氷結公爵
すっかり図書室に通うことが日課になったお嬢様をお送りして、その間に細々とした仕事を片付けることがわたしの日課になった。
公爵様が不在の今、領地を管理する役割は本来長女であるお嬢様が担うこととなる。しかしまだ幼いお嬢様に任せることはできず、公爵様の補佐を務めているフェリクスに、ほとんどが任されていた。
公爵様が後添いを迎えてくれればいいのだろうが、今のところその気配は微塵もない。わたしは公爵夫人のことを存じないが、とても優秀で美しい方だったらしい。
「……あら?」
窓を叩く小さな音に気付いて目を向けると、白い鳥が一羽、外からじっと訴えるようにこちらを見ている。窓を開けると、一歩近寄ってきた。
この鳥は、騎士の連絡手段として活躍している子だ。空を飛んでいる姿をよく見かけていたが、まさか自分の元へ尋ねてきてくれる日が訪れるとは思ってもいなかった。
慣れない手つきで足に付けられた筒にそっと触れると、底が開いて丸められた小さな紙が滑り落ちてきた。
わたしが手紙を受け取ると、目的は果たしたとばかりに、あっさりと翼を広げて空へと飛び去る。話には聞いていたが、本当に賢い鳥だ。
手紙の送り主は、どうやらリュークらしい。手のひら程の大きさの羊皮紙には、公爵様の帰還の予定が簡潔に綴られていた。
以前お願いしたことを覚えていただけでなく、律儀にこうして知らせてくれるとは。つくづくいい方だと実感する。同じ屋敷で働く人の中に、このような人がいてくれるというのは、とても心強くありがたいものだ。
「え? 三日後?」
「はい。正確な時間まではまだわからないそうですが、公爵様は三日後にご帰還されるそうですよ」
昼食の給仕をしながら、先程入手したばかりの情報を早速お伝えする。公爵様に会いしたそうにしていたからてっきり喜ぶかと思いきや、お嬢様は難しい顔で思案するように黙り込んだ。
「お嬢様、如何されましたか?」
「お疲れ様ですと会いたかった、どっちがいいと思う?」
「……はい?」
またしても意図を理解できない質問をされ、思わず首を傾げる。
「公爵様をお出迎えする時になんて言えばいいかなって。やっぱりまずは労うべき? でも愛嬌をアピールするなら、会いたかったも捨てがたい……」
相変わらず、どうでもいいことでお悩みになるお嬢様だ。どちらがよいかと考え込むお嬢様の様子を見て、こっそりと息を漏らす。
そんなことよりも、もっと相応しい言葉があるだろうに。候補にすら入っていない辺りが、実にお嬢様らしいというか何というか。
「おかえりなさい」
「え?」
「まずはそう申し上げるのが一番よろしいと、わたくしは思います」
何を言われたのかわからないという顔をしたすぐあとに、憂いげに目を伏せた。
「でも……わたしがそれ、言っても……いいのかな」
「何を仰っているんですか」
お嬢様の前で膝をついて、小さく柔らかな手を包み込むように握る。不安そうに揺れる瞳は日が沈む前の僅かな時間だけ見られる空の色をしていて、相変わらず見惚れるほどに綺麗だ。
「今このお屋敷にお嬢様以外で、公爵様にこの言葉をかけるに相応しいお方はおりませんよ」
本来なら侍女が気安く触れるなど、許される行為ではない。以前のお嬢様なら、そんなことをしようものなら問答無用で首を切られていたことだろう。以前のままならわたしだって、お嬢様に触れるなんてしようとも思わなかった。
お嬢様が変わられた影響を、少なからずわたしも受けているのかもしれない。
いつも通りの日々を過ごし、本日は公爵様が帰還される日となった。屋敷中の人間が朝から大忙しであり、当然わたしも準備に追われている。
「公爵様が帰って来るのは午後なんでしょ? 何もこんなに早くから準備しなくても」
普段よりも早い時間に起こされ、朝から湯浴みをさせられたおかげで、お嬢様は大変不満そうだ。
「ご帰還されるまでに、屋敷の中を清掃しなければなりませんので」
「いつも綺麗じゃない」
「公爵様のお部屋を整え、不在の期間の報告をするための報告書をまとめ、執務室へ必要な書類を運び込み、会談を望んでいる貴族へ帰還の知らせを送らなければなりません。他の者の手伝いをするために、お嬢様の身支度を早くからしているのです」
「……つまり、今日は図書室へは?」
にっこりと笑みを浮かべて、もうとっくに察しているであろうことを改めて口にして釘を刺す。
「お嬢様はお部屋で、大人しく読書でもしていてくださいませ」
お嬢様の侍女ではあるが、わたしはあくまでも公爵家に雇われている身。仕える相手はお嬢様でも、主人は公爵様だ。
部屋から出るなという意味は正しく伝わったようで、表情には出しても実際に声に出すことはない。渋々といった様子で大人しく読書を始めたお嬢様を残して、忙しく動く者の中に加わった。
当初は昼食前には帰還するということであったが、未だ帰ってくる様子はない。
何か事件にでも巻き込まれたのなら伝令が飛んでくるだろうし、そもそも公爵様には精鋭ぞろいの騎士団が護衛を務めている。滅多なことは起こらないだろう。
「公爵様は、まだ帰って来ないのね」
時間が過ぎるごとに予定がころころと変わるため、使用人達が慌ただしく屋敷内を走り回っている。
「もしかしたら、お帰りは明日になるかもしれませんね」
出迎えるために、屋敷の近くになったら連絡が来る手筈になっているが、それも未だにない。せっかく朝から湯浴みをし、髪をいつも以上に丁寧に漉き、お嬢様を磨き上げたというのに。
「もう時間も遅いです。ご挨拶は明日にして、本日はお休みなさいませんか?」
就寝の時間を過ぎても公爵様が戻られたという連絡は来ない。何度か寝るように声をかけたが、なかなかお嬢様は首を縦には振らなかった。
「でも……」
すでに目は半分閉じていて、体は前後にふらつき、今にも寝てしまいそうだ。普段よりも早くに起こされたこともあり、眠気はとっくに限界を迎えている。寝台で横になれば、あっという間に寝てしまうことだろう。
どうしたものかと内心でため息をついた時、窓の向こうに白い鳥が止まった。コツコツと嘴で硝子をつつき、すぐにまた飛び去って行く。
「お嬢様、公爵様が帰って来られたようですよ」
「本当に⁉」
閉じていた目がぱちりと開いた。ガタリッと音を立てて椅子から立ち上がったお嬢様は、今にも駆け出しそうだ。
「お嬢様、走ってはなりません」
「でも、早く行かないとっ」
「大丈夫です。ゆっくり向かっても十分間に合いますよ」
お嬢様と共に廊下を歩いていると、玄関へと近づくにつれて徐々に人の声が聴こえてくる。玄関へと辿り着いた時、丁度外套を脱いでいるところだった。
公爵様の姿を目にして、お嬢様の口から「あ」と小さな声が漏れる。その声が聴こえたのかはわからないが、不意に公爵様の顔が動いた。
青みがかった銀色の髪が揺れ、濃い青の瞳が真っ直ぐにお嬢様へと向けられる。
遅れてお嬢様の登場に気づいた使用人達が、公爵様の前を譲るように横へとずれたことで、真正面から公爵様と向き合う形となった。
久しぶりに娘の姿を目にしたというのに、公爵様の表情は一切変わらない。氷のような冷たい眼差しに、お嬢様が半歩後ずさった。
「お嬢様」
緊張しているのか、それとも恐れからか。わたしの服の端を掴むその手は、小刻みに震えている。お嬢様にだけ聴こえる声でそっと囁き、俯くお嬢様の肩に手を乗せる。
大丈夫だなんて、無責任なことは言えない。わたしができることは、ただお嬢様の側に控えるだけだ。
ごくりと小さく喉を鳴らしたお嬢様は、顔を上げてそっと口を開いた。
「お、おかえりなさいませ」
「……何故、まだ起きている」
それだけ。すぐに目を逸らし、もうお嬢様の方を見ようとはしない。ごめんなさいというお嬢様の声は、きっと公爵様まで届いてはいないだろう。
「お嬢様、お部屋に戻りましょう」
俯いているお嬢様を促して、来た道を引き返す。その道中、お嬢様が口を開くことはなかった。
公爵様が忙しいことは理解している、遅くまで起きていることを咎めただけなのかもしれない。それでもせめて、ただいまの一言くらいあってもいいのではないだろうか。お嬢様は公爵様を出迎えるために、眠い中頑張って起きていたのに。
「……あの、お嬢様」
自室に戻っても顔を上げることがない。肩に添えた手から伝わる震えに、泣いているのではないかと不安だけが募る。
わたしが余計なことを言って、お嬢様を傷つけてしまった。挨拶をすればいいだなんて、気軽に提案してしまったばかりに。
「ねえ、フィリア」
なんて声をかければいいのかわからなくて、せめて謝罪しなければと口を開くも、ぽつりと呟いたお嬢様に遮られた。
「見た、さっきの公爵様の表情!」
ばっと勢いよく顔を上げたお嬢様は、きらきらと瞳を輝かせ、頬は興奮故か上昇し赤みを帯びている。
「…………」
「娘に一切興味がないことがわかる冷たい目! 感情のない声! 想像していた通り! さっすが、氷結公爵の異名は伊達じゃないわね!」
きゃっきゃと嬉しそうにはしゃぐお嬢様を、呆気にとられて眺める。
……えっと、その、はい。
仰っている意味はよくわかりませんが、気にされていないようで何よりです……?




