家庭教師
飛んできたペンが髪をわずかに掠め、そのまま背後の壁にぶつかった。準備された専用の教科書は床に投げ捨てられ、更に上からインクをかけられたことでもう読むことは難しい。
幼い子どもが持ちうる限りの語彙でまくし立てる暴言は、冷静になれば拙く可愛らしいものだったのかもしれないが、そんな判断ができるだけの余裕はなさそうだ。
頭に血が上っている彼の理性を引き留めているのは、やはり立場の差であろう。いくら子どもとはいえ、目の前にいる少女は公爵家のご令嬢。
だから、彼はただ耐えるしかできないのだろう。
そんな光景を、わたしは壁際に立って眺めていた。こちらにまで被害が出ないように、静かに気配を消して。
今から一年ほど前の出来事だ。
そして現在、件のご令嬢は大人しく椅子に座り、家庭教師が来るのを今か今かと待ちわびている。
あまりの違いに、過去のあれらは夢だったのだろうかと自分を疑いたくなってしまう。
場所は公爵家の西側に位置する談話室の一室。まだどのような人物なのかわからないこともあり、扉の外には騎士が二名配備されていた。
「フィリア、家庭教師って何を教えてくれるの?」
くるりと顔を横に立つわたしに向け、その夕空のような瞳で見上げる。
「そうですね。一般的には文字の読み書きですとか、算術なのですが……」
ただお嬢様は、文字の読み書きは問題なくできるし、桁数の多い計算も難なく解くため、その辺りの授業は必要ない。しかし貴族に必要な常識というか、当然知っているであろうことの知識が所々抜け落ちている節がある。
遠回しにアレックを通じてそのことについては伝えているため、家庭教師もそれを把握しているはずだ。
「恐らく、歴史や地理などについて教えてくださると思われます」
「歴史や地理かぁ」
そんな会話をして待っていたら、扉を叩く音が聞こえた。外で待機している騎士の一人が扉を開けて、後ろにいた男性を中へと入れる。
入ってきたのは、どこか落ち着かない様子で目を泳がせる若い男。長い前髪で目の半分が隠れている。似顔絵で見た通りの人物だった。
「お初にお目にかかります。リーベルト公女様にご挨拶申し上げます」
片膝を床につき、胸の前で腕を交差させて視線を下へと向ける。挙動こそ不審であったが、お手本のような所作は家庭教師として採用されるだけある。
そっと顔を上げた際に前髪が流れ、お嬢様の姿を静かに映した。
「この度家庭教師の任を拝命いたしました、ディオンと申します」
「家庭教師を引き受けてくれてありがとう。どうぞよろしくお願いいたします、ディオン」
そしてお嬢様の作法もまた完璧だ。ふわりと微笑むその表情は、公爵家のご令嬢に相応しい立ち振る舞いである。
名前を口にしたことで、ディオンはゆっくりと立ち上がった。その際、一瞬お嬢様の手元へと視線が向く。正確には、机の上に置かれたペンとインク瓶だろうか。
「ええと、本日は初回でありますので、その……領地と王都に関する基本的なご説明をしたいと存じますが、よろしいでしょうか……?」
忙しなく動く瞳は、何度もお嬢様の後ろに立つわたしを映す。さすがにそこまで露骨な態度を取られると、どれだけ鈍い者でも察することができる。
つまりはこのディオン、お嬢様の噂を耳にしたか、もしくは癇癪を起こすところを実際に目にしたことがあるのだろう。
わたしが知っているだけで解雇した家庭教師は三名、その理由はどれも理不尽なものだった。しかし例えどんな理由であろうと、公爵家の家庭教師を解雇されたという事実だけで評判は地に落ちるもの。
だから警戒しているのだ。お嬢様の機嫌を損ね、自分も同じ道を辿るかもしれないと。最初に見せた挙動不審な様子も、そのせいだと仮定すると得心がいく。
はてさて、そんなことにまったく気づいていないお嬢様は、机の上に広げられた地図に目を輝かせて覗き込んでいる。
「まず、中心にあるのが王都です。そして王都を囲む三つの領地を治めているのが、王族の庇護を受ける家門でございます」
地図を指で示しながらディオンが口にする説明は、この国に住む者なら誰もが知っている基礎的なもの。
「そんなこと知ってるわよ」
案の定、お嬢様の口から紡がれたその言葉に、ディオンの肩がわずかに上下した。
それに続く言葉は予想できる。馬鹿にしないで。そんなくだらないこと聞きたくない。きっと、感情的にそんなことを喚き立てるだろう。
……少なくとも、以前のお嬢様ならそうだった。
「ここがリーベルト領でしょ。で、ヴァミリオン領、アランティス領」
地図から顔を上げたと思ったら、その顔は後ろで控えているわたしに向けられた。得意げなその表情からは、「どう?」と胸を張っている様子が透けて見える。
ただ、得意げなところ大変恐縮なのだが、地図にはきちんと領地名が書かれている。そして今は授業中、見るべき相手はわたしではない。
視線だけの無言の訴えはどうやら正しく伝わったようで、慌てて正面へと向き直った。取り繕う笑顔と共に、再び地図上に指を添わせる。
「あ、ええっと、リーベルト領は騎士が強いのよね?」
「……え、は、はいっ。その通りでございます」
お嬢様の一連の行動にぽかんとしていたディオンは、素早く姿勢を正してお嬢様と向き合うも、その瞳の奥にある戸惑いの彩は隠しきれていない。
「では、その理由はご存じでいらっしゃいますか?」
まだ声に固さが残っている。お嬢様の些細な言動にも細心の注意を払い、慎重に言葉を選んでいるのだろう。
「騎士が強い理由? 公爵様が、騎士団長だから……?」
わからないのか、先ほどの自信満々な声よりも明らかに小さい。窺うようにディオンに向ける目は、どことなく不安そうだ。
「そうですね、それも理由の一つです」
最初よりも幾分和らいだ声。ぱっと顔を上げたお嬢様は、不思議そうに首を傾げた。
「リーベルト領の騎士団は、有事の際は王族の盾となり剣となります。初代の領主は、そういう盟約を王族と交わされました。騎士団を動かすことは、領地そのものを動かすことと同意。ですのでリーベルト領の公爵は、代々騎士団の長を務めているのです」
そこから自然に、リーベルト領の歴史の説明へと入っていく。
お嬢様はディオンの話を聞きながら、時折「へぇ」と小さな相槌を打つ。恐らく、全ての説明をきちんと理解しているとは言い難い。興味がある部分、そうでもない部分が反応の違いでよくわかる。
それでもつまらないと席を立たない。物に当たらない。話を遮ることもせず、大人しく座って耳を傾けている。
ディオンの目に宿る困惑は、先ほどよりも明らかに大きくなっていた。しかし、最初とは違って、そこに恐怖の類いは見えない。
二人分のお茶の用意をしながら、少々ぎこちない授業風景を眺める。ペンが飛んでくることがなければ、教科書が投げ捨てられることもない、平和な風景を。




