31話
(ヴォルヒルド視点)
将が討たれた。
ヴォルヒルドは、それを信じられない思いで見ていた。あの、桁違いの化け物。人を鎧ごと叩き潰し、術を操る手下を従え、町を半ば飲み込んだ、あの将。それを、たった一体の、小さな緑の個体が討ち取った。
いや——小さな緑の、ではない。あの個体だった。あの森で、彼女とイルサを救った、あの個体。名を与え、剣を託した、あの——ヴァルド。彼が片腕を失い、片目を潰し、血まみれになりながら、あの将を、真っ二つに断ち割った。
彼女にはわかっていた。彼が自分を守るために来たことを。あの絶体絶命の瞬間、振り下ろされる武器の前に飛び込んできて、見えない何かでそれを止めた。そして、群れを、将を、たった一体で討ち果たした。
守られた。彼に。二度も。
ヴォルヒルドは、彼のほうへ駆け寄ろうとした。礼を言わなければ。手当てを。あの傷を。彼は、膝をついている。ひどい傷だ。早く——。
そのときだった。
「射手! 構え!」
イルサの声が響いた。
ヴォルヒルドは、凍りついた。振り返る。崩れた防壁の上に、生き残った射手たちが弓を構えていた。その矢の向く先は——将の骸の傍らに膝をつく、あの小さな影。ヴァルド。
「イルサ、何を——!」
「あれも、魔物です」
イルサの声は、低く、硬かった。その目は、まっすぐに彼を——ヴァルドを見据えていた。あの森で見た、あの憎しみの色。緑への憎しみ。それが今、彼に向けられていた。
「将を討ったとて、あれがゴブリンであることに、変わりはない。我らの仲間を殺した種です。今はこちらに牙を向けずとも、いつ向けるか、わからぬ。あれだけの力を持つ魔物を、みすみす見逃すのですか」
「あれは、私たちを助けた! 二度も! お前も、あの森で——」
「だからこそ、です」
イルサの声が震えた。憎しみだけではなかった。もっと、苦しげな、何か。
「隊長。私は、あの森で、あれに助けられた。その恩は、忘れていない。だからこそ、今、討たねばならぬのです。情が移る前に。あれはゴブリンだ。人と相容れぬ魔物だ。いつか必ず、我らの災いになる。その前に。——傷は、浅いほうが、いい」
傷は、浅いほうが。
その言葉を、ヴォルヒルドは、あの森でも聞いた。イルサが言ったのだ。情が移る前に別れよ、と。傷は、浅いほうがいい、と。
あのとき、彼女はうなずけなかった。今も、うなずけない。だが、イルサの言葉には、彼女に返せない正しさがあった。あれはゴブリンだ。人の世に、居場所はない。生かして、どうなる。人は、あれを受け入れない。今日のことで、それが証された。あれだけの力を持つ魔物を、人が恐れずにいられるはずがなかった。
だが。だが、それでも。
「やめろ!」
ヴォルヒルドは、叫んだ。射手たちと、彼のあいだへ駆け出しながら。
「その子は違う! 射るな!」
だが、彼女の足は遠すぎた。将との戦いで、味方は散り散りになっていた。彼女と射手たちのあいだには、崩れた瓦礫と、骸の山が横たわっていた。届かない。声も、足も。
イルサの手が振り下ろされた。
「放て」
弦の、鳴る音。無数の矢が宙を裂いた。ヴォルヒルドの絶叫がそれに重なった。
矢は、過たず、あの小さな影を——将の傍らに膝をついた彼の背を、捉えた。何本もの矢がその小さな身体に突き立つのを、ヴォルヒルドは見た。彼の身体が前のめりに揺れるのを。
「ヴァルド!」
ヴォルヒルドは、叫んだ。彼に与えた、その名を。
彼が討たれる。守る者、と名づけた、あの子が。二度も自分を守った、あの子が。今、自分と同じ姿の者たちの矢で、射られている。
ヴォルヒルドは、瓦礫を駆け越えた。骸を飛び越えた。彼のもとへ。だが——彼は、倒れなかった。
射抜かれた、その身体で。彼は、立ち上がった。ふらり、と。そして、こちらを——ヴォルヒルドのほうを、一度、見た。片目だけの、その顔で。
その一瞬。彼女には、彼が笑いかけようとしたように見えた。あの、口の端をわずかに持ち上げる、彼の笑い方で。彼女が教えた、あの——。
だが、それは、笑みにはならなかった。
彼は、背を向けた。そして、よろめきながら、森のほうへ駆けだした。胸から、矢を突き出したまま。片腕のない、小さな背中が木々の間へ消えていく。
「待て! 待ってくれ!」
ヴォルヒルドは、追おうとした。だが、その腕を、イルサが掴んだ。
「なりません、隊長」
「離せ!」
「深追いは危険です。まだ、群れの残りがいる。それに——」
イルサの声がほんのわずかに揺れた。
「あれは、もう助かりません。あの傷では。追っても、隊長が看取ることになるだけだ」
ヴォルヒルドは、イルサの手を振り払った。だが、その足は動かなかった。イルサの言葉が正しいことを、彼女もまた、騎士としてわかっていたからだ。あの傷。片腕を失い、片目を潰し、無数の矢を受けた、あの身体。助かる道理がない。
それでも。ヴォルヒルドは、彼が消えた森のほうを見つめていた。
あの子は、なぜ来たのだろう。人に討たれるとわかっていて——いや、わかっていなかったのかもしれない。ただ、私を守るために。名を与え、剣を託した、それだけの縁で。あの子は、命を投げ出しに来た。
そして、私は。その子が私と同じ姿の者たちに射られるのを、止められなかった。
夕暮れの光が森を赤く染めていた。ヴォルヒルドは、その場に立ち尽くしたまま、動けなかった。彼の消えた、闇のほうを見つめて。
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