16話
(ヴォルヒルド視点)
その日は、よく晴れていた。
木漏れ日が下生えにまだらな光を落としている。川のせせらぎと、鳥の声のほかには、何も聞こえない。おだやかな昼だった。
ヴォルヒルドは、水場のほとりにしゃがみ、掌ですくった水を、傍らの緑の個体に見せた。
「水」
そう言って、水面を指さす。個体は、じっとその指の先を見て、それから、彼女の口元を見た。
「……み、ず」
たどたどしく、その音をなぞる。ヴォルヒルドが小さくうなずいてやると、個体の顔がぱっと明るくなった。まるで、大きな褒美でももらったかのように。
おかしなものだ、と彼女は思う。ほんのひと月ほど前、自分はこの緑の群れに部隊を全滅させられ、あの穴の底へ引きずり込まれた。その同じ種の一体と、今はこうして、川べりで言葉を教えている。
名を与えるつもりなど、なかった。
ヴォルヒルドは、自分でもなぜそんなことをしたのか、すぐには説明できなかった。水を教え、木を教え、空を教える。それは、この奇妙な同居の退屈しのぎのようなものだった。あるいは——認めたくはないが——通じ合いたいという、こちらの勝手な願いのあらわれだったのかもしれない。
だが、自分の名を教え、この個体のあの下手な、けれど懸命な発音を聞いたとき。そして、この者には指し示すべき名が何ひとつないのだと気づいたとき。ヴォルヒルドの中で、何かが抑えきれなくなった。
この者には、名がない。
考えてみれば、当たり前のことだった。ゴブリンに名などない。あれらは群れの中の、一匹の個体でしかない。だが、目の前のこの者は——群れにすら属していない。どこにも属さない。誰からも呼ばれない。名づけられたことも、きっと一度もない。
その事実が、なぜかヴォルヒルドの胸を締めつけた。
この者は、自分たちを助けた。命がけで。何の見返りも求めずに。剣を教われば、あんなにも嬉しそうにした。食い物を運んでは、そっと置いていった。傷ついた指で、こちらを傷つけまいとした。——そんな者が、名も持たず、誰にも呼ばれず、この森の隅でたった一人で生きてきた。
それは、あまりに寂しいことのように思えた。
だから、彼女はこの者に名を与えることにした。
どんな名を。——それを考えたとき、ヴォルヒルドの脳裏に浮かんだ光景があった。
あの穴の底。目を覚ましたら、この緑の個体が自分の縄をほどいていた。震える指で。こちらを怖がりながら。それでも、逃げずに。あの、剣を取り返す山を一緒に漁ったこと。あの、二人を背負い、庇い、自分のねぐらへ導いたこと。——そのすべてに貫かれていた、ひとつのものがあった。
この者は、守ろうとしていた。
自分を。イルサを。何の関わりもない、むしろ憎まれてすらいてもおかしくない相手を。この者はただ、守ろうとしていた。それも、勇気をもって。あの、あんなにも怖がりながら。震えながら。それでも、退かずに。
——恐怖を抱かぬ者の勇気など、勇気ではない。
ヴォルヒルドはそう教わって育った。本当の勇気とは、恐怖を知りながら、なお前に出ることだと。ならば、この者があの穴の底で見せたものこそ、彼女の知る、もっとも純粋な勇気の形だった。
守る者。勇気ある者。
では、それをなんと呼べばいい?
ヴォルヒルドは、いくつもの名を思い浮かべては、退けた。物語に語られる、古の英雄たちの名。どれも立派で、どれも、この者には大きすぎた。借り物の輝きで、この者を飾りたくはなかった。では、姿から取るか。緑の。小さな。だが、それは見た目を指すだけで、この者が何者であるかを、何ひとつ言い表さない。
守る者。勇気ある者。——その意味を宿す名を、彼女はひとつだけ知っていた。ほかでもない、自分の名だ。
ヴォルヒルド。領主一族の次女として生まれた彼女に、父が授けた名だった。その響きの根には、守り、という古い言葉がある。領地を、領民を、守る者であれ——それが、名に託された願いだった。
だが、ヴォルヒルドは、その願いを、名として背負うだけでは済まさなかった。自ら剣を取ったのだ。守るということを、貴族の娘の務めとしてではなく、この手で果たすと決めた。
女が騎士になることを、母は許さなかった。だが、父は違った。娘の望みを受け入れ、そして、決して甘やかさなかった。ほかの騎士と寸分たがわぬ訓練を、娘にも課した。身分ゆえの手心など、そこには一片もなかった。
その果てに、彼女は小隊を預かる身となった。それが情実でないことは、誰よりも彼女自身が知っている。騎士団長を務める兄も、肩を並べる他の隊長たちも、その剣に、非の打ちどころを見いだせなかった。ヴォルヒルドは、名に込められた願いを、自らの手で、まことのものにしてきたのだった。
守る者であれ、と父は願った。そして彼女は、その願いのとおりに生きてきた。——その名の根を、彼女は、この者に分けることにした。
ヴァルド。
守る者、という意味の古い言葉。自分の名と同じ根から生まれたその音を、彼女は選んだ。この、名も知れぬ、けれど誰よりもその名にふさわしい者に。
口にした瞬間、この者が息をのむのがわかった。まるでその音の意味を解したかのように。もちろん、そんなはずはない。この者に言葉は通じない。「守る者」の意味などわかろうはずがない。それでも、この者はその名を、まるで何か途方もなく大切なものを受け取るように——震える喉で繰り返した。
「……ヴァ、ルド」
歪んだ、掠れた、下手な発音だった。だが、ヴォルヒルドには、それがこれまで聞いたどんな朗々たる名乗りよりも、胸に迫った。
この者は知らない。自分に与えられた名が何を意味するかを。自分がどれほどの想いでその名を贈られたかを。いつか——もし、いつか、この者が人の言葉を解する日が来たなら。そのとき初めて知るのだろうか。自分の名の意味を。それを贈った者の想いを。
そんな日は来ないだろう、とヴォルヒルドは思った。
この者はゴブリンだ。自分は人だ。住む世界が違う。イルサの言う通りだ。いずれ別れねばならない。この束の間の日々が終われば、二度と会うことはないだろう。だから、この名の意味をこの者が知る日は、永遠に来ない。
——そう、思っていた。




