行動の意図
少し前まではしゃいでいたが、寝台に横になった途端驚くほどあっさりと眠ってしまった。先ほどの不可解な興奮も相まって、余計に疲れてしまったのだろう。
静かにお嬢様の部屋を出た先で、待ち構えるように一人の男性が立っていた。
柔らかな笑みを浮かべた表情から優しい印象を受けるが、赤みの強い茶色の瞳の眼光は鋭く、目が合うだけで妙に緊張してしまう。白い髪はきっちりと整えられ、背筋を伸ばした姿勢のおかげで年齢よりもずっと若々しく見える。
「フェリクス様、クローディア様ならもうお休みになられました。何が御用がありましたでしょうか?」
「用があるのは貴女です」
「わたくしに、ですか?」
公爵様が不在時の報告書はすでに提出してあるし、予算管理書は現在確認待ちの最中だ。最近のお嬢様は特に無駄遣いはしていないし、食器類の破損報告書も作成しなければならないものはない。もしやそれらに何か不備でもあったのだろうか。
「公爵様がお呼びです。執務室へお越しください」
有無を言わせない雰囲気に、ごくりと喉を鳴らす。それ以上この場で説明するつもりはないようで、先を行くフェリクスの背中に続いて足を動かした。
公爵様とまともに顔を合わせたのは二年前、わたしがリーベルト公爵家に雇用された時だけだ。その際も雇用に関する契約の類いを説明してくれたのはフェリクスで、公爵様自身と直接言葉を交わしたことは一度もない。
お嬢様に関する日々の報告はすべて書面で済ませ、それに対する回答を貰えたことすらもなかった。恐らくは目を通しているのはフェリクスを始め、公爵様の側近であり、よっぽどの問題でも起きない限り公爵様の元へ届くことはないのだろう。
執務机に座り、書類と向き合っている公爵様は、わたしが入ってきても顔を上げることはない。立場上わたしから声をかけることはできないため、ただ黙って待ち続けた。
「先ほどのあれは、其方の差し金か」
書類に目を落としたまま発せられた無機質な声に、感情は一切感じられない。怒鳴られたわけではないのに、背筋が凍える感覚を覚える。
なるほど、誰が言い出したのかは知らないが、氷結公爵とはよく言ったものだ。
氷のように冷ややかな眼差しは、わたしの姿を映すことすらしようとはしない。ペン先が紙の上を滑る音だけが、やけに大きく聞こえた。
緊張故か震える手を強く握り締める。出ることを躊躇う声を叱責するように、小さく息を吸った。
「はい。左様でございます」
先ほどのあれとは、お嬢様が公爵様の出迎えをした件で間違いない。公爵様の考えは理解できる。同じ敷地内で暮らしながら顔を合わせることすらしなかった娘が、突然近づいてきたのだ。不信に思う気持ちはわかる。
……わかるけど、納得はできない。
ただ帰りを待っていただけなのに。ただ一言、声をかけたかっただけなのに。父親に、会いたかっただけなのに。
哀しみ、怒り、諦め。色々な感情が混ざり合って、なんだか悔しくて泣きそうになる。
行き場のない感情を押し殺すように、未だこちらを見ることをしない公爵様へ真っ直ぐ目を向ける。
「クローディア様から公爵様と仲良くなりたいとご相談を受け、挨拶をしてはいかがかと助言いたしました。ご不快に思われたのでしたら、大変申し訳ございません」
「あの子が……」
深々と頭を下げるわたしの耳に、そんな声が届いた。そっと目だけを動かして様子を窺うが、公爵様の態度に変化は見られない。
わずかに驚いたような響きがしたが、聞き間違えだろうか。
「其方を罰するつもりはない。行動の意図を知りたかっただけだ」
下がっていいというという声を受け、一礼してから公爵様の執務室を後にする。
普段と変わらない足取りで廊下を歩き、自室へ戻ったところでようやく思い出したように深く息を吐き出した。足の力が抜けて、その場にずるずると座り込む。
感情の起伏が少なく、何を考えているのかよくわからなかったが、怒りや不信感を抱いているようには見えなかった。本当にお嬢様の行動の真意を知りたかっただけなのか、その判断すらもできない。
ただ少なくとも、わたしが今すぐに解雇されることはないだろう。
……その事実を確認できただけで、今は十分だ。
公爵様が帰還されて三日も経てば、屋敷内は普段と変わらない落ち着きを取り戻す。
常にお嬢様の傍にいるわたしはそう感じているが、フェリクスを始め公爵様の側近は忙しそうだ。公爵様との面会を求める書簡が増え、来客の予定も頻繁にあるようだった。
公爵様本人は執務室にこもって仕事をしており、あの日以来お嬢様と顔を合わせることはしていない。お嬢様も自ら会いに行くことはせず、結果、公爵様と仲良くなろう作戦とやらは遅々として進んでいなかった。
「フィリア」
まだ夜が明ける前から、屋敷に仕える者たちは動き出す。
主を気遣うように控えめに灯された屋敷の一室に集まったのは、使用人の中でも何かしらの役職を持つ者だけだ。
使用人を束ねる立場でもあるフェリクスは毎日必ず、こうして一日の予定を全員に周知する。
本日の来客の中には仕立て屋の名前もあった。お嬢様の衣装を新調したいといった内容を報告書に入れていたが、こんなに早く呼ぶだなんて。フェリクスの仕業だろうか。
今突然知らされても、何の準備もできていない。せめて前日には知らせていてほしかった。そんな決して口にはできない不満を溢していると、フェリクスは最後にわたしを名指しした。間違いなく、フェリクスの目はわたしを映している。
「公爵様は本日、広間で夕食を召し上がるご予定です」
その言葉に目を見開いたのは、わたしだけではない。表情には出さずとも、この場にいる全員に動揺が広がったのがわかった。
お嬢様が普段自室で食事を取るのと同様に、公爵様も自身の執務室などで食事を済ませることが常だ。少なくとも、わたしが公爵家に来てからの二年間、食事のために広間を使われているのを見たことがない。
そしてさらに、そのことをわざわざ、わたしに向けて告げたということは、つまりはそういうことなのだろう。
「承知いたしました」
驚き、戸惑い、混乱。様々な感情を押しやって、わたしは深く一礼した。




