15話
その日も、俺たちは会話の真似事をしていた。
水。木。空。俺の言えないなりに覚えた音が、少しずつ増えていた。こいつは根気強く、俺にいろいろなものの名を教えてくれた。指さして、音を発する。俺が真似る。うなずく。その繰り返し。
その日、こいつはふいに、自分の胸を指さした。
俺は首をかしげた。それが何なのか、わからなかった。木でも、水でも、空でもない。こいつはもう一度、自分の胸を指でとんと叩いて、そして言った。
「ヴォルヒルド」
澄んだ音だった。水の名や木の名とは違った。もっと長くて、いくつかの音が連なっていて——なんと言えばいいか、大事な音、という感じがした。こいつはそれを、ゆっくりともう一度繰り返した。自分の胸を指さしながら。
「ヴォルヒルド」
俺はわかった。これは、こいつの名だ。
物の名ではない。こいつそのものの名。この、剣を教え、傷を手当てし、言葉をくれた、こいつを指し示す音。俺はそれを真似ようとした。
「……ヴ、ォ」
うまく言えなかった。俺の喉では、あの澄んだ響きは出せなかった。歪んで、掠れて、途中でつかえた。それでも、こいつは笑わなかった。ばかにするでもなく、じっと俺の下手な発音を待ってくれた。何度か繰り返すうちに、俺はどうにか、その音の形だけはなぞれるようになった。
こいつがうなずいた。それから——俺の目をまっすぐに見た。そして、俺の胸を指さした。
俺はまた首をかしげた。俺の胸? 俺には名などない。水や木のように、指させば音が返ってくる、そんなものを俺は持っていなかった。俺は、俺だ。それ以上の何かではない。俺は自分の胸を見下ろして、それからこいつを見返した。
こいつは何か、考えるような顔をした。
俺の顔を見つめて。それから、俺の傷だらけの腕を。二人を助けたときのことを思い出しているような。剣を覚えたときのことを。食い物を運んだときのことを。——今なら、そう思う。あのとき、こいつは俺の中に何かを見ていた。俺自身の知らない、何かを。
やがて、こいつは小さくうなずいた。何かを決めたように。そして、俺の胸を指さして言った。
「ヴァルド」
俺は息をのんだ。
なぜのんだのか、わからない。ただ、その音を聞いた瞬間、息がうまく吸えなくなり、胸のいちばん奥を内側からそっと押されるような感じがした。痛くはない。だが、放っておけない何かが、そこにあった。
「ヴァルド」
こいつはもう一度言った。俺の胸をさして。それは、さっきこいつが自分を指して言った「ヴォルヒルド」と、どこか似た響きを持っていた。同じ根から分かれてきたような。だが、そのときの俺には、それがどういう意味なのか、わからなかった。
わかったのは、ただひとつ。
この音は、俺のことだ。この、剣も、言葉も、名も持たなかった緑の何かに、こいつがくれた、俺の名前だ。
俺は震える喉で、その音をなぞった。
「……ヴァ、ルド」
やっぱり、うまくは言えなかった。こいつの言う、あの澄んだ響きには程遠い、歪んだ音。自分の名前だというのに、俺はそれをまともに呼ぶことさえできなかった。
それでも。
それでも、こいつは笑った。あの、かすかな、あたたかい笑みで。そしてうなずいた。何度も、うなずいた。それでいい、と言うように。お前はヴァルドだ、と。
俺はそのとき、自分の胸の奥を通り抜けていったものが何なのか、知らなかった。嬉しい、という言葉すら、まだ俺は持っていなかったのだから。ただ、俺はその音を、何度も何度も、心の中で繰り返した。ヴァルド。ヴァルド。それが、俺だった。
生まれて初めて、俺は俺以外の何かになった。誰かが、俺のために選んでくれた、何かに。




