2話
俺と同じ色をしていた。緑がかった肌、黒い爪。ただし俺よりずっと大きくみえたそいつは、腰に布のようなものを巻いて、手には先の尖った棒を持っていた。そいつは水を飲みに来たらしかった。まだ俺に気づいていない。
逃げろ、と身体が言った。
頭の中は真っ白だった。俺はそいつが何なのか知らないし、危ないのかどうかもわからなかった。
なのに膝から下が冷たくなって、息が浅くなって、心臓が耳の裏で鳴りはじめた。見た瞬間に、身体のほうが答えを出していた。あれはだめだ、と。理由は身体も教えてくれなかった。ただだめだと、それだけを、全力で。
動けなかった。逃げろと言うくせに、その同じ身体が、固まって動かない。おかしな話だが、怖すぎると人は逃げられなくなる。あとで何度も経験することだが、あのときが最初だった。俺は水際にへばりついて、対岸のそれを見ていることしかできなかった。
そいつが顔を上げた。目が合った、と思った。実際に合ったのかはわからない。ただそいつの動きが止まって、こっちを向いて、それから醜悪な口元がゆがみ、尖った歯が覗いた。嬉しそうに見えた。その顔を見た瞬間、固まっていた身体が、弾けたみたいにほどけた。
俺は走った。立って走ったのか這って走ったのか、覚えていない。
たぶん最初は転んで、途中から立った。背中で水を蹴散らす音がした。追ってきている。速い。あいつの脚は俺より長くて、地面を蹴る音がどんどん近くなった。
木があった。避けたが根に足を取られたれ、転んだ。起きて、また走った。何度そうしたかわからない。口の中に血の味がして、それが自分の舌を噛んだ味だと気づく余裕もなかった。
枝が顔を打ったけど、かまわず抜けた。下生えの濃いところに突っ込んで、棘が腕を裂いたけれど、そのぶん相手も速度を落とすはずだと、頭ではなく身体が計算した。濃い藪の中を、地面すれすれに這って、潜って進んだ。背中の音が少し遠くなった。
倒木があり、その根元に土がえぐれて穴になっているところがあった。俺はそこに頭から突っ込んで、身体を丸めて、動くのをやめた。息を殺すという言葉はまだ知らなかったが、やり方は身体が知っていた。口を手で塞いで、浅く、浅く、音を立てないように吸った。
足音が近づいてきて、穴のすぐ外で止まった。荒い息が聞こえた。あいつが俺を探している。棒の先で、藪をかき分ける音がした。近い。土の匂いと、あいつの体の匂いが、穴の中まで入ってきた。俺は目をつぶった。目をつぶったところで見つからなくなるわけでもないのに、そうせずにいられなかった。
どれくらいそうしていたか。足音は、しばらく穴の周りをうろついて、それから、少しずつ遠ざかっていった。それでも俺は動かなかった。遠ざかった足音が戻ってこないと確信できるまで、たぶんずいぶん長いあいだ、俺は倒木の下で丸まっていた。棘に裂かれた腕がひりひりしたけれど、痛みより、まだ心臓の音のほうがうるさかった。
助かった、とは思わなかった。そういう考え方をまだ知らなかったからだ。ただ、身体からゆっくり力が抜けていって、抜けたあとにどうしようもない空っぽが残った。腹は減ったままだった。腕は痛かった。俺は誰からも追われていないのに、どこにも行けなかった。




