10話
(ヴォルヒルド視点)
意識は濁っていた。後頭部を打たれてから、ずっと暗い水の底にいるようだった。何度も浮かんでは沈んだ。自分がまだ生きているのかどうかも、判然としない。
そんな半覚醒の淵で、ヴォルヒルドは手首のあたりに奇妙な感触を覚えた。
後ろ手に縛られた縄が緩んでいく。誰かがそれをほどこうとしている。指の感触が手首の上で動いていた。小さな、器用な指。助けが来たのか——濁った頭の隅で一瞬そう思って、彼女はすぐにその考えを捨てた。ありえない。あの惨状から、誰が。それに、この指は。
重い瞼を薄く開けて、彼女は自分の手をほどいているものを見た。全身が総毛立った。
ゴブリンだった。あの忌まわしい緑の化け物。仲間を殺し、自分たちをこの穴の底へ引きずり込んだ、あの種の一体が、すぐ目の前にいる。反射的に身体が逃げようとした。だが、動かなかった。頭を打たれた傷のせいで、四肢が言うことを聞かない。悲鳴を上げそうになった喉を、彼女は騎士の意地で押さえつけた。
声を出せば他の個体が目を覚ます。それだけは避けねばならない。だから彼女は動かなかった。動けなかった、とも言う。ただ、目の前の個体を観察した。
おかしい、とすぐに思った。この個体は他のものと違う。まず、小さい。痩せていて、明らかに群れの中でも下位の——いや、群れに属してすらいないようなみすぼらしさだった。そして何より、こいつは彼女を傷つけようとしていない。縄をほどこうとしている。逃がそうとしているように見える。
なぜだ。
罠か、とも考えた。獲物に希望を持たせて絶望させる、その手の悪趣味か。だが、それにしてはこの個体の仕草には、悪意の匂いがまるでなかった。むしろこちらを怖がってすらいる。指先がかすかに震えている。加害者の指ではない。これは——
わからなかった。ヴォルヒルドには、この個体が何なのか、まるでわからなかった。
これまで彼女が知っていたゴブリンは、一種類だけだった。襲い、奪い、犯し、殺す害獣。それがゴブリンだった。例外など考えたこともなかった。考える必要もなかった。だが今、その"例外"が目の前で、彼女の縄をほどいている。
縄がほどけた。自由になった手を、彼女はまず傍らのイルサへ伸ばした。副長の頬に触れ、名を囁く。応えはない。だが、まだ息はある。生きている。安堵と、それを上回る焦りが同時に来た。イルサは動けない。この状態で、どうやってここを出る。
そして、彼女は決断した。
この個体を利用する。今はそれしかない。信じたわけではない。この化け物が次の瞬間に牙を剥かない保証は、どこにもない。だが、少なくとも今、この個体は自分たちを助けようとしている。ならば使えるだけ使う。隙を見せればいつでも斬れるよう、警戒だけは解かずに。
それが騎士としての冷静な判断だった。——そのはずだった。
剣を、と彼女は思った。武器が要る。丸腰では、イルサも自分も守れない。奪われた剣は、この穴のどこかにあるはずだ。彼女は身振りでそれを伝えようとした。握って、振る仕草。この個体に通じるかどうかはわからない。害獣に意思が通じるなどと——。
通じた。
この個体は彼女の仕草をじっと見て、それから理解した。目に理解の色が宿ったのを、彼女ははっきりと見た。害獣の目ではなかった。そして、この個体は彼女と一緒に、あのがらくたの山を探しはじめた。
その探し方が。崩さないように、音を立てないように、一つずつそっと確かめる、その慎重なやり方が、まるで訓練された斥候のようで。ヴォルヒルドはまた、わからなくなった。この個体は、いったい何なのだ。
剣を取り戻したとき、彼女はそれを抱きしめた。
この剣は父から授かったものだった。騎士に叙されたとき、領主である父が自らの手で佩かせてくれた。この剣を失うことは、彼女にとって己の誇りを失うに等しい。それが戻ってきた。この、名も知れぬ、みすぼらしい緑の個体のおかげで。
複雑な気持ちだった。感謝と呼ぶには、警戒が勝ちすぎていた。だが、無感動ではいられなかった。
穴を出て、この個体は二人をどこかへ導いた。ヴォルヒルドはイルサを背負い、ふらつく足でそれについていった。いつでも斬れるように、と己に言い聞かせながら。だが、その警戒とは裏腹に、身体は限界に近かった。導かれた先が、粗末な、けれど隠れるには十分な倒木の下の穴だと見て取ったとき——それが、この個体自身のねぐらなのだと悟ったとき。
張り詰めていたものが切れた。
いけない、と思ったときには、もう意識が落ちていた。最後に思ったのは、奇妙なことに恐怖ではなかった。この個体は自分の巣に獲物を招いたりはしないだろう、という——根拠のない、けれど妙に確かな、その感覚だった。
次に目を覚ましたとき、朝になっていた。
ヴォルヒルドは半身を起こした。傍らでイルサが眠っている。呼吸は昨夜より落ち着いていた。よかった、と思う間もなく、彼女は穴の外の気配に気づいた。そっと外を窺った。そして、彼女はその光景に目を疑った。
あの個体が——自分を助けた、あのゴブリンが朝の光の中で、彼女の剣を握って振っていた。
下手くそだった。滑稽なほど様になっていない。重さに振り回され、よろけ、それでもまた構え直して振り下ろす。何度も、何度も。誰に見られているとも知らず、ただ一心に。
ヴォルヒルドはそれを、しばらく黙って見ていた。奪って逃げることもできたはずだ。武器を持って、獲物である自分たちをいつでも害することが。なのに、この個体はそうしなかった。ただ、剣を振っている。まるで——何かになろうとするみたいに。
彼女の中で、何かが静かに動いた。それが何なのか、彼女にはまだ言葉にできなかった。警戒はまだ解けていない。この個体を信じたわけでもない。それでも確かに、昨日までとは違う何かが芽生えかけていた。害獣を見る目とは違う目で、彼女は剣を振るその個体を見ていた。
やがて彼女は身体を起こした。壁に手をついて。そして、外へ出ていった。
あの下手な素振りに、我慢がならなかったのだ。——騎士として。




