戦意喪失
聞こえるのは、カトラリーがお皿に当たる際に鳴るわずかな音だけ。目線を動かすと、アレックをはじめこの場にいる者全員が、そわそわと様子を窺うように時折こちらを見ているのがわかった。
本来家族での食事に侍女が傍で控える必要はなく、給仕を務める者以外は離れた壁際で待機するものである。しかし下がろうとした時、お嬢様に手を取られ、まるで縋るような目で見られてしまった。一人にしないでと訴えるその眼差しを無視できるはずがなく、公爵様が何も言わないことも幸いして、お嬢様の傍で控え続けている。
こうして近くで様子を見ていると、斜向かいに座る公爵様の動きがよくわかる。基本的に俯いているお嬢様は気づいていないが、一定の間隔で目線がお嬢様へ向けられていることが。
公爵様の食べる速度はお嬢様とほぼ同じ。様子を見ながら、恐らくは普段よりゆっくりと召し上がっている。
「……あの」
小さなその声は、こうして傍にいなければ聞こえることはなかっただろう。お嬢様が声を発すると、公爵様の食事の手が、ぴたりと止まった。その目にお嬢様を映すことはしないが、意識を向けていることはわかる。
「えっと、その……仕立て屋を呼んでいただいて、ありがとうございました」
「……手配したのはフェリクスだ」
「あ……そ、そうでしたか。えっと、ではフェリクスにもあとでお礼を言います」
「いい。私から伝えておく」
「ありがとう……ございます」
会話が終わってしまった。どのような服を仕立てるのか、どんな布を選んだのか、話題を広げる方法はいくらでもあるというのに。ふと目が合ったアレックが、一瞬だけ諦めたような微笑を浮かべた。
「それで、その、エマ……あ、針子から、背が伸びてるって言われました」
「そうか」
「……はい」
わずかに唇が動くも、やっぱり何かを発することはない。誤魔化すようにグラスへと伸ばされる手が一度取り損なったのか、中身が大きく揺れた。
……これはなんというか。公爵様は、わたしが思っていた以上に不器用なのかもしれない。
雇用主に対して抱いていい感情でないことは承知しているが、それでもそう思わずにはいられない。
一生懸命に会話をしようと差し出された話題を、ばっさりと切り捨てる。それでいて娘に興味がないのかと思えば、目線が動くたびにその瞳にはお嬢様の姿を映す。
自分のことでいっぱいいっぱいなお嬢様は、当然その事実に気づいてはいない。今この場で察しているのは、わたしとアレックくらいだろう。
先程アレックが見せた笑みが脳裏を過った。多分今、わたしも似たような表情を浮かべている気がする。
二度にわたって会話が途切れたことにより、お嬢様はもう戦意喪失状態だ。あからさまな態度には出さないが、肩が落ちているのが後ろからでもよくわかる。
結局それ以上会話が生まれることはなく、お二人の食事は終わった。
お嬢様が食べ終えてカトラリーを置くのと同時に、公爵様がどこかを見るように目だけを動かした。その視線の先にいたアレックが、小さく頷いて席を離れる。
「クローディアお嬢様、食後のデザートでございます」
戻ってきたアレックがその言葉と共に置いたのは、最近お嬢様が好んでよく召し上がっているテーリュという果実を使用したお菓子だ。
ちなみに初めてそれを食べたお嬢様は、アップルパイに似ているとかなんとかと言っていた。
わたしはお嬢様がテーリュのパイを好んでいることは、誰にも伝えていない。知っているのは、わたし以外では厨房の者くらいだろう。
つまり、事前にきちんと下調べをし、わざわざお嬢様が好きなお菓子をデザートとして出すよう指示したことになる。思い返せば、本日の夕食に出た料理は全て、お嬢様の好きなものばかりだった。中には以前は苦手だったが、最近急に好きになった料理も含まれている。
「…………」
怖いとすら思っていた公爵様の本心を、わずかにではあるけれど覗けたような、そんな気がした。
お菓子を口にしたお嬢様は、さっきまでの沈んだ表情を一変させ、とても幸せそうに口元を緩めた。それをこっそり見る公爵様の目は、相変わらずお嬢様だけを映している。
もう公爵様の食事は終わっているのに、一向に席を立つ気配は見せない。普段食事は最低限で、食べ終えればすぐに仕事へ戻ると小耳に挟んだことがあったが、今の公爵様は食後のお茶を楽しんでいる。
少しの間、当人以外には微笑ましい空気が流れていたが、静かに公爵様の従者の一人が入ってきたことで、その空気は霧散した。何やら報告を受けた公爵様が、飲みかけのカップを置いて立ち上がる。
「ここで失礼する」
何があったのかはわからないが、従者の様子から察するに急ぎではあるものの、そこまで重大な内容ではなさそうだ。
「あっ」
慌てて立ち上がったお嬢様は、公爵様の背中に声をかける。
「お、おやすみなさいませ、公爵様」
「……ああ」
振り返った公爵様の表情に、わずかながら困惑の色が見えた。短い返事、ただそれだけを言って、公爵様は広間を出ていった。
とぼとぼと戻ってきたお嬢様は椅子に座り直し、そのまま脱力するようにテーブルの上に突っ伏した。
「緊張して、全然しゃべれなかったぁ……」
その嘆きに、曖昧な笑みを返すことしかできない。最後に見せたわずかな表情の変化にお嬢様は気づいていなかったが、わたしにはその理由をなんとなくだけど察することができる。
娘から「公爵様」と呼ばれれば、複雑な思いを抱くものだろう。
「フィリア~、どうしよぉ……」
「とりあえず、まずは姿勢を正しましょうか」
お嬢様の背中を軽く叩いて、テーブルにくっついている顔を上げさせる。一連の流れを見ているアレックは、微笑ましいものを見ているような表情をしていた。
「クローディアお嬢様、お茶のおかわりはいかがですか?」
「……飲む」
温かいお茶に息を吹きかけて、ゆっくりと口にする。
「フィリア、ごめんね」
カップに注がれたお茶から、花のような甘い匂いがふわりと香る。お茶の表面が揺れているからだろうか、映るお嬢様が泣きそうに見えるのは。
「わたし、全然上手くできなかった。……せっかくフィリアが、協力してくれたのに」
「……わたくしには、そうは思えませんでした」
顔を上げて振り返ったその顔は、明らかに不可解だと言っている。今のお嬢様が理解するのは困難だろう。お嬢様と違って、公爵様は一切表情にも態度にも出さなかったのだから。
わたし達のやり取りを笑顔で見ていたアレックは、いつの間にかどこかへ下がっていた。気を遣ってくれたのだろう。周りの目を気にせず、本音を出せるように。
「お嬢様、わたくしは最初にお伝えしましたよね。大した話はできなくてもよいと」
最近こうして、お嬢様と目を合わせて話すことが増えた。それは、わたしがお嬢様の目線に合わせてしゃがむから。
「お嬢様は、自ら公爵様に話しかけましたね。公爵様も短いお言葉ではありましたが、応えてくれました。小さいかもしれませんが、それでも確実に一歩近づいたと、少なくともわたくしはそう思いましたよ」
「……そう、かな」
自信なさげなその言葉に、わたしはしっかりと頷いてみせる。
わたしが察した公爵様の本心をここで話すことは容易い。しかし、それではきっと意味がない。お嬢様が自分で気づくか、もしくは公爵様が直接伝えなければ、なんの意味もない。
「公爵様と共に食事をした、本日はそれだけで充分です。お嬢様、よく頑張りましたね」
目を丸くしたお嬢様は、くすりと小さく笑みを漏らした。
公爵様が座っていた席に目を向ける。そこにいたのは、家族に関心がない公爵ではなく、ただ不器用に愛を示す一人の父親。
「さてお嬢様、そろそろお部屋へ戻りましょう。このままここにいては、片付けが終わりませんので」
「はーい」
椅子から降りたお嬢様に続いて、わたしも立ち上がった。
「フィリア、これからもよろしくね」
照れくさそうに微笑むお嬢様に向けて、わたしも口元に笑みを浮かべる。
「もちろんです。どこまでもお供しますよ、お嬢様」
公爵様と仲良くなろう作戦とやらが成功するその日は、案外遠くないのかもしれない。




