25話
(ヴォルヒルド視点)
その報せが届いたのは、夜明け前だった。
森の際に置いた斥候が、血相を変えて駆け戻ってきた。馬は、泡を吹いて倒れた。それほどに飛ばしてきたのだ。斥候は、ヴォルヒルドの父——領主の前に転がり込むと、掠れた声でこう告げた。
森が、動いている、と。
最初、その意味を誰も正確には掴めなかった。森が動く。比喩ではなかった。木々の下の、下生えという下生えがうごめいている。緑の影で。数えることなど、できはしない。森そのものが緑の生き物に覆い尽くされ、こちらへ——町へ、押し寄せてくる。斥候は、そう伝えて気を失った。
鐘が鳴らされた。
町じゅうの鐘がいっせいに。まだ暗いうちから、人々が叩き起こされた。ヴォルヒルドは、鎧を身につけながら、窓の外の、まだ星の残る空を一瞬だけ見た。あの森の方角を。そして、剣を取った。
覚悟は、していた。
あの森から生還して、一年あまり。彼女は繰り返し父に進言してきた。あれはただの異常繁殖ではない。森の奥に、群れを束ねる大きなものがいる。いずれ、あれは森から溢れ出す。そのときに備えなければ、と。
父は、娘の言葉を信じてくれた。防壁を補強し、近隣の村から兵を募り、矢を蓄えた。できるかぎりの備えはした。それでも——森が動いていると聞いたとき、ヴォルヒルドの背を冷たいものが伝った。備えは、間に合ったのか。あの、桁の知れない群れに。
防壁に着いたとき、夜が白みはじめていた。その薄明かりの中で、ヴォルヒルドはそれを見た。
地平が緑だった。
草原の向こう、森との際からこちらまで、見渡すかぎりの地面が緑の群れで埋め尽くされていた。うごめきながら、じわじわと近づいてくる。彼女があの森の穴の底で恐れたもの。溢れ出すと予感したもの。それが今、現実に、目の前に広がっていた。
「……こんなに」
隣で、イルサが絶句した。歴戦の副長が言葉を失っていた。無理もない。これは戦ではない。洪水だ。緑の洪水。
「イルサ」
ヴォルヒルドは、努めて静かに言った。
「防壁を抜かせるな。一匹たりとも、町の中へは入れるな。後ろには、民がいる」
イルサが唇を引き結んでうなずいた。その目に、あの森で見た憎しみの色が蘇っていた。緑への憎しみ。部下を殺され、己も辱められかけた、あの憎しみ。だが今、その憎しみは、彼女を震わせるのではなく支えていた。恐怖に負けないための、支えに。
最初の波が防壁に取りついた。戦が始まった。守るべきものは、防壁の後ろにいた。
戦いの合間、ヴォルヒルドは幾度か後ろを振り返った。町の広場に、逃げ場を失った民が身を寄せ合っていた。年老いた者。乳飲み子を抱いた母親。泣きじゃくる幼い子。彼らは、防壁の上の兵たちを祈るように見上げていた。あの壁が破られれば、自分たちがどうなるか。誰もがわかっていた。
その中に、小さな女の子がいた。
まだ五つか六つ。母親の陰から、こちらを見ていた。目が合った。その子は、怖がっていなかった。ただ、じっと、ヴォルヒルドを——防壁の上で剣を振るう女騎士を、見つめていた。まるで、その姿にすがるように。
ヴォルヒルドは、その子にうなずいてみせた。大丈夫だ、と。守る、と。言葉ではなく、目で。その子がこくりと小さくうなずき返した。信じた目だった。この騎士が自分たちを守ってくれる。そう信じきった目。
守る者であれ。父の言葉がまた胸に灯った。この子たちを守る。そのために、私は剣を取った。そのために、あの森を生き延びた。ヴォルヒルドは、剣を握り直し、防壁の上へ向き直った。
守り抜いてみせる。
半日、持ちこたえた。
兵たちは、よく戦った。矢が尽きれば石を落とし、石が尽きれば油を撒いて火を放った。緑の群れは、防壁に取りつくそばから焼かれ、突き落とされ、斬り伏せられた。防壁の下には、緑の骸がうずたかく積もった。
だが、群れは減らなかった。斃しても斃しても、後ろから後ろから湧いてくる。まるで森が無尽蔵にそれを吐き出しているようだった。一方、こちらの兵は、一人斃れれば、その穴は埋まらない。矢は尽きかけていた。油も。兵たちの腕も。
じりじりと削られていった。
ヴォルヒルドにはわかっていた。このままでは、遠からず限界が来る。数が違いすぎる。こちらは有限で、あちらは際限がない。持ちこたえているのではない。ただ、緩やかに押し潰されていく、その途中にいるだけだ。
それでも、彼女は剣を振り続けた。一匹でも多く。一刻でも長く。後ろの、あの女の子の信じた目のために。守る者であれ。その言葉だけを支えに。
だが——本当の絶望は、まだ姿を現していなかった。
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