29話
でかいやつが動いた。
手下を、俺一人に皆殺しにされて。それでも、慌てる様子はなかった。むしろ、楽しんでいるようだった。あの醜悪な口元をゆがめて。面白い獲物だ、とでも言うように。鉄塊の武器を担ぎ直し、こちらへ一歩踏み出す。
地が揺れた。
間合いに入られた。俺は、地を蹴って退がる。だが、そいつの一歩は、俺の数歩ぶん。退がっても退がっても、間合いが詰められる。そして、あの巨大な武器が薙がれた。
俺は、跳んだ。横へ。武器が俺のいた場所を薙ぎ払う。風圧だけで、身体が持っていかれそうになる。着地して、すぐ、また跳ぶ。次の一撃が来る。振り下ろし。地面が砕けた。石礫が飛ぶ。
速い。手下とは、比べものにならない。
地上では、駄目だ。すぐにわかった。あの日と同じだ。地面の上にいたら、あの間合いと、あの速さに、遅かれ早かれ捉えられる。一撃でも、まともに食らえば終わる。
だから——上だ。
俺は、真上へ跳んだ。足の下に、見えない足場を作る。そこを蹴る。宙で、もう一枚。でかいやつの頭上へ。
そいつが初めて戸惑いを見せた。獲物が消えた。地面にいたはずの俺が頭の上にいる。落ち窪んだ目が俺を探して、上を向く。
遅い。
俺は、足場を蹴って、そいつの首筋へ剣を振り下ろした。刃に、壁を纏わせて。斬ると同時に、纏わせ直す。皮膚が裂けた。緑の血が噴く。浅い。だが、通った。
そいつが吠えた。武器を、めちゃくちゃに振り回す。だが、当たらない。俺は、もう地面にいない。足場から足場へ、宙を跳び回る。そいつの、頭上、死角、背後。そいつの目が俺を追いきれない。
これだ、と思った。
あの日、俺と相棒を追い詰めた、あの間合い。地面の上でしか動けなかった、あの限界。それを、今、越えている。空を使えば、あいつの間合いは意味を失う。届かない場所から、俺は斬れる。
斬った。跳んだ。また斬った。そいつの巨体に、傷が増えていく。一つ一つは浅い。だが、確実に削っている。
だが、いつまでも跳び続けては、いられなかった。
足場を作り、跳び、斬る。その一つ一つが身体の奥の熱を削っていく。息が上がる。無我夢中で跳び回るあいだ、俺は、ほとんど息をしていなかった。胸が息を求めて悲鳴を上げる。
一度、離れた。でかいやつの間合いの外。群れからも少し離れた、瓦礫の上へ降りる。肩で息をする。汗が目に流れ込む。心臓が耳の奥で鳴っている。
ほんの数秒。呼吸を整えるための、数秒だった。
そのわずかな間に、俺は、自分の内側を探った。身体の奥の、熱。あの力の源。それが、あとどれくらい残っているか。——半分よりも、下だ。跳ぶたび、斬るたび、壁を纏わせるたびに、確かに減っている。あの日、相棒を守れなかった、あのときのように。空になれば、俺は、ただの傷だらけの、小さな緑の何かに戻る。治すことも、跳ぶことも、できなくなる。
急がなければ。この熱が尽きる前に。
だが——その数秒の油断だった。
息をついた、その一瞬の隙。それを、群れが見逃さなかった。
でかいやつと、俺の一騎打ち。俺は、どこかでそう思い込んでいた。だが、違う。周りには、まだ数えきれないほどの緑がいた。小さいやつら。そして、その中に、二本足で立つ、でかい獣がいた。森で何度か狩って食った、あの、鼻の突き出た、牙のある獣。あれに似ていた。だが、あんなに小さくはない。あれを、あの女——さっき俺が守った、剣を教えてくれたほう。あれくらいの背丈まで引き伸ばして、二本足で立たせたような。そんな獣だった。あいつらも、群れに従っていた。
その群れがいっせいに、俺へ押し寄せた。
でかいやつが吠えて、けしかけたのだ。一騎打ちの誇りなど、あいつにはない。使えるものは何でも使う。手下をけしかけ、俺を削る。あの日と、同じだ。数で囲んで、追い立てる。
しまった、と思った。
瓦礫の上で息をついていた俺は、地上にいた。空に逃げる、その一拍が遅れた。小さいやつらが足にしがみつく。二本足のでかい獣が体当たりで突っ込んでくる。俺は、剣で薙ぎ払い、蹴り飛ばし、跳ぼうとした。その、跳ぼうとした一瞬。でかいやつが踏み込んでいた。
群れに気を取られた、その隙に。あの巨体が信じられない速さで間合いを詰めていた。鉄塊の武器が真横から薙がれる。避けられない。足を、掴まれている。
とっさに、左腕をかざした。壁を纏わせて。あの、盾を。
だが——熱が足りなかった。
半分より下の、削れた熱。とっさに張った壁は、あの、ヴォルヒルドを守ったときのような硬さを持てなかった。もろい、薄い、一枚。
武器がそれを叩き割った。
ぱりん、という、あの音。そして、止まらなかった鉄塊が
——俺の左腕を、壁ごと断った。
痛みは、すぐには来なかった。左腕の肘から先が消えた。それを俺は、他人のことのように見ていた。斬られたという実感より先に、そこにあったものがない、という事実だけが目に入った。
断たれた先から、赤いものが噴き出している。それを見て、ようやく遅れて、焼けるような痛みが押し寄せてきた。声を上げそうになった。奥歯を噛んで、こらえた。
治せ。とっさにそう思った。あの身体の奥の熱を、断たれた腕に集める。傷を塞げ。いつもそうしてきたように。俺の身体は、たいていの傷をなかったことにできる。だから——。
だが、熱は、ほとんど応えなかった。
断面がわずかにうずくだけ。血が少し止まりかけた。それだけだった。肘から先が生えてくる気配はない。あんなに大きなものを作り直すには、熱が足りなかった。まるで足りなかった。
あの日と、同じだ。
相棒の傷に手を当てて、いくら念じても熱が湧いてこなかった、あの日。あのときと同じだった。いちばん治したいときに、俺の力は応えない。今度は、自分の身体でそれを思い知った。使い果たせば、治せない。俺のあの力は、いくらでも使えるものではなかった。
左腕は、もう戻らない。
俺は一瞬でそれを悟った。悟って、そして——どうでもいい、と思った。腕の一本くらい。あいつを殺せるなら、相棒の仇を討てるなら、安いものだ。
俺は、残った右手で剣を握り直した。
でかいやつが笑っていた。俺の腕を断って、獲物が手負いになったのを喜んでいる。じわじわと追い詰めて嬲る。あの笑い方。相棒を殺したときと同じ、あの——。
その笑いが俺の中の冷たい火に、油を注いだ。
跳ぼうとした。空へ。だが、その跳ぶ直前。視界の右の端で、何か光った。
あの痩せたやつだ。あの見えない礫の、仕留めそこなった最後の一体。群れの中に逃げ込んだあいつが瓦礫の陰から、こちらへ手を向けていた。掲げた手の先が光る。
しまった、と思ったときには遅かった。見えない礫が俺の右の顔面を撃った。
右目が潰れた。
視界の半分が消えた。赤く染まって、それから闇になる。俺はよろけた。左腕を失い、右目を失い、片側の感覚がごっそり抜け落ちた。立っているのが、やっとだった。
でかいやつがその隙を見逃すはずがなかった。
鉄塊の武器が振り上げられる。今度こそ、俺を仕留めるために。俺は動けない。跳ぶ力も、避ける視界も、とっさには戻らない。ここまでか——闇の中でそう思いかけた、そのとき。
俺の横を、何かが駆け抜けた。
緑ではなかった。硬い覆いを着た、あの女だった。剣を教えてくれた、ヴォルヒルド。彼女が俺の潰れた右目の側から駆け込んできて、瓦礫の陰のあの痩せたやつを、袈裟に斬り伏せた。
あの痩せたやつが声もなく崩れた。
彼女が俺を守った。
俺が守るはずだった。俺があの女を守るために、ここへ来た。なのに今、あの女が俺を守った。俺の、見えなくなった側から。俺にできなかったことを。
一瞬、目が合った。残った左目と、彼女の目と。
彼女は何か言おうとした。だが、言葉にはならなかった。ただ、その目が必死に俺に何かを訴えていた。退け、と。もういい、と。そう言っているように見えた。
だが、俺は首を横に振った。
まだだ。まだ終わっていない。あいつを——あの、でかいやつを殺すまでは。
俺は、自分の内側を探った。熱の残りを。
もう、ほとんどない。左腕を失い、右目を失い、跳び、斬り、壁を纏わせ続けた。あの、半分より下だった熱は、今や底の底だ。あと一度、渾身の一撃を放てば、それで空になる。空になれば、俺はもう、傷ひとつ治せない。立つことすら、できなくなるだろう。
だが、それでいい。
一撃でいい。あいつを殺せる一撃があれば。そのあと、俺がどうなろうと。相棒の仇を討てるなら、この左腕も、右目も、残った命も、全部くれてやる。
俺は、残った右手で剣を握りしめた。そして、最後の熱を振り絞って、地を蹴った。
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ダメ出し、もう見ないコメでもなんでもオケです




