺の苦しみを覗き込んじゃ、笑ってた、何か。
両親の乗った車がスリップした、あの瞬間も。妹の身体が病気に食われていく毎日も。俺が夜の道を、金策に走り回った時間も。のけ者にされて、部屋の隅で膝を抱えた夜も。妹の、最期の笑顔まで。——その何もかもが、誰かにとっては、最高の見世物だったんだ。
魂だけの身で、俺は、震えた。
しかも、だ。その奥には、もっと暗い空白が広がってた。この人間としての生の、さらに前。俺がまるで覚えてない、いくつもの生。神は、それも弄ばれてきたんだと、俺に伝えてきた。でも、中身はない。何ひとつ思い出せない。ただ「弄ばれた」って事実だけが、底なしの穴みたいに、ぽっかり口を開けてる。覚えてる悲しみと、覚えてすらいない悲しみ。その二つが、俺の中に、重く沈んでいった。
妹。父さん。母さん。
俺は、願った。もし——もし、あなたたちの魂も、俺と同じように、どこかで生まれ直してるなら。どうか今度こそ、俺なんかと何の関わりもないところで。誰にも覗かれず、笑われもせず。ただ、あったかい毎日の中で、幸せに生きててくれ、って。
俺にできるのは、それを願うことだけだった。
そして——そう願いながら、胸の奥では、あの冷たい火が、また静かに、灯りはじめてた。
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