20話
それから、俺は毎日そいつのところへ食い物を運んだ。
最初は、警戒された。近づけば唸られ、置いた食い物を、俺が離れてからようやく食う。そんな日が続いた。だが、日を重ねるうちに、唸りは減っていった。俺が食い物を置いても、逃げなくなった。俺の見ている前で食うようになった。傷ついた後ろ脚も、少しずつよくなっていった。
ある日、食い物を置いて、いつものように離れようとしたとき。子狼が俺のあとをついてきた。
振り返ると、そいつは足を止めて、俺を見上げていた。行くのか、とでも言うように。俺は立ち止まった。そいつも立ち止まった。俺が歩きだすと、また、ついてくる。少し離れて。だが、たしかについてくる。
俺のねぐらまで、そいつはついてきた。そして、その夜から、俺のねぐらで眠るようになった。最初は、入り口の、いちばん遠いところで。俺と距離を取って。だが、朝、目を覚ますと、そいつは少しだけ、俺のそばに寄っていた。次の朝はさらに少し近くに。
いつのまにか、そいつは俺の隣で丸くなって眠るようになっていた。
あたたかかった。小さな身体から伝わるその熱を、俺は久しぶりに感じた。二人がいなくなってから、ずっと寒かったねぐらが、また、少しだけあたたかくなった。前とは違う温もりだ。あの二人の温もりの代わりにはならない。だが、これはこれで、たしかにあたたかかった。
俺は、そいつの灰色の背に手を置いた。そいつは、嫌がらなかった。むしろ、俺の手のほうへ身を寄せてきた。俺は、そのまま目を閉じた。剣を片手に抱えて、もう片方の手を子狼の背に置いて。
その夜は、久しぶりによく眠れた。
子狼と暮らすようになってから、俺の日々は少し変わった。
一人ではなくなった、というだけのことだ。だが、それだけのことで、いろいろが変わった。食い物は、二人ぶん探すようになった。狩りも、一人でするより、二人——一人と一匹、と言うべきか——でするほうがうまくいった。そいつは、鼻が利いた。俺が見つけられない獲物の匂いを、先に嗅ぎつけた。俺はそれを仕留めた。役割が自然と分かれていった。
剣を振り続けていた。
剣をくれたほうがいなくなっても、俺は毎朝、剣を振った。教わった形を、忘れないように。なぞるように。最初は、ただ、そうしていないと落ち着かなかったからだ。剣を振っているあいだは、あの日々がまだ続いているような気がした。
だが、そのうち、妙なことに気づいた。剣が軽くなっていた。
最初は、両手で全身を使って、ようやく一振りできた、あの重い剣。それがいつのまにか、楽に振れるようになっていた。以前は、一度振るとよろけた。今は、よろけない。何度でも振れる。腕が太くなったわけではない。俺の身体は、相変わらず小さくて、痩せていた。なのに、力だけがどこからか湧いてくるようになっていた。
なぜだろう、とはあまり考えなかった。剣を振れば、身体の奥が熱くなる。あの、名付けの前の朝に、初めて感じた熱だ。その熱を身体じゅうに巡らせる。すると、力が湧く。俺はそれをそういうものだと思っていた。剣を振り続ければ、身体が応える。ちょうど、腹が減れば何か食い、眠くなれば眠るのと同じように。俺の身体は、また、俺の知らないところで、勝手に何かを覚えていた。
傷のことも、そうだ。
狩りで負う傷は、相変わらず速く治った。だが、それだけではなくなっていた。あるとき、気づいた。治したい、と思うと、治りが速くなる。放っておくと、いつもの速さで治る。俺は、自分の傷の治り方を、いつのまにか手繰れるようになっていた。
試しに、深い傷をわざと作ってみたことがある。狩りの最中に、獲物の牙で腕を裂かれた。血が噴いた。俺はその傷に意識を向けた。あの身体の奥の熱を、傷のところへ集めるように。すると、傷が塞がっていった。見ているあいだに。血が止まり、裂けた肉が盛り上がって、繋がっていく。痛みもすっと引いた。
子狼が、それを見て、不思議そうに俺の腕を嗅いだ。俺自身も、少し不思議だった。だが、それだけだ。俺は、それを恐ろしいとも、すごいとも思わなかった。ただ、便利だ、と思った。これができれば、狩りで死ぬことはあまりない。腹さえ満たせば、たいていの傷はなかったことにできる。俺にとって、それは、生きるためのただの道具のひとつだった。
あるとき、崖の上から足を滑らせた。
子狼を追いかけていて、うっかり縁を踏み外した。落ちる、と思った。死ぬ、と身体が悟った。とっさに、あの熱が手のひらの先へ集まった。
足の下に、何か、硬いものが生まれた。見えない。だが、たしかにそこにあった。俺は一瞬、その上に乗った。空中に、足場ができたように。だが、それはすぐに割れた。薄い氷を踏み抜くみたいに、ぱりん、と。
俺はまた落ちる。だが、その、割れるまでのわずかな間に、落ちる速さが少し殺されていた。俺はとっさに、もう一度同じことをした。また、足の下に硬いものが生まれ、乗り、割れる。もう一度。もう一度。見えない足場を、いくつも、いくつも踏み割りながら、俺は落ちていった。そのたびに、落ちる勢いが削られていく。
地面に着いたときには、俺はそっと降り立っていた。かすり傷ひとつ、なかった。
何が起きたのか、わからなかった。ただ、あの見えない足場は、どれも、ひどくもろかった。一瞬しかもたない。乗った端から割れていく。もっと丈夫なものが張れれば、一枚で済んだのだろう。だが、そのときの俺には、そのもろい足場を、いくつも重ねることしかできなかった。身体の奥の熱が、さっきよりずいぶん減っていた。
子狼が崖の上から、心配そうに俺を見下ろしていた。俺は、そいつに大丈夫だ、というように手を振った。そいつが崖を回って駆け下りてくる。俺のところへ来て、俺の顔をぺろぺろと舐めた。俺は笑った。あの、剣を教えてくれたほうに教わった、口の端を持ち上げる、あれだ。ずいぶんうまくなった。
そうやって、季節がひとつ過ぎた。
子狼は、子狼でなくなっていった。日に日に大きくなり、脚が伸び、牙が鋭くなった。俺の腰くらいだった背が、いつのまにか、俺と並ぶほどになった。もう、子狼とは呼べない。立派な、一頭の狼だった。
そして、いつからか、俺はそいつのことを、狼とも、そいつとも思わなくなっていた。
うまく言えない。ただ、狩りに出れば、言葉を交わさなくても、互いの動きがわかった。俺が右へ回れば、そいつは左へ。そいつが茂みを睨めば、俺は剣を構える。どちらが決めるでもなく、二つで一つのように、動けるようになっていた。眠るときも、起きるときも、食うときも、そいつはいつも、俺のそばにいた。いなければ、落ち着かない。それが当たり前になっていた。
相棒、という言葉を、そのときの俺はまだ知らなかった。だが、もし知っていたら、俺はきっと、そいつをそう呼んでいた。助けてやった獣、ではない。飼っている獣でもない。俺の、相棒だった。二人で一つの、俺たちだった。
どんなに大きくなっても、そいつは俺のことを変わらず慕った。夜になると俺の隣で丸くなり、俺の手を、その大きな頭に乗せさせた。俺たちは、はぐれ同士だった。群れも、居場所も持たない者同士。だが、二人でいれば——一人と一頭でいれば、それはもう、はぐれではなかった。俺たちは、小さな俺たちだけの群れだった。
悪くない日々だった。あの二人と過ごした日々のあたたかさとは違う。だが、これはこれで、俺の大事な日々になっていた。剣があって、相棒がいて、少しずつ強くなっていく。俺は、もう、あの、何も持たない緑の何かではなかった。
この日々がずっと続けばいい、と思った。
——だが、続かなかった。




