その理由は想定外
まだ日が昇る前に起きることを体がとっくに覚えてしまっていて、どんなに眠くても習慣的に目が覚めてしまう。
大きな欠伸を噛み殺し、両手を突き上げて思い切り伸びをする。
季節はとっくに春になったというのに、朝方はまだ空気が冷たい。上掛けを羽織ると、自分の身支度を整えるために動き出した。
公爵家は広大で、端から端まで移動しようとすればかなりの時間を要する。
東側は居住区になっていて、現在そこで生活しているのは公爵様とお嬢様だけ。
ご長男であるカイディアス様は第一王子の側近として、この春から本格的にアカデミーに通われている。夏の長期休暇には帰られると聞いている。
「フィリア」
お嬢様の私室へと向かっていた最中、呼ばれた名前に足を止める。柔和な笑みを浮かべたアレックが、わたしに向けて丁寧に一礼した。
「アレック様、おはようございます」
おっとりとした顔立ちと丁寧な口調は親しみやすく、目を合わせるだけで緊張してしまうフェリクスとは対極のような人物だ。
「昨日は色々と気を配っていただいて、ありがとうございました」
アレックは公爵様と同世代だったと記憶している。長年公爵家に仕えているだけあって、その動きは洗練されており、一切の無駄がない。
「いえ、お礼を言うのは私の方ですよ。公爵様が久方ぶりに、ゆっくりと食事をしてくださったのですから。お嬢様には心より感謝しております」
どうやら、食事を蔑ろにしているという公爵様の噂はあながち間違いではないらしい。
「フィリアにこれを。公爵様よりお預かりしました」
そう言って渡されたのは紙の束、一番上には数名の名前が記入されていた。これが何かと疑問を抱くわたしに、アレックは相変わらず穏やかな表情のまま説明してくれる。
「お嬢様の家庭教師の候補です」
アレックの言葉を受けて、再度手元の書類に目を落とす。二枚目以降は、その人物の経歴が事細かに記されていた。
「公爵様から、ですか」
「正確には、公爵様から指示を受け作成したフェリクスから、ですが」
わざわざ丁寧に付け加えられた言葉がなんだかおかしくて、思わず小さな笑みが漏れる。
図書室を訪れるたびに、ユーインから家庭教師を付けるべきだと熱弁されることもあって、お嬢様に関する報告書にそのことも書いていた。
「……アレック様、一つ失礼なことを承知でお伺いさせてください」
「なんでしょう?」
書類を持つ指先に、無意識に力が入る。下を向きかけた顔を前へ固定させ、アレックの目を見つめて、一度小さく息を吸い込んだ。
「公爵様は、わたくしが作成している報告書に目を通していらっしゃいますか?」
わたしはずっと、公爵様は子どもに関心がないと思い込んでいた。報告書は後回しにされ、最悪目を通すことすらしていないのだろうと。
わたしの、下手をすれば罰を受けかねない質問に対し、アレックは口元に柔らかな弧を描いて答えてくれた。
「もちろんでございます。いつだって、真っ先に目を通していらっしゃいますよ。お嬢様に関する報告書にも、坊ちゃまから届く報告書にも」
「左様でございましたか」
その返答を聞いて、無意識に入っていた肩の力が抜けた。昨日の公爵様の様子を見ていてなんとなく感じていたが、アレックから直接その言葉を聞けたことで、胸の奥が少し軽くなった気がした。
「変わりましたね」
「お嬢様ですよね。他の方にも何度かそのようなことを言われました」
「クローディアお嬢様ではなく、フィリア、貴女のことですよ」
「わたくしが、ですか……?」
思いもよらなかったその言葉に、わたしは上手く意味を飲み込めずに視線をさまよわせる。そんなわたしの様子を見て、アレックは柔らかく目を細めた。
「良い主従関係を築けているようで何よりです」
「え……あ、その」
真正面から告げられて、恥ずかしいやら困惑するやらでうまく言葉が出てこない。
「では、家庭教師の希望がありましたらお教えください」
アレックが立ち去ったあとも、少しの間その場から動くことができなかった。
「フィリア、これ何?」
アレックから受け取った家庭教師の候補の一覧をお嬢様に渡したのは、朝食の後。食後のお茶を手にしたまま、お嬢様は首を傾げた。
「家庭教師の候補を記したものです」
「ふーん、誰の?」
「お嬢様の家庭教師でございます」
呑気にお茶を飲みながら、お嬢様は「へー」と気のない返事をする。
「……え、家庭教師? わたしの?」
もしやとは思っていたが、やはりちゃんとわたしの話を聞いていなかった。ため息を飲み込んで、再度同じ説明を口にする。
「なんで急に家庭教師?」
「急ではありませんよ。お嬢様くらいの年頃のお子様は皆、家庭教師が付けられるものです。むしろ遅いくらいですよ」
「じゃあなんで、わたしには家庭教師がいなかったの?」
「……お嬢様が解雇したからですよ」
気を抜くと、主に向けてはいけない目を向けてしまいそうだ。
「えーっと、そ、そうだっけ……?」
視線を泳がせて、誤魔化すような笑みを浮かべるお嬢様を見て、堪えきれないため息が小さく零れた。
「それで、ご希望はございますか? お嬢様の意見を尊重してくださるとのことでしたよ」
「希望って言われても……」
困った様子で書類と向き合うお嬢様の正面から、わたしも再度覗き込む。フェリクスが作成したとだけあって、必要な情報が全て記されている。似顔絵まで添えられている徹底ぶりだ。
候補として記されている名前は五名。全員がアカデミーを優秀な成績で卒業しており、中には王族の家庭教師を務めた経験を持つ者までいる。公爵家の令嬢の家庭教師なのだから、それなりの肩書は必要となるが、よくもこれほどの人材を集められたものと感心せずにはいられない。
「とりあえず、この人は嫌」
「アカデミーの講師をされたこともある方ですよ?」
広く名前を知られているし、当然わたしも何度も耳にしたことがある。大金を払ってでも家庭教師として雇いたいと望む者も多いと聞く。そんな人物が、真っ先に除外された理由がよくわからない。
「だってその人、いずれ敵になるんだもん」
「……そうなのですか」
「そうなの」
そうなのか。お嬢様が仰るのなら、そうなのだろう。
深く考えることを放棄して、除外された一枚をテーブルの上からそっと回収した。
「うーん、わたしが決めてもいいなら、この人かな」
「参考までに、選定の理由をお訊きしてもよろしいですか?」
お嬢様が最終的に選んだのは、五名の中では特筆すべき事項のない方だった。フェリクスが挙げた時点で優秀な者であることはわかるが、他の者に比べて圧倒的に記されている内容が少ない。
「こっちの二人も名前を知ってるから」
「えっと……つまり、名前をご存じだから却下したということですか?」
「だってわたしが名前を知っているってことは、少なからずヒロインと関わりがあるってことじゃない。どこで悪役ルートに繋がるかわからないんだから、警戒しておかないと!」
何当然のことを言っているの、とでも言いたげな顔だ。申し訳ないが、その理由は想定外です。
思わず頭を抱えてしまいそうになるも、なんとか肩を落とすだけに留めた。
「……では、もう一方でもよいのでは?」
「こっちの人のほうが顔がいいから。イケメンはどこかでヒロインと関わりがある可能性があるでしょ?」
いえ、意見を求められても非常に困ります。
あくまでも似顔絵ではあるが、残された方が整った顔立ちをしていることは確かだ。しかし、そんな理由で選ばれたとしても困惑するに決まっている。
そして当然、お嬢様の言をそのまま選定の理由として伝えるなどできるわけがない。
フェリクスを納得させる理由を考えなければならない。考えたくない現実から目を逸らすように、わたしは静かに天井を見上げた。




